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演義での活躍を要約します。
劉備 曹操 孫堅 袁紹 袁術
董卓 呂布 劉表 劉璋 その他
エンショウ ホンショ
後に、冀州の牧(長官)に就任。幽州の公孫瓚と争う。界橋の戦いでは、先頭に立って追撃。以後も交戦を繰り返し、易京で討ち滅ぼす。
かくて、当時最大の勢力となり、曹操と対決。しかし独断的で、部下を統率し切れず。結果、官渡で曹操に敗れ、やがて病死する。
※正史でも、豪気な群雄。また、政治手腕があり、領民から人望を得ていた。この点、演義では特に描かれない。一方、部下を十分信頼できなかった点は、正史、演義で共通する。詳細
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デンホウ ゲンコウ
曹操が許都を留守にすると、許都の襲撃を進言。しかし、袁紹は「子供が病気だ」と言って斥ける。田豊は時期を逸したと見て、その後また持久策を主張し、袁紹に投獄される。袁紹は敗戦後、逢紀の誹謗を信じ、田豊殺害を命じる。田豊は獄中で自殺。
※正史でも、卓越した策謀家。曹操からの評価も高かった。参謀としては、恐らく袁紹陣営で筆頭。詳細
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ソジュ
白馬戦のあと、こう進言。「全軍を一気に進めたら、勝てなかったとき総崩れになる。まず、先遣部隊を分遣すべし。」しかし、却下される。後に、再び持久策を進言し、投獄される。
袁紹は、やがて敗北。沮授は曹操に捕まったが、馬を駆って逃亡を図り、袁紹の元に戻ろうとする。曹操は沮授を殺害し、すぐに後悔する。
※正史では、内政、軍事を広く統括。演義だと、参謀のイメージのみ。(なお、袁紹に投獄されたのは、史実ではない。)詳細
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カクト コウソク
曹操が烏巣を襲撃すると、留守の本陣を攻撃すべきと主張。作戦は失敗し、責任逃れに張郃を陥れる。
袁紹死後、長子袁譚を立て、三子袁尚に対抗。曹操と結んで袁尚を圧迫し、南皮の城で曹操と対する。民兵を先に出し、あとから正規兵を繰り出し、曹操を苦戦させる。しかし、結局敗北し、楽進に射殺される。
※正史によると、袁譚は郭図に逆らえなかった。参謀であるに留まらず、半ば実権を握っていたらしい。演義でも、鷹派で強気な人物。詳細
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キョユウ シエン
官渡戦では、曹操の密書を偶然入手し、兵糧不足を知る。そこで袁紹に献策するも、曹操の旧知のため疑われ、却下される。その後、曹操に降って献策し、勝利に貢献する。
袁紹死後、曹操は鄴(ぎょう)に進軍(守将審配)。許攸は水攻めを進言し、再び勝利に貢献する。後に、功を誇って傲慢になり、許褚に殺害される。
※正史によると、元遊侠者。袁紹、曹操双方と交流があった。また、密書はフィクション。詳細
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シンパイ セイナン
袁紹の死後、三子袁尚を擁立し、長子袁譚は後に曹操に味方。審配は袁尚の本拠地の鄴(ぎょう)に駐屯し、曹操から城を堅守したが、水攻めに遭う。その後、辛評(袁譚派)の一族を殺戮し、甥の審栄が怒って敵に内応。審配は捕らえられ、袁家への忠義を誓ったまま、斬刑にされる。
※正史でも、性格はほぼ同じ。能力面では、取り分け政務に長けていた。(官渡戦でも軍政担当。)詳細
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ホウキ ゲント
袁紹・曹操の開戦時、審配と共に司令官を務める。あるとき、田豊を誹謗して陥れ、袁紹は田豊殺害を決める。袁紹の死後、審配と共に袁尚を立てたが、袁譚に殺害される。
※正史でも、性格はほぼ同じ。ただ、審配をあえて弁護したことがある。(当時審配とは不仲だったが、私心より公義を優先。)詳細
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ガンリョウ
