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曹操とその配下

 演義での活躍を要約します。


劉備  曹操  孫堅  袁紹  袁術
董卓  呂布  劉表  劉璋  その他


ソウソウ モウトク
曹操 孟徳
 目は細く髭が長い。元来遊蕩を好んだが、仕官後は法を重んじる。董卓が朝廷を乱すと挙兵し、以後群雄として台頭する。
 性格は厳格で時に冷酷。漢王室をないがしろにする。ずば抜けた知謀、機略を持ち、詩才も有する。また、人材活用の機微を知り、部下の信頼を得る。戦に滅法強く、自ら剣を振るう場面は少ないが、度々陣頭で指揮を執る。
 やがて、魏国(漢の藩国)の王に就任。その死後、子の曹丕(そうひ)が魏王朝を開く。


※正史では、時代の改革者でもある。法治を重んじ、形骸化した儒教社会を打破。一方、漢王朝を支配下に置き、性格も苛烈な面があった(これらは演義と同様)。因みに、正史には、容貌の記述は特にない。


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ジュンイク ブンジャク
荀彧 文若
 参謀の筆頭。呂布反乱時、曹操の本拠地を堅守する。曹操が劉備(徐州を支配)の討伐を考えると、これを制止し、地盤固めの戦略を語る。
 その後、帝の擁立、許都遷都を勧める。更に、「二虎競食の計(劉備に呂布を攻めさせる)」、「駆虎呑狼の計(劉備に袁術を攻めさせ、その留守を呂布に襲わせる)」を献策。
 官渡戦の際は、留守の許都を任される。曹操から撤退の相談をされると、「敵はほどなく乱れる」と返書。その後、曹操は勝利する。しばらくのち、曹操の魏公就任に反対し、疎まれて自殺する。


※正史では、戦略家、政治家として活躍。名族出身の儒者でもある。一方、演義では、冷徹な策略家に見える。


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ジュンユウ コウタツ
荀攸 公達
 荀彧の甥。同じく知恵者。劉表・張繍の動静を見抜き、「先に呂布を討つべし」と説く。後に、延津の戦い(VS文醜)に従軍し、曹操の腹心として画策。また、烏巣(うそう)戦のあと、偽情報を流し、袁紹の軍を分散させる。
 袁譚が曹操に帰順を申し出ると、荀攸は「ひとまず受け入れ、袁尚を倒したのち処置すべし」と説く。また、高幹討伐戦では、「呂曠らに偽の投降をさせる」策を献じ、勝利を導く。
 しばらくのち、曹操の魏王就任に反対し、悶死する。


※正史の方が活躍は多く、個性も際立っている。荀彧に比べ、他国の攻略で活躍。(なお、魏王反対や悶死は、史実ではない。)演義では、荀彧に次ぐ参謀という扱い。


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テイイク チュウトク
程昱 仲徳
 主要な参謀の一人。初め山に隠遁していたが、曹操を主君に選ぶ。呂布反乱時、荀彧と協力し、本拠地を堅守する。
 また、徐州の関羽討伐に従軍。内応策で関羽を城から締め出す。続いて、白馬戦に従軍し、関羽に顔良を討たせることを進言。また、倉亭の戦いでは、「十面埋伏の計(伏兵策)」で袁紹を破る。
 後には、劉備対策として、徐庶(劉備の参謀)の母の拘束を進言。その後、偽の手紙で徐庶を誘う。


※正史では、オールラウンドに活躍。基本は参謀だが、地方長官、将軍も務めている。演義では、荀攸に似た扱い。


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カクカ ホウコウ
郭嘉 奉孝
 軍師の筆頭。程昱と同時期に仕え、以後、絶えず曹操に助言。呂布包囲に参加し、水攻めを献策する。劉備反乱時は、「袁紹はすぐに動かないので、直ちに劉備を攻めるべき」と進言。また、袁譚・袁尚討伐時は、「あえて撤退し、敵の内紛を誘うべき」とする。後には、烏丸を急襲する策を進言。更に、公孫康の動向を見抜く。
 多くの征伐に参加し、数々の献策をしたとされる。しかし、病気のため逝去。曹操は赤壁の敗戦後、「郭嘉さえ生きていれば」と嘆く。


