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呉1


孫権の人物像
 正史の孫権は、複雑な人物像を持つ。
 まず、酒宴を好む、豪放に振舞うなどのイメージがあり、感情型の性格に見える。また、虎狩りに熱中したとされる。

 孫権はその一方で、学問、読書を好む。その素養の元、日々政治に尽力する。
 例えば、大臣の顧雍に絶えず諮問。よく熟慮して国政に当たったという。外交では、蜀の費禕(ひい)や鄧芝と対話し、常に冷静に話し合った。
 このように、理性型の面も目立つ。


 後に、呉王朝では、儒家の名士が台頭。孫権は彼等とあまり合わず、次第に横暴になる。
 孫権にとって、家臣たちと酒宴を楽しんでいた日々が、最も心地よかったのだろう。孫権は、どちらかと言えば、やはり感情優位型と思われる。




本拠地の変遷
 孫権は三代目で、最初から地盤あり。曹操・劉備に比べると、それほど紆余曲折はない。
 しかし、本拠地は結構変えている。以下で要約。


 孫権は、孫策の跡を継ぐと、会稽太守の任に当たった。(正式な任命は少しあと。)自身は赴任せず、呉県(揚州呉郡)にあって政務を見た。

 曹操が長江に進出すると、孫権は柴桑(さいそう)県に移り、国境地帯をまとめる。(揚州豫章郡。)劉備・諸葛亮はここに来訪。
 赤壁戦のあと、孫権は呉県に戻り、ほどなく建業県(揚州丹陽郡)に移った。

 孫権は後に、関羽を打倒し、劉備との関係が不穏になる。孫権は武昌県(荊州江夏郡)に移り、国境地帯をまとめる。
 やがて、この地で呉王朝を開いたが、年内に建業県に遷都した。

 なお、建業は元「秣陵」、武昌は元「鄂」。どちらも孫権が改称(本拠地に据えた際)。




呉の体制
 呉という国家は、江南を主な領土とした。
 江南とは、「長江の南東の地域」を意味する。江東とほぼ同義。

 江東は未開の地が多く、豪族たちは屯田を行う。屯田とは、簡単に言えば、荒地の耕作。兵士、募集民などが従事した。
 一方、孫家に仕える諸将は、与えられた封土から収税。足りない部分は、屯田をもって補った。(封土の制度はやがて廃され、以後は屯田に集中。)

 つまり、孫家を支える豪族・諸将は、地方領主という性質を持っていた。(屯田や収税。)孫家は、彼等の盟主のような立場だったという。




山越たち
 山越とは、江南の山地の異民族。特定の民族ではなく、総称である。

 山越たちは原住民。事実上、漢人の行政から離れ、独立が黙認されていた。狩猟、採集、農耕をもって生活していたという。(また、漢人の避難民も共存していた。)

 呉の地方領主たちは、(孫家の支援の元で)彼等を征服していき、労役や軍役に当てる。(特に、屯田の労働力として使役。)恭順しなかった場合は、討伐を行った。
 山越は、いずれ併呑されるのが、歴史の趨勢。しかし、孫家のやり方は、得てして強引、急激だった。
 呉は魏に対抗するため、国力を強化する必要あり。しかし、そういう事情は、勿論山越には関係ない。山越からすれば、呉が悪だっただろう。


 山越は三国時代ののち、三百年ほどかけて、漢人と同化される。




人格の記述
 呉は基本的に、開発途上の国。軍事色も強い。
 一方で、呉の人物は、人格に関する記述が目立つ。

 例えば、周瑜・魯粛は度量があり、張昭・陸遜は道理を重んじた。また、顧雍は誠実を貫き、諸葛瑾は配慮を備え、駱統は絶えず忠言した。彼等はいずれも、名家出身の知識人。
 更に、武将の陳武、凌統、蒋欽なども、人徳をもって知られる。(但し、甘寧、潘璋のような粗暴な武将もいた。)

 孫家の元には、人格を兼備した人材が集まっていた。彼等の存在が、江南(新興地域)に一定の秩序を生み出していた。




呉の丞相
 孫権は、まず呉国(魏王朝の藩国)の王となり、後に呉王朝の皇帝となる。
 呉王朝は、呉国の体制を継承している。ここでは、合わせて呉と総称。

 呉の丞相(首相)は、「孫邵→顧雍→陸遜→歩隲」と移る。
 孫邵は呉国時代。(因みに、孫権の一族ではない。)
 顧雍は、まず呉国の丞相となり、呉王朝成立後、そのまま王朝の丞相となった。

 なお、呉国成立時、諸臣は張昭を丞相に推薦。しかし、孫権は、「重荷を背負わせたくない」と拒否している。(一説に、「張昭の名声が上がるのを警戒した」といわれる。)




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