曹操との戦いでは、先鋒を務め、大軍で白馬城を攻める。ずば抜けた武勇を誇り、猛将徐晃にも打ち勝ち、曹操軍を震撼させる。しかし、関羽の急襲を受け、迎撃態勢を取る前に斬られる。
※正史でも、袁紹軍随一の猛将。名は知れ渡っていた。但し、具体的な活躍は記されない。(袁紹の配下は、基本的に記述が少ない。)詳細
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ブンシュウ
やがて、袁紹は曹操と対決。顔良の死後、文醜は願い出て仇討ちに赴く。奇襲を受けたあと、張遼を弓矢で撃退し、徐晃と渡り合う。その後関羽に挑まれ、すぐに戦意を喪失。逃走途中、後ろから斬られる。
※正史でも、顔良と並ぶ猛将。但し、具体的な活躍は記されない(容貌の記述もない)。詳細
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キクギ
※正史では、袁紹軍随一の名将。一軍の将としては顔良、文醜より上だった。詳細
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チョウコウ シュンガイ
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コウラン
後には、汝南で劉備と対戦。劉辟をあっさり倒したが、趙雲に急襲され、討ち取られる。
※正史には、本陣攻撃の記述のみ。土壇場で起用されていることから、かなり有力な武将だったと思われる。
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ジュンウケイ
なお、諸葛亮は「後出師の表」の中で、「曹操は烏巣でかなり苦戦した」と記している。
※正史には、酒の記述はない。ただ、許攸は「烏巣の守将は皆だらけている」と言っている。(なお、正史では、孔融は淳于瓊ら三将に言及していない。)
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エンタン ケンシ
やがて曹操が去ると、袁譚は郭図と謀り、袁尚の暗殺を試みる。しかし審配に見抜かれ、袁尚と正面対決となり、劣勢に立たされる。
郭図の案で曹操に帰順し、袁尚に対抗。やがて曹操に反逆し、北方の諸県を攻め落とし、その後落ち目の袁尚を叩く。続いて南皮に籠城し、曹操に対抗する。曹洪と渡り合ったが、猛攻を受け討死する。
※正史でも、粗暴さが目立つ。しかし、恵み深い性格とも記される。(なお、正史では、袁尚暗殺は企てていない。)詳細
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エンタン ケンホ
その後、袁譚共々、曹操に抗戦する。やがて曹操は退き、袁尚は袁譚と対決。自ら袁譚と打ち合い、一方的に押しまくる。その軍を破り、先頭に立って追撃する。
後に曹操の前に敗れ、そこを袁譚に攻められ、なすすべなく敗走。その後、遼東の公孫康を頼る(いずれ討つ予定)。しかし、逆に殺害される。
※正史にも容貌、武勇の記述がある。史渙、張遼との戦いはフィクション。
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袁紹とその配下
演義での活躍を要約します。
劉備 曹操 孫堅 袁紹 袁術
董卓 呂布 劉表 劉璋 その他
袁紹 本初
名門袁家の御曹司。司隷校尉となり、首都の治安を司る。上司の何進が宦官に殺害されると、宦官誅滅を断行する。董卓が朝廷で横暴を振るうと、剣を抜いてこれと対峙。その後北方に出奔し、反董卓連合軍を率いる。後に、冀州の牧(長官)に就任。幽州の公孫瓚と争う。界橋の戦いでは、先頭に立って追撃。以後も交戦を繰り返し、易京で討ち滅ぼす。
かくて、当時最大の勢力となり、曹操と対決。しかし独断的で、部下を統率し切れず。結果、官渡で曹操に敗れ、やがて病死する。
※正史でも、豪気な群雄。また、政治手腕があり、領民から人望を得ていた。この点、演義では特に描かれない。一方、部下を十分信頼できなかった点は、正史、演義で共通する。詳細
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田豊 元皓