※正史でも大体同じ。参謀として、曹操から最も信頼されていた。(なお、仕えた時期は、程昱より少しあと。)品行は慎まなかったという。


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ソウジン シコウ
曹仁 子孝
 曹操の従弟。武芸に秀で、兵法の心得も持つ。新野戦では、「八門金鎖の陣」を敷いたが、徐庶に破られる。
 赤壁戦後、南郡で周瑜と対峙する。このとき、程普から武勇抜群と評され、警戒されている。その評価通り、呉軍相手に力戦する。以後、長期間粘ったが、誘引策にかかり敗走。後には、樊(はん)城を守り、兵を鼓舞して関羽を防ぐ。


※正史の方が活躍は多い。魏で一、二を争う勇将だった。


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ソウコウ シレン
曹洪 子廉
 曹操の従弟。短気で軽率だが、強い忠義心を持つ。徐栄戦では、我が身を顧みず曹操を救う。以後も、曹仁共々活躍。
 官渡では、曹操が留守の間、本陣を守備。張郃(ちょうこう)、高覧を破る。関中では馬超と渡り合い、長時間善戦。その間に、曹操は危機を脱する。


※正史ではクレバーな人物。司令官として活躍し、一方では蓄財に努めた。


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カコウトン ゲンジョウ
夏侯惇 元譲
 曹操の一族。槍、棒の使い手。性格は短気。14歳のとき、師匠を侮辱した者を殺害する。
 やがて、曹操の元に参じる。何度も先鋒を務め、度々敵将を討ち取る。また、張遼や関羽と渡り合う腕を持つ。呂布戦では左目に矢を受け、己の目玉を喰らう。博望坡では猛進し、孔明の火攻めに敗れる。
 赤壁戦後、曹操から方針を相談され、漢中の張魯討伐を進言。


※正史では優秀なまとめ役。学問に励みつつ、軍人、政治家として多様に活躍。激情家としても知られ、演義ではその性格を強調している。


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カコウエン ミョウサイ
夏侯淵 妙才
 夏侯惇の従弟。やや軽率な性格。弓の名手で、夏侯惇共々重用される。取り分け、物語後半で目立つ。
 曹操から、漢中の防衛を任される。最初、伏兵策を用い、蜀軍を撃破。黄忠とも、しばらく渡り合う。後に、改めて蜀軍と対戦。山上から奇襲を受け、黄忠に討ち取られる。


※正史の方が活躍は多い。異民族、反乱者を度々撃破。また、輸送も得意としていた。


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カク ブンワ
賈詡 文和
 奇謀の士。初め李傕に仕える。まず、長安制圧を進言。後に、馬騰・韓遂が長安に来襲すると、持久策を進言。常に李傕を成功に導く。一方では、朝廷の政治の矯正に努める。
 やがて、張繍の配下に入る。あるとき、曹操の陽動作戦を見抜き、奇襲策を献じて成功させる。別のとき、張繍は撤退する曹操軍を追い、賈詡は機を見て攻撃を進言。勝利を導く。
 後に、張繍共々、曹操に帰服。馬超・韓遂討伐に参加し、離間策を献じる。


※正史でも大体同じ。ずば抜けた策士で、応変さは時代屈指。(なお、陽動作戦を見抜く一幕は、演義の創作。)


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リュウヨウ シヨウ
劉曄 子揚
 優秀な参謀の一人。官渡の戦いに参加。敵将審配が土山を築くと、発石車をもってこれを破る。審配が地下道を掘ると、塹壕を掘って対抗する。
 曹操が漢中を平定したあと、司馬懿と共に益州攻略を進言。しかし却下される。後に曹操が益州攻略を考えると、既に時機を逸したと発言。


※正史によると、曹操に仕えるまで紆余曲折あり。また、曹氏三代の腹心的立場で、進言の記録は多い。(一方、審配との応酬は、演義の創作。)


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トウショウ コウジン
董昭 公仁
 優秀な参謀の一人。袁紹、張楊に仕えてのち、朝廷に仕官。精進料理のみ食し、荒廃の洛陽で健康を保つ。曹操の配下に入ると、許への遷都を提言。後に、曹操の魏公就任を推進する。
 やがて、関羽が樊城(魏の拠点)を包囲。呉が魏に書簡を送り、秘かな結託を申し出る。董昭は、「呉の意思をあえて関羽に知らせ、関羽を撹乱するべき」と進言。


