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一例として、済南国が挙げられる。
あるとき、曹操が済南国の相に就任。(黄巾討伐の功による。)この地は、貪欲な役人、外戚に贈賄する役人が多かった。曹操は改革に取り掛かり、汚濁役人を片端から罷免した。
一方、民間では、怪しい宗教、儀式が流行。曹操はそれを、厳しく禁じる。民間宗教は勿論、苦境の民にとって拠り所。曹操は代わりに、いい政治を行った。
また、中常侍の子が、済南国の相だったことがある。(時期不詳。)中常侍とは、高位の宦官職。
この済南相は、しきりに収賄する。一方、劉繇(りゅうよう)が青州の監察官となり、済南国を視察する。劉繇は、直ちに上表して摘発。朝廷はこれを聞き入れ、罷免させた。
この劉繇は、後に揚州刺史として活躍。
これらの豪族は、贈賄のために、農民から搾取。また、地元での権勢を保証され、郡県の官界にも入り込む。農民は頼るものがなく、しばしば流民化した。
青州は取り分け、外戚・宦官に目を付けられる。土地や産物が豊かな上、都からそう遠くない。
曹操や劉繇は、事態を改善するべく、政治の浄化に尽力。しかし、限界があり、状況は根本的には解決されず。
やがて、河北の黄巾が青州に到来し、新たな拠点とする。(彼等は「青州黄巾賊」として有名。)青州は端から統治状況が悪く、荒らしやすかったのだろう。新たに仲間に加わった者も多いと思われる。
やがて、黄巾の管亥が到来し、孔融は都昌県でこれを防ぐ。劉備が援軍を出し、管亥は撤退。
孔融はその後、荒廃の地の復興に努める。高い理想を抱き、教育に力を入れ、学校を増やす。更に、鄭玄(高名な儒学者)を厚遇する。また、念入りに立法したが、司法は適当だったという。結局、理想通りには行かず、治績は部分的なものに留まった。
孔融は、卓越した教養人。明晰な頭脳を持つ。しかし、性格に偏りがあったともいわれる。統治者としては、一流とは言えず。
一方、北海国の東には、東莱(とうらい)郡がある。統治状況は不明。
あるとき、ここに、公孫度(遼東太守)の軍が来る。遼東郡は幽州だが、海(渤海)を挟んで距離は近い。東莱郡の諸県は、この遼東軍に占拠された。あまり抵抗した形跡はない。
王修はその後、膠東(こうとう)県の令に任じられる。(同じく北海国。)当時県内では、諸豪族が権勢を持ち、身勝手に振舞う。(例えば、搾取や治外法権。乱暴な賓客を使った脅迫。)取り分け、公沙盧(こうさろ)が横暴だったという。
王修はあるとき、公沙盧の館に討ち入り、これを殺害する。結果、県に少し秩序が戻った。
王修は、生粋の儒士。清、徳、教養など、個人の精神性を重んじる。また、儒士が理想とする社会は、共同体体制。互いに余計な争いを避け、各々が己の生き方を持すべき、と考える。
一方、豪族達の一部は、度を越して貪欲だった。常に他者と利を争い、隙ある者に容赦なく付け込み、人々の日常をおびやかす。内面的生活を重んじる儒士たちにとって、彼等は憎悪の対象となった。また、儒士の中には、武の素養を持つ者も結構いたという。(呉の虞翻(ぐほん)なども、矛の使い手であった。)
何にしても、当時の情勢を考えると、王修の存在は大きかった。(孔融も儒士だが、理想がやや先行。)
後に、袁譚(袁紹の長子)が青州に赴任すると、王修はこれに仕官。日々忠義を尽くし、的確に助言する。(但し、実直さを疎まれ、重用はされず。)
焦和はしきりに理想論を掲げ、情勢の回復を試みる。しかし、空回りするのみで、混乱を鎮められない。(また、反董卓軍に参加したが、特に事績はない。)
この焦和も、時代によっては、十分活躍できたかも知れない。しかし、当時の青州は、容易ならざる状況だった。
その後、臧洪(ぞうこう)という人物が刺史に就任。臧洪は才に加え、信義に厚く、意志も強い。二年の間に治安を取り戻し、復興を成功させたという。(具体的な方法は不明。)
なお、焦和、臧洪が刺史を務めた時期は、孔融が北海にいた期間と被る。孔融は上記のように、独自に施政を敷いていた。一方、青州の西部は、袁紹、公孫瓚の争奪の場。恐らく、刺史が治める地域は、斉国周辺に限られていた。
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1、孔融着任 2、袁譚着任
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青州の出来事1 孔融着任
済南国
後漢王朝は本来、儒家官僚が主導していた。しかし、後期になると、宦官や外戚が力を持つ。(外戚とは皇后・太后の一族。)彼等は得てして私欲が強く、朝政は次第に腐敗。その影響は、青州にも及んだ。一例として、済南国が挙げられる。
あるとき、曹操が済南国の相に就任。(黄巾討伐の功による。)この地は、貪欲な役人、外戚に贈賄する役人が多かった。曹操は改革に取り掛かり、汚濁役人を片端から罷免した。