忠臣にして名参謀。真正直で頑固な性格。曹操との対決に際し、「じっくり軍備を増強し、同時に敵を牽制していれば、三年以内に国力差は決定的になる」と主張。しかし、却下される。曹操が許都を留守にすると、許都の襲撃を進言。しかし、袁紹は「子供が病気だ」と言って斥ける。田豊は時期を逸したと見て、その後また持久策を主張し、袁紹に投獄される。袁紹は敗戦後、逢紀の誹謗を信じ、田豊殺害を命じる。田豊は獄中で自殺。
※正史でも、卓越した策謀家。曹操からの評価も高かった。参謀としては、恐らく袁紹陣営で筆頭。詳細
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沮授
忠臣にして名参謀。曹操との対決に際し、田豊の持久策を支持。白馬戦のあと、こう進言。「全軍を一気に進めたら、勝てなかったとき総崩れになる。まず、先遣部隊を分遣すべし。」しかし、却下される。後に、再び持久策を進言し、投獄される。
袁紹は、やがて敗北。沮授は曹操に捕まったが、馬を駆って逃亡を図り、袁紹の元に戻ろうとする。曹操は沮授を殺害し、すぐに後悔する。
※正史では、内政、軍事を広く統括。演義だと、参謀のイメージのみ。(なお、袁紹に投獄されたのは、史実ではない。)詳細
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郭図 公則
主要な参謀の一人。野心家で策士。袁紹が劉備の荊州行きを許すと、「劉備は二度と戻らない」と見抜き、袁紹を諫める。曹操が烏巣を襲撃すると、留守の本陣を攻撃すべきと主張。作戦は失敗し、責任逃れに張郃を陥れる。
袁紹死後、長子袁譚を立て、三子袁尚に対抗。曹操と結んで袁尚を圧迫し、南皮の城で曹操と対する。民兵を先に出し、あとから正規兵を繰り出し、曹操を苦戦させる。しかし、結局敗北し、楽進に射殺される。
※正史によると、袁譚は郭図に逆らえなかった。参謀であるに留まらず、半ば実権を握っていたらしい。演義でも、鷹派で強気な人物。詳細
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許攸 子遠
主要な参謀の一人。見識者として知られたが、貪欲とも評される。官渡戦では、曹操の密書を偶然入手し、兵糧不足を知る。そこで袁紹に献策するも、曹操の旧知のため疑われ、却下される。その後、曹操に降って献策し、勝利に貢献する。
袁紹死後、曹操は鄴(ぎょう)に進軍(守将審配)。許攸は水攻めを進言し、再び勝利に貢献する。後に、功を誇って傲慢になり、許褚に殺害される。
※正史によると、元遊侠者。袁紹、曹操双方と交流があった。また、密書はフィクション。詳細
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審配 正南
主要な参謀の一人。独断的と評される。袁紹が曹操と開戦した際、司令官に任じられる。官渡の緒戦では、巧みな用兵で勝利に貢献する。その後土山を築き、高所から矢で攻撃し、曹操軍を圧迫。しかし、劉曄の発石車に破られる。次に地下道を掘るも、劉曄が塹壕で遮る。袁紹の死後、三子袁尚を擁立し、長子袁譚は後に曹操に味方。審配は袁尚の本拠地の鄴(ぎょう)に駐屯し、曹操から城を堅守したが、水攻めに遭う。その後、辛評(袁譚派)の一族を殺戮し、甥の審栄が怒って敵に内応。審配は捕らえられ、袁家への忠義を誓ったまま、斬刑にされる。
※正史でも、性格はほぼ同じ。能力面では、取り分け政務に長けていた。(官渡戦でも軍政担当。)詳細
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逢紀 元図
主要な参謀の一人。先走る性格と評される。謀略に長け、冀州の韓馥を降す策を進言。「公孫瓚に韓馥を攻めよと呼びかけ、韓馥に公孫瓚の脅威を説き、韓馥に保護を申し出る。」この策は成功する。袁紹・曹操の開戦時、審配と共に司令官を務める。あるとき、田豊を誹謗して陥れ、袁紹は田豊殺害を決める。袁紹の死後、審配と共に袁尚を立てたが、袁譚に殺害される。
※正史でも、性格はほぼ同じ。ただ、審配をあえて弁護したことがある。(当時審配とは不仲だったが、私心より公義を優先。)詳細
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顔良
袁紹が重宝した武将。短気で偏狭とされる。公孫瓚討伐に参加し、文醜と共に活躍する。曹操との戦いでは、先鋒を務め、大軍で白馬城を攻める。ずば抜けた武勇を誇り、猛将徐晃にも打ち勝ち、曹操軍を震撼させる。しかし、関羽の急襲を受け、迎撃態勢を取る前に斬られる。
