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儒教政治 ~後漢の基本体制~

 まず、王朝成立までを要約します。
 続いて、最初の三帝(光武帝・明帝・章帝)の為政について記述します。    



新の瓦解
 新(しん)の皇帝・王莽は理想主義の儒家。性急に改革を行い、次第に情勢は混乱し、豪族も農民も苦境に陥った。

 紀元後18年、山東で農民反乱が起こる。(山東は中国東部。)全員、眉を赤く染めていたため、「赤眉(せきび)の乱」と呼ばれる。これは、漢王朝が儒教上「火徳」とされていたことによる。つまり、赤眉の者たちは、「漢王朝の復興」をスローガンにしていた。


 紀元後22年、南陽(中国南部の郡)において、豪族と農民が結託。共々、反乱活動を開始する。(赤眉も健在だが、特に協力態勢は取らず。)
 南陽の反乱軍の中に、劉秀という人物がいた。(豪族出身。)柔軟な思考を持ち、自然な人徳があり、武才も備える。昆陽(洛陽の南の都市)に駐屯し、王莽の大軍を急襲して破った。
 劉秀はやがて、河北に行軍。豪族集団、農民軍を相次いで破る。(これらは、反乱軍同士の争い。)劉秀は前者を解体し、後者は併呑した。




後漢の成立
 劉秀ら南陽軍に呼応し、各地で反乱が発生する。
 紀元後23年、反乱軍の一つが長安に侵攻する。(新の首都。)王莽は抗戦したが、宮中で討死し、新王朝は滅びる(同年)。
 紀元後25年、劉秀は漢王朝を復活させ、首都を洛陽に置く。(後漢時代の始まり。)なお、皇帝としての劉秀は、「光武帝」と呼ばれる。

 劉秀は、「柔よく剛を制す」を信条としていたという。(この言葉自体は、劉秀の創作ではなく、書物「三略」からの引用。「老子」にも同様の言葉がある。)劉秀の性格、流儀を端的に示す逸話。




基本政策
 光武帝はまず、全国の戸籍の整備を行う。これは、豪族を介さず、民を直接管理するのが目的。(中央集権志向。)

 また、徴兵制を廃止し、農村の労働力を万全にする。更に、屯田制を実施し、各地の常備兵に農耕させる。(一般に、「軍屯」と呼ばれる。後の時代、曹操は募集民に内地を耕作させたが、これは「民屯」と呼ばれる。)
 やがて、財政に余裕が生じると、大幅な減税を実行。農民の田租(収穫に比例して納める)を、従来の「十分の一税」から「三十分の一税」とした。


 加えて、奴婢の問題に立ち入る。布告を出し、こう知らしめる。「この天地において、人は人である時点で尊い。奴婢を殺害した場合、減刑せず罰する。」(一文目は、「孝経」からの引用。)また、奴婢の解放を命じ、本人が望めば庶民とした。
 なお、ここでの庶民とは、「特定の家に従属せず、国家に直属する」ということ。この奴婢解放令は、徳政であると同時に、中央集権の強化も意味した。




財政
 前漢では、国の財政は「大司農」、帝室の財政は「少府」が管理した。光武帝は、これを変更。国・帝室の財政を、「大司農」が一括管理することとした。(少府は以後、帝室の世話機関。)
 つまり、大司農の裁量により、融通を利かせられる。これにより、国難の際速やかに対処できる。

 また、塩官と鉄官は、当時大司農に属していた。(いずれの官も、専売を司る。)光武帝は、これを現地の役所に移管し、地方の自主性に任せた。




権力体制
 一般に、王朝成立直後は、体制が安定しない。取り分け、功臣の扱いが、困難な問題として存在する。光武帝は、功臣を努めて顕彰したが、要職には付けない。(積極的な抑圧はせず。)これは、前漢の劉邦に比べ、穏当な態度だった。それでも、功臣とその一族・一派は、不満分子になることがあった。


 この頃、地方では、皇族が侯となっている。諸侯は、不満分子たちを賓客とし、独自に勢力を蓄える。光武帝、及び次の明帝は、彼等賓客を大々的に弾圧。刑死者が出る。一方、諸侯に対しては、あえて寛大な態度を取る。これにより、情勢はやがて安定した。




