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後漢2


公孫瓚の実像
 公孫瓚は、幽州に割拠した武将。袁紹と長年抗争し、手こずらせた人物。
 「三国志演義」では、良識的な性格に描かれる。得てして、袁紹の方が悪辣な印象を与える。当初、袁紹が公孫越(公孫瓚の弟)を暗殺して挑発し、公孫瓚が報復を開始。袁紹は強大な軍事力で、これを叩くというストーリー。

 史実では、公孫越は、袁術の客将になっていた。(袁術と公孫瓚は協力関係。)袁紹が袁術に戦いを仕掛けると、公孫越は迎撃したが、その最中に討死する。
 これは、袁紹にとって予想外。公孫瓚が怒ると、袁紹はまず懐柔を試みる。公孫瓚は猛々しい武将で、その軍も精強だった。

 その後も、公孫瓚は態度を変えず、冀州の各地を侵略。袁紹はここで腹を決め、軍を整えて迎撃し、界橋(冀州中部)で勝利する。




袁紹の参謀たち
 袁紹には、多様な参謀あり。まず、沮授は重鎮の筆頭。絶えず、戦略の立案、政治上の決定に関わった。魏でいえば、荀彧に相当すると思われる。
 沮授はまた、諸軍を管轄し、軍政に当たった。この点、呉の周瑜、魯粛に近い。

 田豊は、他勢力(公孫瓚)の攻略で活躍。恐らく、戦術にも長けていた。魏でいえば、荀攸に相当する。
 また、許攸は、柔軟、応変に策を出す。魏でいえば賈詡。

 郭図と審配は、沮授同様、幅広い裁量権を有した。しかし、沮授に比べ野心が強く、見識は少し落ちる。他に辛評という人物がおり、常々郭図と結託。
 逢紀は許攸同様、策士というタイプ。加えて、政務に長けていた。一方では、讒言(ざんげん)を好んだという。

 また、忘れられがちだが、荀諶という参謀あり。(荀彧の兄。)韓馥(かんふく)を説得し、袁紹に帰服させた人物。曹操征伐時は、田豊・許攸共々、「謀主」に任じられている。




袁術の領地
 袁術の勢力圏の推移を、当初から追ってみる。


 袁術はまず、魯陽県(荊州南陽郡)を本拠としたが、寿春県(揚州九江郡)に移る。(寿春は揚州の首都。)九江太守には、陳紀という人物を任命。
 また、孫策に命じ、廬江郡(揚州)を制圧させる。その後、子飼いの劉勲を廬江太守に任じる。
 劉備が徐州に割拠すると、袁術は徐州に侵攻し、広陵郡を制圧する。呉景をその太守に任じた。

 袁術はまた、豫(よ)州にも手を伸ばし、舒仲応を沛国の相、孫香を汝南太守に任命。(孫香は孫策の一族。続柄不詳。)但し、沛国の北部は、劉備が支配している。

 帝位を僭称した頃、その領地は、九江郡・廬江郡(揚州)、広陵郡(徐州)、汝南郡・沛国(豫州)。計五つの郡国。(沛国は南部のみ。)




劉繇の実像
 劉繇は皇族の群雄。江東(長江の東)に割拠したが、孫策に敗れる。
 「三国志演義」では、「太史慈を使いこなせず、失敗を招いた」というように描かれる。
 しかし、史実では、袁術の侵攻を一年以上防いでいる。手腕、人望を十分備え、呉郡にしっかり基盤を築いていた。
 その後、袁術は孫策を起用し、孫策は江東で独立する。


 劉繇は袁術の江東進出を防ぎ、同時に、孫家の飛躍の原因を作った。間違いなく、後漢末のキーマンの一人。
 許子将(人物眼で知られた)とも交流があり、期待されていたという。




袁譚の暴走
 袁紹の長子・袁譚は、本来、恵み深い性格で知られていた。
 しかし、袁紹死後、三子の袁尚が跡継ぎになり、袁譚は次第に鬱屈。
 遂には、袁尚に反逆し、冀州の各地を荒らし回る。

 その後、あまり人望が得られず、配下の諸城も離反。また、幕僚の郭図に、半ば実権を握られていた。
 袁譚は、袁家の中では、真正直で政治下手だったと思われる。

 但し、「後漢書」によれば、かつては支持者が多かったという。




隠れた才人
 李孚(りふ)は、袁尚の主簿。
 袁尚は審配に命じ、本拠地の鄴(ぎょう)城を守らせる。(袁尚自身は、袁譚に当たる。)やがて、曹操が鄴に進軍し、袁尚は救援に戻る。城の包囲は周到だったが、李孚は、城内との連絡役を志願。自在に策を駆使し、この難しい任務を果たした。(鄴はその後、しばらく持ちこたえたが、結局陥落。)
 李孚は後に、袁譚の元に参じ、平原城(袁譚の本拠地)で政務に努める。袁譚敗北後は、曹操の配下に入り、司隷校尉まで昇進している。(その後、陽平太守に就任。)
 なお、以上の事績は、「魏略」に記される。(「三国志」賈逵伝の註に引用。「魏略」では、賈逵・李孚・楊沛を並べ、列伝にしているという。)


 李孚はまず、奇策家。稀有な機略の持ち主。袁尚の元での活躍は、小説「三国志演義」でも描かれ、印象的な一場面をなす。
 また、史実では、司隷(洛陽・長安を含む地域)の統治を任されており、政治にも定評があったことが分かる。  




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