トップページ三国志総合事典(正史)州地図徐州の地図

徐州の出来事1 変動期


陶謙の流儀
 後漢の後期、地方豪族は、しばしば宦官と結託。農民への搾取、圧迫を強めた。取り分け、冀州、荊州は、深刻な状況だったという。(徐州は不明。)
 184年、冀州、荊州を中心に、「黄巾の乱」(農民反乱)が発生。朝廷は一通り鎮圧したが、残党が四方に散る。彼等はやがて、徐州にも侵入した。

 朝廷は、陶謙という人物を起用し、徐州刺史に任じる。陶謙は着任後、黄巾を撃退し、州内を平穏にする。(後に徐州牧に昇進。)
 陶謙は徐州にあって、独自に勢力を築く。物資を蓄え、軍備にも力を入れ、群雄として割拠した。


 陶謙は、揚州丹陽郡の出身。(江南(長江の南)に位置。)徐州に比べ、文化はさほど発達していない。陶謙は学問を結構好み、太学(洛陽の国立校)でも学んでいるが、本来は教養人タイプではない。
 徐州において、陶謙の統治ぶりは奔放だった。多少の悪は見逃し、自身も時々、利のために道を外した。

 一方では、剛直な性格で知られ、節義の持ち主とされる。恐らく、我が強いタイプで、礼教も法治も軽んじる。基本的に、功利的傾向が強いが、それほど暴政を敷いた訳ではない。

 陶謙はあるとき、陳登を典農校尉に任命し、救民と復興に当たらせる。(陳登は徐州の名族出身。)陳登は土地に合った作物を植え、更に大々的に灌漑を行い、大いに民を豊かにした。




徐州の名士
 琅琊(ろうや)国に、趙昱(ちょういく)という人物あり。儒学を広く学び、世俗的なことには関わらず、世の汚濁を正すことを使命とした。高い名声があり、張昭・王朗とも親交。(この二人は、同じく徐州の名士。)

 趙昱は当初、仕官を避けていたが、やがて莒(きょ)県の長に就任。(莒県は、琅琊国に所属。)礼教に則し、政治体制を整え、領内を安定させる。また、黄巾の乱が起こったときは、迅速に軍備を整えた。

 趙昱はその後、陶謙に招聘されたが、辞退する。しかし、陶謙は刑罰でおどし、意地でも召し出そうとする。趙昱は別駕従事(補佐官の筆頭)となったが、結局疎まれた。
 趙昱は生粋の儒士で、常に道理を重んじる。陶謙の方は、自我や感情を重視。基本的に、相性が合わない。(陶謙も儒学の素養はあるが、独自の価値観で行動。)


 一方、彭城国には張昭がいる。非凡な学才があったが、あえて仕官を避け、情勢を観望。(また、徐州にはもう一人、張紘(ちょうこう)という教養人あり。広陵郡の出身。)
 張昭はあるとき、陶謙から招聘されたが、辞退する。結果、陶謙は張昭を拉致し、幽閉した。陶謙はいつも、この手の行為にためらいがない。
 その後、趙昱の説得により、陶謙は釈放を決める。




徐州の豪族
 下邳国には、魯粛という人物がいる。代々富豪の家。日々、仲間と共に山に入り、狩りや軍事演習に興じる。周りが呆れるほど奔放だったが、一方では財産を散じ、多くの人々を救済した。
 魯粛は陶謙の時代、仕官した記述はない。魯粛が成人した頃、陶謙は曹操の攻撃を受け、情勢が不穏になった。魯粛の目は、江南(長江の南)に向かう。

 一方、東海郡には麋(び)家がある。同じく富豪の家で、小作人が一万人いたという。
 東海郡は、徐州の中心部。麋竺(びじく)は陶謙に招かれ、従事(直属の補佐官)を務める。後には劉備に仕え、絶えず助力。実直な性格で、教養も備えていたという。

 なお、魯粛、麋竺は、いずれも弓の達人として知られた。面白い共通点。




笮融の動き
 笮融(さくゆう)は陶謙同様、丹陽郡(揚州)の出身である。徐州に移住後、陶謙に仕え、広陵郡、彭城国で物資を監督。野心と物欲が強く、利のために多くの人を害し、日々私腹を肥やす。陶謙、笮融の丹陽コンビが、徐州を次第に変容させた。

