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名士の華歆(かきん)は、平原国の高唐県出身。(高唐県は、平原県(首都)の南東に位置。間に黄河を挟んでいる。)
華歆が高唐県の役人だった頃、一帯は歓楽街と化していた。時期は、「党錮の禁」事件の十年後くらい。この地域は、儒家の衰退により、良くも悪くも発展したらしい。
華歆はそんな中、街の空気に流されず、日々清廉を貫く。また、時々議論をしたが、その際、常に相手の考え方を尊重。(華歆は正統派の儒家だが、性格は柔軟。)やがて、孝廉(官僚の候補枠)に推挙され、朝廷に出仕した。
後に、劉備が高唐県の尉となり、やがて令に昇進。(尉は治安を司る。令は長官。)しばらくの間、腰を落ち着ける。
董卓の時代、後漢王朝は衰退し、諸勢力が割拠する。公孫瓚(幽州の群雄)は、青州の西部に手を伸ばし、袁紹(冀州の群雄)と争う。
191年、劉備は賊に敗れ(詳細不明)、公孫瓚を頼る。その後袁紹の軍と対戦し、戦功を挙げる。これにより、劉備は、平原国の相に任じられる。(駐在地は平原県。)
当時一帯は荒れていたが、劉備は警備体制を強化し、一方で存分に福祉を施した。大いに民心を得たという。
後に、公孫瓚は単経(ぜんけい)に命じ、平原県に駐屯させる。劉備は、馴染みのある高唐県に移動。また、陶謙が公孫瓚の意を受け、発干県(兗州)に駐屯した。
この頃、青州刺史は田楷という人物(公孫瓚の傘下)。州都は斉国の臨淄(りんし)県。劉備も、やがて田楷の元に赴く。
斉国は、袁紹・公孫瓚の争奪の地。何度も交戦が行われ、次第に荒廃した。
しばらくのち、孔融が青州刺史に任じられる。(駐在地は北海国のまま。)推薦したのは劉備(恐らく徐州牧の頃)。
袁譚は、斉国の田楷、北海国の孔融を討伐する。いずれも敗走させ、州内を統一する。この頃、曹操(朝廷を支配)が、袁譚を正式に刺史に任命。(曹操は当時、袁紹サイド。)
当時の青州は、無法地帯が多かったため、民衆は袁譚を歓迎する。しかし、袁譚は悪政を敷いたという。貪欲に搾取を行い、権勢者の横暴も放置し、百姓は虐げられる。
青州では元々、官が力を削がれており、横暴な豪族が多かった。社会情勢の悪さは、実際は袁譚だけの責任ではない。
また、袁譚は名士たちを招聘したり、諸豪族の懐柔を試みるなど、一応の施策は行っている。しかし、焼け石に水だった。名士らの多くは、そもそも招聘に応じなかった。(これは、悪政が原因かも知れない。)一方、海賊の管承は、袁譚に帰属している。
なお、袁譚の青州赴任の背後には、家督争いの事情がある。袁紹は袁尚(三子)を跡継ぎにしたいと考え、袁譚を本拠地(冀州魏郡)から出した。袁譚は、鬱屈した感情を抱いたかも知れない。
また、曹丕の「典論」には、袁譚は思いやりがあったと記される。身近な者に対しては、面倒見のいい親分だったのだろう。基本的に、複雑な性格を有していた。
曹操は、臧覇(ぞうは)の一派を起用し、徐州北部・青州東部をまとめさせる。臧覇は徐州琅琊(ろうや)国の相、ナンバー2の孫観は北海郡の太守に就任。(この頃、北海国は北海郡に変わっていた。)臧覇は武侠の人で、独自の人脈を有していた。
当時、徐州・青州の一帯は、民情が安定しない。法治、礼教どちらも通用しにくい。曹操はあえて、侠者の臧覇を起用し、結果よく治まった。
200年、曹操は官渡で袁紹と対峙し、袁譚もこれに参加する。(官渡は司隷河南尹の東端。すぐ東に兗(えん)州。)一方、臧覇がしばしば青州西部(袁紹領)に侵入し、諸城の動きを封じた。