※正史ではもっと活躍している。袁紹の元で反乱を鎮圧し、後に、曹操の朝廷掌握のために画策。次第に重鎮となり、曹叡の代まで多様に貢献した。(なお、精進料理の話は、正史にはない。)




チョウリョウ ブンエン
張遼 文遠
 元は呂布の武将。後に曹操に帰服。武勇は卓越し、人格も備える。関羽とも親交する。
 官渡の戦いで活躍。烏桓討伐にも参加し、族長蹋頓(とうとん)を討ち取る。後には合肥(がっぴ)を守り、太史慈と互角に渡り合う。更に、太史慈の内応策を見抜き、これを逆手に取る。
 後に、再び呉軍が来襲。奮戦して孫権を追い詰め、呉中に名を轟かす。  


※正史では、演義以上に活躍。孫権は後々まで、張遼を警戒した。


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チョウコウ シュンガイ
張郃 儁乂
 元は袁紹の武将。官渡の戦いに参加。張遼と互角に渡り合う。また、烏巣が襲撃された際、的確な進言を行う。
 その後曹操に帰服し、主力の一人となる。対蜀では雷同を奇襲して倒し、張飛とも堂々渡り合う。後に張飛の奇襲で敗走。
 孔明北伐の際は、司馬懿に従い、大いに敵を苦しめる。しかし、孔明の伏兵策にはまり、矢を浴びて討死する。


※正史では、機略を得意とした。劉備、孔明双方から高評価。


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ジョコウ コウメイ
徐晃 公明
 元は楊奉の武将。大斧の使い手。曹操軍と対し、許褚と堂々渡り合う。まもなく曹操に帰服し、以後、度々先鋒として活躍。官渡では、韓猛の輸送隊を襲撃し、その兵糧を焼き払う。
 後に、樊(はん)城救援に向かい、関羽の軍と対する。関羽を敬愛していたが、私情を棄てて奮戦。やがて、その砦を突破し、曹操から知勇を称賛される。


※正史では慎重、周到な名将。対関羽では、陽動作戦ののち猛攻した。


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テンイ
典韋
 怪力無双の護衛官。二本の戟(各々八十斤)を得物に使う。まず、呂布討伐戦に参加し、度々活躍を見せる。その後、汝南の黄巾討伐に参加。許褚と出会い、互いに張り合い、存分に渡り合う。
 後に、張繍が曹操に反乱。典韋は、陣門を守って大暴れする。しかし、全身に矢を浴び絶命。


※正史でも同様に活躍。ただ、許褚との勝負はフィクション。


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キョチョ チュウコウ
許褚 仲康
 典韋と同じく、怪力無双の護衛官。曹操と共に歴戦。
 馬超・韓遂征伐時、渡河中の曹操を守り切る。また、馬超と渡り合い、なかなか勝負は付かず。その後、上半身裸となり、決死の覚悟で再び激闘する。
 性格は忠実で愚直。「虎痴」の異名を持つ。


※正史でも、基本的な人物像は同じ。但し、小豪族の出身だったとされる。曹操に仕える前、一族を率い、腕っぷしをもって賊と対した。


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リテン マンセイ
李典 曼成
 冷静で堅実な武将。公義を重んじる性格。物語初期から活躍。
 新野戦にも参加し、曹仁の短気を諫める。更に趙雲と渡り合い、十数合持ちこたえる。
 二度目の合肥戦では、不和の張遼に協力し、勝利に貢献する。


※正史によると、大豪族の出身。学問を好み、初め地方長官として活躍。


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ガクシン ブンケン
楽進 文謙
 しばしば李典とコンビ。勇猛果敢な性格。古参の一人。呂布討伐戦では、敵将成廉を射殺する。
 合肥では孫権に切りかかり、護衛の宋謙、賈華の戟を叩き折る。二度目の合肥戦では、敵軍を誘い出す役割を担う。濡須では、凌統と互角に渡り合う。(凌統は前日、張遼と好勝負。)その後、甘寧の矢で負傷し、物語から退場する。