 後に、笮融は、下邳国の相となる。意外なことに、笮融は任地で寺院を建立し、大々的に仏教を布教。多くの民を抱え込んだ。
 仏教を利用しただけなのか、あるいは、仏教の教えに共感する部分があったのか。その辺は不明である。仏教は儒教などに比べ、倫理性が少なく、性に合ったのかも知れない。

 193年、陶謙の部下が、曹嵩(曹操の父)を殺害。(詳細は不明。)曹操は怒り、徐州で大々的に殺戮する(193年)。劉備らが陶謙を救援。
 この動乱により、下邳国も不穏になる。笮融は避難を装い、広陵郡に入る。趙昱から歓待を受け、宴に招かれると、その席上で殺害する(193年)。続いて、郡内で略奪を行い、勢力を強化した。


 笮融はその後、劉繇(りゅうよう)の傘下に入る。(劉繇は揚州の群雄。)同時期、彭城国の相・薛礼(せつれい)も劉繇に帰服。笮融は薛礼共々、丹陽郡(揚州)に赴き、孫策を防ぐ。
 後に、笮融は劉繇の指令を受け、豫章郡(揚州)を攻略する。当時豫章では、諸葛玄(諸葛亮のおじ)が太守に在任。(袁術の任命による。)
 笮融は朱皓(正式な太守)と協力し、進軍を開始する。諸葛玄は亮を連れ、荊州に避難。その後、笮融は薛礼、朱皓を相次いで殺害し、その軍勢を奪い取った。




悪人笮融
 笮融という人物は、基本的に、背信行為が多い。漢人は元来、現実主義の傾向が強く、自分、味方のためにシビアに策を弄する。しかし、それを考慮しても、笮融の所業は少し目立つ。他人が己のために犠牲になることを、当然と考えている節がある。

 笮融は、一方では、人心獲得を得意とした。配下の人々にとって、笮融は、自分の代わりに汚れ仕事をしてくれる存在。基本的に、頼りになったのだろう。
 一方、世の人々には、笮融の本性は知れ渡っていなかった。(趙昱は、笮融を歓待している。)多くの民が布教に従ったのは、衣食的な理由が大きいが、本性を知らなかったというのもあるだろう。
 恐らく、笮融は、サイコパスの性質を有していた。罪の意識が希薄で、堂々としているため、悪人だと気付かれにくい。 

 それでも、人である以上、罪の意識が皆無な訳ではない。また、大概の人間は、「罪を犯せば、いつか自分に返ってくる」という恐れをどこかで抱いている。良心自体は大して持っていない者でも、この恐れのために、何らかの贖罪(しょくざい)をしたがる。笮融の仏教布教も、これなのかも知れない。
 仏教の因果応報の思想は、笮融にとって都合が悪い筈だが。元々罪の意識が薄いため、布教によってお釣りが来ると考えていたのだろう。


 笮融反乱後、劉繇は直ちに討伐に向かう。一度は敗れたものの、政治力、人望は笮融をずっと上回る。改めて兵を集め、笮融を撃破。笮融は逃亡先で、住民に殺害された(197年)。この頃には、本性は周知だったのだろう。
 そもそも、漢人には、義を重んじる一面もある。笮融は策略一辺倒だったため、破滅は必至だった。




曹操撤退
 194年、曹操が再び徐州に侵攻し、殺戮を行う。
 一方、陳宮(曹操の参謀)が地元で寝返り、張邈(ちょうばく)、呂布と結託する。(前者は、兗州陳留郡の太守。後者は、流浪中の勇将。)曹操は止むなく、徐州から撤退した。

 陶謙は劉備を後継者に指名し、その後病死する。かくて、劉備が徐州牧に就任。劉備は州の治所を、下邳国下邳県に移す。(元の治所は東海郡郯(たん)県だが、既に荒廃。)


 なお、張昭が、陶謙への弔辞を書いている。陶謙を「民を安んじた名君」というように捉え、称賛している。
 張昭は当時、孫策の配下になっており、その孫策は曹操と敵対している。張昭の陶謙賛美は、恐らく、曹操への当てつけもある。しかし、事実無根というわけでもないだろう。




次へ⇒

1、変動期 2、割拠時代 3、収束期


トップページ三国志総合事典(正史)州地図徐州の地図