同年、袁紹は曹操に敗れ、二年後に病死。袁尚(袁紹の三子)がその跡を継ぐ。
やがて、袁譚は袁尚と抗争。両者とも向こう気が強く、次第に泥沼化する。将才は袁尚が少し上回り、袁譚は劣勢になった。
袁譚は、平原城に籠城。袁尚がこれを包囲すると、袁譚は曹操に使者を出し、帰順する。(平原城に留まったまま、後ろ盾を得た。)袁尚は、ほどなく撤退。
しばらくのち、袁譚は曹操に背き、冀州各地を奪還する。袁尚が曹操に敗れると、袁譚は直ちに袁尚を攻撃し、これを敗走させた。
その後、袁譚は平原県に帰還。ほどなく、南皮県(冀州渤海郡)に移る。曹操がこれを攻撃し、苦戦の末討ち滅ぼす。
一方、済南国において、黄巾の徐和が反乱。曹操は、夏侯淵、呂虔、臧覇に討伐させる。夏侯淵らは、鎮圧に成功。
こうして、青州全土の平定が終わる。この頃、孫観が青州刺史に就任。
後に、曹操は荊州に進軍。劉表(荊州牧)は病死し、子の劉琮が跡を継ぐ。劉琮は曹操に降伏し、青州刺史に任じられる。以後しばらく、青州の情勢は不詳。特に動乱は記されない。
魏王朝が成立してのち、王凌が青州刺史となる。地方統治に長けた人物で、この青州でも善政を敷く。指針をしっかり定め、賞罰を明らかにし、州内に安定をもたらした。
この王凌は、王允の甥に当たる。(王允はかつて、董卓を謀殺した人物。)曹操の時代から評判あり。
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1、孔融着任 2、袁譚着任
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青州の出来事2 袁譚着任
青州西部
青州の最西部には、平原という国がある。(漢の藩国。郡と同等。)冀州と接する重要な地域。(曹丕の時代、冀州に編入される。)名士の華歆(かきん)は、平原国の高唐県出身。(高唐県は、平原県(首都)の南東に位置。間に黄河を挟んでいる。)
華歆が高唐県の役人だった頃、一帯は歓楽街と化していた。時期は、「党錮の禁」事件の十年後くらい。この地域は、儒家の衰退により、良くも悪くも発展したらしい。
華歆はそんな中、街の空気に流されず、日々清廉を貫く。また、時々議論をしたが、その際、常に相手の考え方を尊重。(華歆は正統派の儒家だが、性格は柔軟。)やがて、孝廉(官僚の候補枠)に推挙され、朝廷に出仕した。
後に、劉備が高唐県の尉となり、やがて令に昇進。(尉は治安を司る。令は長官。)しばらくの間、腰を落ち着ける。
劉備と平原国
董卓の時代、後漢王朝は衰退し、諸勢力が割拠する。公孫瓚(幽州の群雄)は、青州の西部に手を伸ばし、袁紹(冀州の群雄)と争う。
191年、劉備は賊に敗れ(詳細不明)、公孫瓚を頼る。その後袁紹の軍と対戦し、戦功を挙げる。これにより、劉備は、平原国の相に任じられる。(駐在地は平原県。)
当時一帯は荒れていたが、劉備は警備体制を強化し、一方で存分に福祉を施した。大いに民心を得たという。
後に、公孫瓚は単経(ぜんけい)に命じ、平原県に駐屯させる。劉備は、馴染みのある高唐県に移動。また、陶謙が公孫瓚の意を受け、発干県(兗州)に駐屯した。
この頃、青州刺史は田楷という人物(公孫瓚の傘下)。州都は斉国の臨淄(りんし)県。劉備も、やがて田楷の元に赴く。
斉国は、袁紹・公孫瓚の争奪の地。何度も交戦が行われ、次第に荒廃した。
しばらくのち、孔融が青州刺史に任じられる。(駐在地は北海国のまま。)推薦したのは劉備(恐らく徐州牧の頃)。
袁譚の悪政