豪族の問題
 光武帝は儒教政治を目指し、循吏を重用する。(循吏とは、礼教を重んじる官吏。法に強くこだわらず、柔軟さを持つ。)これには、豪族を過度に抑制せず、手なずけるという意図もある。(後漢の豪族は、地方の経済基盤。)
 しかし、儒教が理想とするのは、共同体社会(相互扶助体制)。儒教国家の基本は、農村共同体が下から上に連なり、官がそれをまとめるという形。これにより、国家の権力は十分及び、民力も妨げられない。
 もし豪族が(過度に)権勢を持ち、農村を私物化すれば、この体制は瓦解。


 光武帝は、情勢に応じ、酷吏を使うこともあった。(酷吏は法に厳格。)
 例えば、荊州北部、冀州、徐州などは、豪族の力が強い。小作人を多く抱え、(戸籍調査の際)その存在を隠した。(小作人から、私的に取り立てを行っていた。)また、地方長官も、彼等と癒着するケースあり。
 光武帝はそこで、酷吏を(地方長官として)起用。豪族の勝手な振舞いを、厳しく取り締まる。その結果、時々反乱が発生する。光武帝は鎮圧後、首謀者を別の地に移住させるなど、あえて寛容な処置を取った。
 以上により、豪族の力は削がれ、不満もある程度抑えられる。


 一方、淮水、長江の辺りは、未開地が多い。そこで、地方長官が(王朝の意の元で)開拓を主導。(主に循吏。)得られた田地は公田となり、民に貸し出された。
 これらの地域には、王朝の権威が行き届き、豪族は地方長官を尊重。(但し、後漢中期には未開地が減り、状況は変わる。)




明帝と章帝
 二代目の明帝(在位57年~)は、光武帝の方針を引き継ぎ、儒教体制を目指す。しかし、法治も重んじ、しばしば酷吏を重用した。
 明帝の死後は、子の章帝が即位。(在位79年~。)明帝とは異なり、寛容をもって為政した。起用する者たちも、循吏(柔軟な官吏)が多い。
 明帝、章帝は、いずれも儒家に類するが、方向性に違いがあった。


 一口に儒教といっても、色んな側面がある。孔子の教えにも、規範を重んじる部分、内省を重んじる部分、両方存在する。(孔子の死後、どちらを重んじるかで、大きく二派に分裂。前者の代表は荀子、後者の代表は孟子。)
 前者のタイプは、為政者となったとき、法治との相性がいい。明帝はこれに類する。一方、後者のタイプは、いわゆる人治を好む。(個々のケースごと、自らの裁量で対処。)章帝は恐らく、これに類する。


 明帝は豪族に対し、常に厳しく対処。地方長官は、明帝の意の元、豪族達を圧した。一方、章帝は豪族の心情を慮り、過度な抑圧はしない。地方長官と豪族は、互いを尊重したという。
 勿論、両帝の方針の違いには、社会情勢も関係している。章帝期、豪族伸長は時代の流れ。彼等の立場は、既に確立されつつあり、刺激するのは得策ではなかった。
 なお、章帝は塩・鉄の専売を、地方から中央に移管。地方豪族は快く思わない筈だが、財政上の必要があったのだろう。




明帝と章帝2
 明帝は常に厳格で、柔軟さが欠けていた。どんなときも、法を苛烈に執行。明帝がそのようになったのは、諸侯(一族の者)の裏切りが一因だという。

 明帝が即位してのち、諸侯の中の三人が、各々クーデターを画策。いずれも事前に発覚したが、明帝は当然動揺する。明帝はこの三人に対し、寛大な措置を取ったが、その部下や賓客を誅殺した。この事件以後、明帝は、人への不信感が募ったと思われる。(その結果、法に拠り所を求めた。)

 章帝期は、反動により、寛容、柔軟を求める風潮あり。章帝自身も、即位する前から、明帝(の厳格な法治)に疑問を感じていたと思われる。年少の頃より、仁徳をもって知られたという。




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