※正史でも、袁紹軍随一の猛将。名は知れ渡っていた。但し、具体的な活躍は記されない。(袁紹の配下は、基本的に記述が少ない。)詳細
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文醜
顔良と並び立つ武将。獬豸(かいち)のような容貌。(獬豸とは神獣。鬼の如き顔つき。)公孫瓚討伐に参加し、存分に武勇を発揮する。趙雲とも長時間渡り合い、勝負は付かず。やがて、袁紹は曹操と対決。顔良の死後、文醜は願い出て仇討ちに赴く。奇襲を受けたあと、張遼を弓矢で撃退し、徐晃と渡り合う。その後関羽に挑まれ、すぐに戦意を喪失。逃走途中、後ろから斬られる。
※正史でも、顔良と並ぶ猛将。但し、具体的な活躍は記されない(容貌の記述もない)。詳細
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麹義
主力の武将の一人。界橋の戦いで先鋒を務め、公孫瓚の軍と対峙する。巧みな用兵で敵の騎兵隊を破り、自ら敵将厳綱を討ち取る。続いて、趙雲と渡り合うも、数合足らずでやられる。
※正史では、袁紹軍随一の名将。一軍の将としては顔良、文醜より上だった。詳細
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張郃 儁乂
→曹操とその配下
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高覧
主力の武将の一人。しばしば張郃とコンビで行動。官渡では許褚と渡り合い、すぐには勝負が付かず。後に張郃共々、本陣攻撃を強いられる。敗北後、袁紹から使者が来ると、これを斬殺。張郃を誘って曹操に降り、以後共に袁紹と対する。後には、汝南で劉備と対戦。劉辟をあっさり倒したが、趙雲に急襲され、討ち取られる。
※正史には、本陣攻撃の記述のみ。土壇場で起用されていることから、かなり有力な武将だったと思われる。
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淳于瓊
元は朝廷の武官。当時袁紹、曹操の同僚。後に、袁紹の配下に入る。張郃、高覧と並ぶ名将(孔融談)。官渡戦時は、諸将を率い、烏巣(補給地)を守る。しかし酒に溺れ、曹操の前に敗走し、袁紹に殺害される。なお、諸葛亮は「後出師の表」の中で、「曹操は烏巣でかなり苦戦した」と記している。
※正史には、酒の記述はない。ただ、許攸は「烏巣の守将は皆だらけている」と言っている。(なお、正史では、孔融は淳于瓊ら三将に言及していない。)
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袁譚 顕思
袁紹の長子。剛情で粗暴な性格。袁紹の死後、三子袁尚が跡を継ぐと、これと対立する。曹操との戦いでは協力。やがて曹操が去ると、袁譚は郭図と謀り、袁尚の暗殺を試みる。しかし審配に見抜かれ、袁尚と正面対決となり、劣勢に立たされる。
郭図の案で曹操に帰順し、袁尚に対抗。やがて曹操に反逆し、北方の諸県を攻め落とし、その後落ち目の袁尚を叩く。続いて南皮に籠城し、曹操に対抗する。曹洪と渡り合ったが、猛攻を受け討死する。
※正史でも、粗暴さが目立つ。しかし、恵み深い性格とも記される。(なお、正史では、袁尚暗殺は企てていない。)詳細
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袁尚 顕甫
袁紹の三子。袁譚の弟。秀でた容姿を持ち、袁紹に気に入られる。騎射の腕があり、史渙(曹操の将)を討ち取る。後に、先走って張遼と打ち合い、歯が立たず大敗。袁紹死後、跡を継ぐ。その後、袁譚共々、曹操に抗戦する。やがて曹操は退き、袁尚は袁譚と対決。自ら袁譚と打ち合い、一方的に押しまくる。その軍を破り、先頭に立って追撃する。
後に曹操の前に敗れ、そこを袁譚に攻められ、なすすべなく敗走。その後、遼東の公孫康を頼る(いずれ討つ予定)。しかし、逆に殺害される。
※正史にも容貌、武勇の記述がある。史渙、張遼との戦いはフィクション。
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