袁紹が、長子袁譚を青州刺史とする。(時期不詳。)駐在地は平原県。袁譚は、斉国の田楷、北海国の孔融を討伐する。いずれも敗走させ、州内を統一する。この頃、曹操(朝廷を支配)が、袁譚を正式に刺史に任命。(曹操は当時、袁紹サイド。)
当時の青州は、無法地帯が多かったため、民衆は袁譚を歓迎する。しかし、袁譚は悪政を敷いたという。貪欲に搾取を行い、権勢者の横暴も放置し、百姓は虐げられる。
青州では元々、官が力を削がれており、横暴な豪族が多かった。社会情勢の悪さは、実際は袁譚だけの責任ではない。
また、袁譚は名士たちを招聘したり、諸豪族の懐柔を試みるなど、一応の施策は行っている。しかし、焼け石に水だった。名士らの多くは、そもそも招聘に応じなかった。(これは、悪政が原因かも知れない。)一方、海賊の管承は、袁譚に帰属している。
なお、袁譚の青州赴任の背後には、家督争いの事情がある。袁紹は袁尚(三子)を跡継ぎにしたいと考え、袁譚を本拠地(冀州魏郡)から出した。袁譚は、鬱屈した感情を抱いたかも知れない。
また、曹丕の「典論」には、袁譚は思いやりがあったと記される。身近な者に対しては、面倒見のいい親分だったのだろう。基本的に、複雑な性格を有していた。
臧覇の活躍
198年、曹操が徐州に進軍する。領主の呂布を倒し、新たに州を支配する。曹操は、臧覇(ぞうは)の一派を起用し、徐州北部・青州東部をまとめさせる。臧覇は徐州琅琊(ろうや)国の相、ナンバー2の孫観は北海郡の太守に就任。(この頃、北海国は北海郡に変わっていた。)臧覇は武侠の人で、独自の人脈を有していた。
当時、徐州・青州の一帯は、民情が安定しない。法治、礼教どちらも通用しにくい。曹操はあえて、侠者の臧覇を起用し、結果よく治まった。
200年、曹操は官渡で袁紹と対峙し、袁譚もこれに参加する。(官渡は司隷河南尹の東端。すぐ東に兗(えん)州。)一方、臧覇がしばしば青州西部(袁紹領)に侵入し、諸城の動きを封じた。
同年、袁紹は曹操に敗れ、二年後に病死。袁尚(袁紹の三子)がその跡を継ぐ。
やがて、袁譚は袁尚と抗争。両者とも向こう気が強く、次第に泥沼化する。将才は袁尚が少し上回り、袁譚は劣勢になった。
袁譚は、平原城に籠城。袁尚がこれを包囲すると、袁譚は曹操に使者を出し、帰順する。(平原城に留まったまま、後ろ盾を得た。)袁尚は、ほどなく撤退。
しばらくのち、袁譚は曹操に背き、冀州各地を奪還する。袁尚が曹操に敗れると、袁譚は直ちに袁尚を攻撃し、これを敗走させた。
その後、袁譚は平原県に帰還。ほどなく、南皮県(冀州渤海郡)に移る。曹操がこれを攻撃し、苦戦の末討ち滅ぼす。
平定完了
青州の一部は、依然不穏。海岸地帯には、海賊の管承や、遼東公孫氏の地方軍がいる。曹操は、楽進に管承、張遼に遼東軍を討伐させる。いずれも勝利し、この一帯は平定された。一方、済南国において、黄巾の徐和が反乱。曹操は、夏侯淵、呂虔、臧覇に討伐させる。夏侯淵らは、鎮圧に成功。
こうして、青州全土の平定が終わる。この頃、孫観が青州刺史に就任。
後に、曹操は荊州に進軍。劉表(荊州牧)は病死し、子の劉琮が跡を継ぐ。劉琮は曹操に降伏し、青州刺史に任じられる。以後しばらく、青州の情勢は不詳。特に動乱は記されない。
魏王朝が成立してのち、王凌が青州刺史となる。地方統治に長けた人物で、この青州でも善政を敷く。指針をしっかり定め、賞罰を明らかにし、州内に安定をもたらした。
この王凌は、王允の甥に当たる。(王允はかつて、董卓を謀殺した人物。)曹操の時代から評判あり。
1、孔融着任 2、袁譚着任
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