※正史では、張遼らと並ぶ名将。李典と比べ、将軍としての格は上。


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ウキン ブンソク
于禁 文則
 弓馬に秀でた武将。規律を重んじ、略奪を厳しく取り締まる。
 徐晃共々、先鋒の将として重宝される。張繍反乱時は、混乱を収拾し、中心となって敵軍を撃退する。その後も、数々の征伐に参加。関中戦では、馬超と渡り合い、八、九合持ちこたえる。
 関羽討伐戦では、洪水対策を怠る。その結果、敗北して降伏。後に、曹丕にいびられ憤死する。


※正史では、張遼らと並ぶ名将。演義でも主力級の武将だが、派手な活躍は多くはない。


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ブンペイ チュウギョウ
文聘 仲業
 元は劉表、劉琮の武将。身の丈八尺。堂々たる風貌を持つ。魏延が蔡瑁(劉琮の重臣)に造反すると、先頭に立って攻撃。魏延の隊を打ち破ったが、魏延を仕留めることはできず。
 後に、劉琮は曹操に降伏。文聘は、「主君の役に立てなかった」と嘆き、遅れて曹操に目通りする。以後は、曹操に尽力。赤壁前哨戦では、韓当、周泰の軍と対戦する。
 曹丕が呉征伐に赴き、長江を南下した際は、張遼らと共に先鋒を務める。魏軍は奇襲で敗れたが、文聘は曹丕を背負って救い出す。


※正史では、曹操から江夏太守に任じられる。長年に渡り、孫権との国境地帯を取りまとめた。演義でも名将として描かれるが、出番はそう多くない。


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シバイ チュウタツ
司馬懿 仲達
 時代屈指の異才。初め、文書の起草を司り、参謀役も兼ねる。関羽の勢威が増したとき、呉と結ぶことを進言。曹丕の時代には、腹心として活躍する。
 曹叡の時代、孔明(天才軍師)の北伐と対する。押され気味ながら、名勝負を繰り広げる。最後の北伐では、孔明の陽動作戦を見抜き、勝利したこともある。後には、公孫淵(遼東の反乱者)を討伐。陽動作戦で敵軍を破り、兵糧攻めで城を陥落させる。
 曹叡死後、曹爽が朝廷で専横する。司馬懿は病気と偽り、これを油断させ、やがて殺害。実権を握り、国事を取りまとめる。


※正史によると、儒家の名族の出身。厳格な性格に育ち、当初、新興の曹家に仕えるのを嫌がった。後に結局、魏王朝を実質支配し、曹家を圧迫した。


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トウガイ シサイ
鄧艾 子載
 魏後期の名将。地形に詳しく、兵法に長ける。初め、吃音症のため不遇だったが、司馬懿に見い出される。やがて、兗(えん)州刺史に就任。
 毌(かん)丘険・文欽の反乱時、司馬師に従い、鎮圧に貢献する。後に、蜀の姜維の北伐を防ぎ、好勝負を繰り広げる。武芸にも秀で、姜維や文鴦(ぶんおう)と互角に渡り合う。(文鴦は文欽の子。)
 やがて、司馬昭の指令を受け、蜀に侵攻する。険しい山の中を進み、道なき道を切り開き、成都近辺に到着する。劉禅を降伏させたが、鍾会に陥れられ、反逆者の汚名を着せられる。その後、田続(元部下)に殺害される。


※正史では農政でも活躍。呉との国境の備蓄を増やす。一方、武芸に関する逸話は、特に記されない。


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ショウカイ シキ
鍾会 子季
 大臣鍾繇の子。鄧艾のライバル。ずば抜けた知謀を持ち、諸葛誕討伐で活躍する。司馬昭に気に入られ、その腹心となる。
 後に、司馬昭の指令を受け、蜀攻略に取りかかる。的確な戦略図を作成し、鄧艾とは別に進軍する。先鋒の許儀(許褚の子)の不手際を責め、これを殺害。その後、快進撃を続け、剣閣で姜維と対峙する。
 一方、鄧艾が成都を奇襲し、劉禅は降伏。鍾会は姜維と結託し、独立を企て、魏への反逆を試みる。しかし、野心のままに暴走し、配下の兵たちが暴動。乱闘の中で、鍾会は討死する。(姜維もその後自害。)


※正史によると、学才もずば抜けていた。自ら著述を行っている。冷徹な策士だった点は、演義と同じ。


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劉備  曹操  孫堅  袁紹  袁術
董卓  呂布  劉表  劉璋  その他



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