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一方、近年の作品では、袁紹の評価は上がっている感がある。北方三国志、中国ドラマ「曹操」(2013年版)では、しっかりした人物として描かれる。
以上の中で、蒼天航路だけ浮いている。
袁術支配下の沛国では、舒仲応が国相を務めていたが、勝手に軍糧を散じて救民。
袁術は当初怒ったが、結局感嘆して追認し、同時に、自身の名声も高めようとした。
しかし、袁紹ならば、端から民の窮状を放置しなかったと思われる。袁紹は、袁術のように無軌道ではなく、統治体制は十分盤石だった。
呂布の軍は、ある程度の規模だったと思われる。呂布は個人的武力に加え、軍の編成にも長けていた。
その後、呂布は徐州に割拠。しばらく勢力を保ったが、曹操に敗れて滅亡する。
当時の呂布陣営は、派閥構造が混乱し、諸将は互いを猜疑したという。以前と異なり、組織は複雑化し、呂布はそれをまとめ切れず。
なお、陳寿は、呂布を「軽狡」と評している。応変に動く反面、地盤を固めることには、あまり向いていなかった。
もし、参謀の陳宮を信任していれば、色々違ったと思われる。
呂布が曹操の攻撃を受けたとき、張楊は救援したいと思ったが、余裕がなかった。(張楊は当時、河内郡(司隷)の太守に在任。呂布は徐州。)
そこで張楊は、一万の兵を率い、河内郡の端に駐屯。数百km離れた呂布に対し、連日声援を送ったという。
一方、馬騰・韓遂は羌族と結託し、独自の勢力を築く。
かつて、後漢の初期、班彪がこう上奏。「現在涼州では、降伏した羌族が、漢人と共に住んでいます。漢人とは風俗が異なり、言葉も通じません。日々、漢の役人達から、迫害を受けています。彼等が反乱するのは、全てこれが原因です。」
そして、羌族の反乱は、三国志の時代まで続いた。
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後漢3
袁紹の描かれ方
吉川三国志・柴錬三国志の袁紹は、豪気、冷徹な人物。反面、偏狭という性質も強調される。実力者だが、欠陥もある君主、という描き方。一方、近年の作品では、袁紹の評価は上がっている感がある。北方三国志、中国ドラマ「曹操」(2013年版)では、しっかりした人物として描かれる。
袁術の描かれ方
吉川三国志では、「豪放、粗剛」。柴錬三国志でも似た感じ。「天地を喰らう」、李志清「三国志」では粗野。「蒼天航路」では愚かな公家。「覇Lord」では粗暴。以上の中で、蒼天航路だけ浮いている。
袁術の性格
袁術は奇(非凡な行為)を好む。また、奇をもって名声を得ることを好む。袁術支配下の沛国では、舒仲応が国相を務めていたが、勝手に軍糧を散じて救民。
袁術は当初怒ったが、結局感嘆して追認し、同時に、自身の名声も高めようとした。
しかし、袁紹ならば、端から民の窮状を放置しなかったと思われる。袁紹は、袁術のように無軌道ではなく、統治体制は十分盤石だった。
呂布の統率能力
曹操と呂布は、兗(えん)州を巡って抗争し、三か月対峙。「程昱伝」には、呂布が優勢だったことが記される。呂布の軍は、ある程度の規模だったと思われる。呂布は個人的武力に加え、軍の編成にも長けていた。
その後、呂布は徐州に割拠。しばらく勢力を保ったが、曹操に敗れて滅亡する。
当時の呂布陣営は、派閥構造が混乱し、諸将は互いを猜疑したという。以前と異なり、組織は複雑化し、呂布はそれをまとめ切れず。
なお、陳寿は、呂布を「軽狡」と評している。応変に動く反面、地盤を固めることには、あまり向いていなかった。
もし、参謀の陳宮を信任していれば、色々違ったと思われる。
呂布と張楊
いずれも、并(へい)州の北部の出身。辺境の地域。呂布が曹操の攻撃を受けたとき、張楊は救援したいと思ったが、余裕がなかった。(張楊は当時、河内郡(司隷)の太守に在任。呂布は徐州。)
そこで張楊は、一万の兵を率い、河内郡の端に駐屯。数百km離れた呂布に対し、連日声援を送ったという。
異民族の反乱
涼州では、羌族が度々反乱。董卓がこれを討伐する。一方、馬騰・韓遂は羌族と結託し、独自の勢力を築く。
かつて、後漢の初期、班彪がこう上奏。「現在涼州では、降伏した羌族が、漢人と共に住んでいます。漢人とは風俗が異なり、言葉も通じません。日々、漢の役人達から、迫害を受けています。彼等が反乱するのは、全てこれが原因です。」
そして、羌族の反乱は、三国志の時代まで続いた。