一方、民間では、怪しい宗教、儀式が流行。曹操はそれを、厳しく禁じる。民間宗教は勿論、苦境の民にとって拠り所。曹操は代わりに、いい政治を行った。
また、中常侍の子が、済南国の相だったことがある。(時期不詳。)中常侍とは、高位の宦官職。
この済南相は、しきりに収賄する。一方、劉繇(りゅうよう)が青州の監察官となり、済南国を視察する。劉繇は、直ちに上表して摘発。朝廷はこれを聞き入れ、罷免させた。
この劉繇は、後に揚州刺史として活躍。
青州黄巾
当時、外戚や宦官は、しばしば地方豪族と結託。彼等の後ろ盾となり、代わりに財の供出を受けた。(特に、宦官は貪欲だったという。)豪族には、儒家系の豪族と、一般豪族がいたが、主に後者が外戚・宦官と連なった。これらの豪族は、贈賄のために、農民から搾取。また、地元での権勢を保証され、郡県の官界にも入り込む。農民は頼るものがなく、しばしば流民化した。
青州は取り分け、外戚・宦官に目を付けられる。土地や産物が豊かな上、都からそう遠くない。
曹操や劉繇は、事態を改善するべく、政治の浄化に尽力。しかし、限界があり、状況は根本的には解決されず。
やがて、河北の黄巾が青州に到来し、新たな拠点とする。(彼等は「青州黄巾賊」として有名。)青州は端から統治状況が悪く、荒らしやすかったのだろう。新たに仲間に加わった者も多いと思われる。
孔融の政治
朝廷では、董卓(辺境出身の武将)が実権を握る。董卓は、孔融(儒家の名士)を北海国の相に任じる。(直言されたため、厄介払いした。)治所は劇県。やがて、黄巾の管亥が到来し、孔融は都昌県でこれを防ぐ。劉備が援軍を出し、管亥は撤退。
孔融はその後、荒廃の地の復興に努める。高い理想を抱き、教育に力を入れ、学校を増やす。更に、鄭玄(高名な儒学者)を厚遇する。また、念入りに立法したが、司法は適当だったという。結局、理想通りには行かず、治績は部分的なものに留まった。
孔融は、卓越した教養人。明晰な頭脳を持つ。しかし、性格に偏りがあったともいわれる。統治者としては、一流とは言えず。
一方、北海国の東には、東莱(とうらい)郡がある。統治状況は不明。
あるとき、ここに、公孫度(遼東太守)の軍が来る。遼東郡は幽州だが、海(渤海)を挟んで距離は近い。東莱郡の諸県は、この遼東軍に占拠された。あまり抵抗した形跡はない。
王修の信条
北海国に、王修という人物あり。孔融に取り立てられ、その主簿を務める。後に、高密県(北海国)の令となり、治績を挙げる。王修はその後、膠東(こうとう)県の令に任じられる。(同じく北海国。)当時県内では、諸豪族が権勢を持ち、身勝手に振舞う。(例えば、搾取や治外法権。乱暴な賓客を使った脅迫。)取り分け、公沙盧(こうさろ)が横暴だったという。
王修はあるとき、公沙盧の館に討ち入り、これを殺害する。結果、県に少し秩序が戻った。
王修は、生粋の儒士。清、徳、教養など、個人の精神性を重んじる。また、儒士が理想とする社会は、共同体体制。互いに余計な争いを避け、各々が己の生き方を持すべき、と考える。
一方、豪族達の一部は、度を越して貪欲だった。常に他者と利を争い、隙ある者に容赦なく付け込み、人々の日常をおびやかす。内面的生活を重んじる儒士たちにとって、彼等は憎悪の対象となった。また、儒士の中には、武の素養を持つ者も結構いたという。(呉の虞翻(ぐほん)なども、矛の使い手であった。)
何にしても、当時の情勢を考えると、王修の存在は大きかった。(孔融も儒士だが、理想がやや先行。)
後に、袁譚(袁紹の長子)が青州に赴任すると、王修はこれに仕官。日々忠義を尽くし、的確に助言する。(但し、実直さを疎まれ、重用はされず。)
焦和と臧洪
董卓の時代、青州刺史は、焦和という人物。(州都は斉国の臨淄(りんし)県。)当時宦官は既に滅亡し、外戚も衰退している。しかし、豪族は依然強力で、圧迫された民は黄巾に加わった。焦和はしきりに理想論を掲げ、情勢の回復を試みる。しかし、空回りするのみで、混乱を鎮められない。(また、反董卓軍に参加したが、特に事績はない。)
この焦和も、時代によっては、十分活躍できたかも知れない。しかし、当時の青州は、容易ならざる状況だった。
その後、臧洪(ぞうこう)という人物が刺史に就任。臧洪は才に加え、信義に厚く、意志も強い。二年の間に治安を取り戻し、復興を成功させたという。(具体的な方法は不明。)
なお、焦和、臧洪が刺史を務めた時期は、孔融が北海にいた期間と被る。孔融は上記のように、独自に施政を敷いていた。一方、青州の西部は、袁紹、公孫瓚の争奪の場。恐らく、刺史が治める地域は、斉国周辺に限られていた。
1、孔融着任 2、袁譚着任
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