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涼州の出来事3 魏による支配


張既の抜擢
 曹操が張既を起用し、雍州刺史に任じる。(当時の雍州は、西の辺境から洛陽周辺まで及ぶ。首都は長安県。)張既は、政治・軍事双方に長けた能臣。柔軟さ、決断力を兼ね備え、複雑な情勢に対処できる。

 この頃、武都郡(雍州)では、楊阜が太守を務めている。この武都は、蜀との国境地帯。楊阜はあえて大らかに治め、民心の掌握に努める。結果、領内は安定し、蜀に逃亡する者もおらず。


 やがて、劉備の軍が武都に侵入する。張既は、一帯の氐(てい)族の内応を懸念。氐族たちに、北の豊かな地を示し、自主的に移住するよう仕向けた。(彼等は遊牧民族。漢人に比べ、移住を嫌わない。)

 また、武威・張掖・酒泉・西平の四郡が(朝廷を無視して)勝手に抗争。武威郡が曹操に恭順を示し、助力を求めたが、張既は放置を主張する。その後、四郡は共倒れし、混乱は収まる。




再編
 220年、曹丕が曹操の跡を継ぎ、同年、魏王朝を開く。曹丕は、司隷・涼州・并州・幽州を復活させる。雍州は縮小。

 新たな雍州は、「後漢時代の司隷の西部」と「後漢時代の涼州の東部」。即ち、関中を含む一帯。ここより西が涼州、東が司隷という形。
 雍州の新たな所領地は、左馮翊(ふうよく)・京兆・右扶風・新平。(以上、元司隷。)そして、隴西・北地・安定・南安・漢陽・漢興・武都。(以上、元涼州。)


 なお、北地郡は留意の必要あり。
 北地郡は、後漢時代と場所が違う。
新しい北地郡は、左馮翊郡の西部を分離して作られた。(首都の名称は、新旧共に「富平県」。しかし場所は違う。)
 一方、元の北地郡は、ほぼ放棄されている。(魏帝国の領土から除外。)余程荒廃していたらしい。(原因は異民族。)

 この北地郡は、李傕の出身地でもある。李傕がいかに粗野な環境で育ったか、よく分かるだろう。




涼州鎮撫
 あるとき、武威郡(涼州)で異民族が反乱。曹丕は、張既を涼州刺史に任じ、対処を命じる。(涼州の首都は、当時、武威郡姑臧(こぞう)県。)
 張既は陽動作戦、伏兵策を用い、速やかに反乱を平定した。

 酒泉郡、西平郡(いずれも涼州西部)では、羌族が力を蓄え、依然不穏。張既は軍備を整えつつ、彼等を十分に懐柔する。


 かつて、後漢王朝が衰退したのは、西方の混乱が一因。張既は雍州、続いて涼州で刺史を務め、西方の情勢を収拾した。これにより、魏王朝の基盤の一つが確立される。




郭淮の活躍

新しい雍州

襄武は隴西郡の首都。(狄道(てきどう)も隴西郡。)下弁は武都郡、富平は北地郡の首都。また、長安は雍州の首都で、京兆尹の首都でもある。(尹は郡と同じ。)
南鄭(益州)は漢中郡の首都。



 220年、曹丕が郭淮(かくわい)を雍州刺史に任じる。郭淮は、魏を代表する知将の一人。着任後、対蜀の軍備に当たる。

 郭淮はまた、威光を示しつつ、羌族の気持ちをよく慮る。中国の王朝は、強引な漢化政策により、反発を買った例が多々あり。郭淮はそれをせず、相手を理解することを重視。また、兵糧を輸送させる際、家系などによって差別せず、公平に労役を割り当てる。かくて、多くの羌族が恭順した。

 勿論、漢人に使役される時点で、常に不満、反発は生じ得る。また、蜀王朝も、羌族の取り込みに力を入れる。結果、魏に敵対する羌族は、時々現れた。


 やがて、諸葛亮が北伐を開始する。(漢中郡(益州)に本営を設置。)郭淮は蜀将高翔、蜀側の羌族を相次いで破る。
 しかし、第三次北伐では、諸葛亮が武都郡を制圧。(郡の首都は下弁県。)
 第五次北伐では、郭淮は司馬懿を補佐し、防衛に貢献した。

 後には、蜀の名将姜維が、度々北伐を行う。郭淮はその都度、巧みに防ぎ切る。また、羌族が反乱する度、そつなく鎮圧した。




陳泰の活躍
 249年、郭淮は雍州・涼州の都督となる。(曹芳の時代。)二州の軍事を統括。

 一方、陳泰が新たに雍州刺史となる。陳泰は名臣陳羣(ちんぐん)の子。
 陳羣は正統派の儒家官僚で、常に道理を重んじ、中央政府で活躍した。一方、陳泰は人心を重んじ、柔軟さも備え、地方統治に従事。軍才にも優れる。
 陳泰はかつて、并(へい)州刺史を務め、異民族の心をよく掴んだ。雍州に転任すると、郭淮共々、州の防衛に尽力。姜維が麹山に侵攻した際、巧みにこれに対処した。

 255年、郭淮が死去すると、陳泰が新たに雍州・涼州の都督となる。一方、王経が雍州刺史に就任する。王経は優れた官僚。
 同年、王経は姜維の侵攻と対したが、敗れて狄道(てきどう)城に入る。陳泰が迅速に救援し、姜維を撤退させた。
 後に、陳泰は朝廷に入り、政務で活躍する。


 263年、蜀が滅亡。益州北部に、「梁州」が作られる。
 265年、司馬炎が晋王朝を開く。司馬炎は、雍州、涼州、梁州から一部を分離し、合わせて「秦州」を作った。




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