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益州の出来事4 諸葛亮の手腕


統治方針
 皇帝は劉禅だが、実質の統治者は、大臣筆頭の諸葛亮。(王朝の在り方として、一つの定番の形。)
 諸葛亮は益州牧となり、丞相と兼任する。諸葛亮は以後、諸郡を統括しつつ、朝政、国政を主導した。

 劉禅は、諸葛亮を信任する。余計な異は唱えない。劉禅はそもそも、諸葛亮から教育を受けており、方針をよく理解していたと思われる。(勿論、親政したいという気持ちも、なかったとは言えないだろう。)


 諸葛亮は、公正さ、信賞必罰を重視。権勢者の特権を抑制する。
 諸葛亮は以前、法正(蜀の臣)に対し、こう述べている。「法は民に恩恵を与え、政治の大切さを知らしめる。」つまり、法の重視が徳治に繋がる、という考え。諸葛亮は、儒家の精神を基本としつつ、十分に法を行き渡らせた。
 政治理念と行政が合致し、蜀帝国は次第に一枚岩となる。(但し、南方は例外。)

 諸葛亮は、高い文化力をもって、僻地の益州を改革。その点、かつての劉焉と共通する。しかし、劉焉に比べ私心は少ない。




反乱発生

益州(南部)

滇池(てんち)、邛都(きょうと)、故且蘭(こしょらん)は、それぞれ、益州郡、越巂郡、牂牁郡の首都。
不韋は永昌郡の首都。武陽、朱提は、それぞれ、犍為郡、犍為属国の首都。



 蜀王朝は、財政上、南方に重点を置く。益州の南部は、高地を中心とし、産出物が豊富。(鉄・銅などの鉱物、塩、絹など。)しかし、異民族が多く、統治が容易ではない。

 223年、益州郡で反乱が起こる。(「益州郡」は、「益州」という州の中の一郡。後に建寧郡と改称。)郡の豪族の雍闓(ようがい)が、一帯の異民族と結託し、蜀王朝に抵抗した。恐らく、搾取に不満を持ち、劉備の死に乗じて蜂起。
 また、越巂(えつすい)郡の高定、牂牁(しょうか)郡の朱褒も、これに加担する。高定は、タイ系の異民族。朱褒は郡の丞で、反乱後太守を自称。
 更に、雍闓の部下・孟獲が、扇動を担当した。この孟獲は、タイ系と漢人の混血とされる。


 一方、州の最南端には、永昌郡あり。(首都は不韋県。)ここは終始反乱に加わらず。
 この永昌郡は、功曹(人事官)の呂凱が仕切っていた。当時、太守の交代時期に当たり、新しい太守がまだ来ていない。
 呂凱は、丞(太守の補佐官)の王伉(おうこう)と協力し、太守の事務を代行。やがて、雍闓から誘いが来ると、これを断る。その後、雍闓の軍を防ぎ通した。

 蜀王朝にとって、永昌郡は最も遠い。恐らく、関与すらあまりしておらず、郡の住民は蜀王朝に敵意がなかった。そして、憧憬があったのかも知れない。




南征とその後
 225年、諸葛亮は南征に出発。(事前に馬謖と画策。)李恢もこれに加わる。その頃、反乱軍は、主君の雍闓を殺害。代わりに、孟獲を擁立する。
 やがて、諸葛亮らは反乱を鎮圧し、孟獲は蜀に帰順した。(同225年。)


 諸葛亮は、三郡(建寧・越巂・牂牁)の再統治を開始。現地人を多く登用し、蜀王朝への不信感を解く。
 また、そうして秩序を確保し、計画的に徴収。財政を存分に充実させた。

 諸葛亮はまた、益州郡を建寧郡と改称。更に、永昌郡の北部・建寧郡の西部を合わせ、雲南郡を設立する。そして、呂凱を雲南郡の太守とし、王伉を永昌郡の太守に任じる。こうして、行政区分を改新すると同時に、功臣たちに報いた。
 しかし、しばらくすると、雲南郡で異民族が反乱(原因不明)。結果、呂凱は殺害される。南方の情勢が、いかに厄介だったかが分かる。


 牂牁(しょうか)郡では、馬忠が太守に就任する。この馬忠は行政に長け、諸事をしっかり切り盛りし、官の力を示す。その一方で、豊かな人間性を持ち、時々に寛容さを見せる。これらにより、大いに民心を得た。
 馬忠は数年後、成都に戻り、丞相参軍(諸葛亮の参謀)を務める。




庲降都督
 231年、張翼が庲降(らいこう)都督となり、益州南部の統治に当たる。(恐らく、李恢の後任。)平夷県(牂牁(しょうか)郡)に府を設置。
 当時の蜀は、北伐の時期に当たり、南方に注意を割けない。結果、異民族たちは、横暴になっていた。


 異民族の統治は、威光、恩恵を織り交ぜるのが常道。(馬忠もその方針を取った。)そのためには、「人治」(領主が随時に融通を利かせる)が有効となった。
 一方、張翼は、あえて法治に徹する。恐らく、情勢を鑑みて、改革が必要だと考えた。(また、張翼はこれまで、多くの郡県で長官を歴任。法務にも熟達していたと思われる。)

 しかし、やや性急だったらしく、やがて反乱が発生する。(233年。)張翼は鎮圧に手こずり、罷免されたが、軍糧をそつなく確保。後任の庲降都督・馬忠は、それを元とし、反乱鎮圧に成功した。

 馬忠はまた、建寧郡に進み、味県に(庲降都督の)府を設置。一帯の異民族に睨みを利かせる。




北伐

益州(北伐時)

街亭は、「街」という名の亭。(亭は県より下の行政単位。)
街亭、祁山、箕谷以外は県名。
雍州の地図


 当時、三国には、それぞれ秩序が存在。しかし、三国が統一されるまで、本当の安定はない。また、蜀にとって、魏との敵対関係は、既成の事実。
 228年、諸葛亮は北伐を開始し、漢中郡に本営を置く。当面、魏の首都(洛陽)を落とすのは難しいが、要地を奪取すれば態勢が整う。

 諸葛亮は、英才馬謖を街亭、勇将趙雲を箕谷(きこく)に駐屯させる。趙雲の方は、曹真(敵の主将)に対する囮の役目。
 街亭の場所は、雍州天水郡の東端。(亭とは、県より小さい行政単位。)箕谷の場所は、漢中郡の北西部。

 一方、諸葛亮は本軍を率い、祁山(きざん)方面に進軍。(祁山は、雍州天水郡。)ほどなく、雍州の三郡(南安、天水、安定)を降伏させる。
 しかし、馬謖は自らの策に溺れ、名将張郃(ちょうこう)に敗北。一方、趙雲、王平(馬謖の副将)は、巧みに撤退戦を行った。
 これで、第一次北伐は終了。雍州の三郡は、再び魏領に戻る。


 北伐は五度に渡る。第一次、第二次は228年。また、第三次は229年、第四次は231年。そして、第五次は234年。同年、諸葛亮は現地で病死する。
 魏の側の司令官は、第二次は曹真・郝昭(かくしょう)。第三次は郭淮(かくわい)。そして、第四次・第五次は司馬懿。

 第三次北伐時、諸葛亮は武都郡(雍州)を奪取。(首都は下弁県。)益州に組み入れる。更に、陰平郡(益州)の魏軍を駆逐した。(陰平郡は、元は広漢属国という名称。)




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