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劉表は遠方の袁紹に味方し、近辺の袁術と対する。袁術は無軌道で、堅実さが欠けている。これと結ぶのは得策ではない。
なお、後漢書には、「袁術は劉表の推挙により、南陽太守に就任した」という記述がある。これは、袁紹・袁術の対立が始まる前だろう。
袁紹と劉表は、タイプが少し似ており、ウマは合ったと思われる。いずれも儒教に即して為政し、形式と外面性を重んじ、道に外れたことは基本避ける。しっかり領地を統治し、十分に民心を得た。
しかし、人や物事の本質を見抜く力は、それほど高かった訳ではない。時に余計な猜疑心を抱いたという。
一方、袁術は侠の人。法や社会的規範より、個々人の心意気を重んじる。しかし、民に対しては思いやりがなかった。総じて、為政者に向いていないのだが、それなりに人は付いてきたらしい。形式を嫌う者達は、袁紹や劉表より、袁術と相性がよかっただろう。
江夏太守の黄祖(劉表の傘下)が、襄陽城の前方に駐屯し、孫堅に抗戦する。しかし、防ぐことはできず、襄陽城に退く。孫堅は進軍を続け、城を包囲した。
黄祖がやがて手勢を率い、夜陰の中で包囲を抜け出し、新たに兵を集めてくる。孫堅はこれを破り、先頭に立って追撃したが、黄祖の伏兵に射殺される(191年)。黄祖側にとっては、半ば偶発的な勝利。(しかし、黄祖が戦局を変化させ、勝利を導いたことに変わりはない。)
その後、劉表は軍を分遣し、各地の道路を封鎖。袁術は略奪できる場所が減り、次第に財政が欠乏した。
一方、長安では、董卓が日々横暴を振るう。やがて、王允(朝廷の大臣)、呂布(配下の武将)の裏切りに遭い、殺害される(192年)。
しかし、残党の李傕(りかく)、郭汜らが健在。彼等がまもなく、朝廷を支配。劉表の懐柔を考え、州牧に昇格させた。
袁術にとって、劉表は目の上のタンコブ。しかし、最大の敵は袁紹で、あまり劉表に構っていられない。
あるとき、袁術は大軍を率い、荊州を出る。袁紹のいる冀州を目指し、北に進軍する。しかし、曹操(当時袁紹と結託)の前に敗北(193年)。以後、袁術は荊州から姿を消し、代わりに揚州を荒らす。
その後、劉表は張繍(中小軍閥)と連合。張繍は、宛県(南陽郡の首都)に駐屯する。劉表は定期的に物資を援助し、曹操の侵攻を防がせた。
張繍はやがて、曹操に降ったが、ほどなく離反。再び劉表と連合し、穣県(南陽郡)に駐屯する。(穣県の場所は、宛県の少し南西。)
学者の中では、宋忠、司馬徽(しばき)らが有名。「荊州学」と呼ばれる、実践的儒学が盛んになる。諸葛亮(諸葛孔明)も、司馬徽の元でこれを学んだ。
また、蔡瑁が、江夏、南郡、章陵で太守を歴任する。(黄祖が江夏太守になったのは、恐らく蔡瑁よりあと。)章陵郡は、元は南陽郡の南部。蒯越も蔡瑁同様、章陵太守になっている。(時期は、蔡瑁の前かあとか不明。)この章陵郡は、後に「義陽郡」と改称。
蔡瑁の家は、南郡の大豪族で、郡内に幅を利かせる。儒家名士らとも繋がりあり。(なお、蔡家は、南郡の北部に居住。この地域は、後に襄陽郡と改称。)
劉表はあるとき、蔡瑁の姉の子を娶る。これをもって、南郡の諸豪族と繋がりを持った。
なお、蔡瑁は南郡太守になっているが、少し違和感がある。後漢王朝の原則では、出身地の太守にはなれない(癒着を防ぐため)。蔡瑁は、正式な太守ではなく、「一時的な代行」という形だったのかも知れない。(当時、そういう形の任命は、結構あったという。)
劉表の治世は、基本的に評判がよかった。しかし毛玠(もうかい)は、劉表の政治を「弛緩している」と見て、仕官を避けたという。(その後、曹操の元に行き、実直な官僚として重用される。)
劉表は常々、豪族に配慮、忖度していた。(蔡瑁厚遇は、その代表例。)それをもって、上手く政治体制を維持したが、毛玠の考えには合わず。
張羨はかつて、零陵、桂陽でも太守を務め、荊州南部で広い人望あり。しかし、規範や道理を軽んじ、我意を通すタイプ。このため、儒者の劉表は張羨を嫌う。
劉表は教養人として、常に道理を考え、身を慎んで生きてきた。劉表は恐らく、好き勝手に振舞う者達を憎み、彼等が幅を利かせることが我慢ならない。劉表はかつて、不服従民の指導者達を殺戮している。彼等は横暴をもって知られていた。
張羨は横暴という訳ではなく、結構人心を掴んでいた。しかし劉表は、張羨を正しくない人物と捉えた。また、張羨に人望があることが、余計気に食わなかったのだろう。更に、荊南(荊州南部)が張羨の色に染まることを恐れた。劉表は文化国家を目指しており、そのためにも張羨を排除したい。
張羨は劉表から冷遇され、不満を抱く。やがて、長沙、零陵、桂陽の三郡を率い、劉表に叛意を示した(198年)。
劉表は軍を動員し、張羨を討伐したが、なかなか勝てない。200年、中原で官渡の戦い(袁紹VS曹操)が始まったが、劉表は依然張羨と抗争中。やがて、張羨は病死し、子の張懌が跡を継ぐ。劉表はその後、ようやく平定に成功した。
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1、混乱期 2、劉表の時代 3、変動期
4、関羽と孫権 5、魏晋と呉
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荊州の出来事2 劉表の時代
袁術と劉表
この頃、袁紹と袁術は敵対し、南北で牽制し合う。この両者を中心とし、群雄割拠の時代が始まる。劉表は遠方の袁紹に味方し、近辺の袁術と対する。袁術は無軌道で、堅実さが欠けている。これと結ぶのは得策ではない。
なお、後漢書には、「袁術は劉表の推挙により、南陽太守に就任した」という記述がある。これは、袁紹・袁術の対立が始まる前だろう。
袁紹と劉表は、タイプが少し似ており、ウマは合ったと思われる。いずれも儒教に即して為政し、形式と外面性を重んじ、道に外れたことは基本避ける。しっかり領地を統治し、十分に民心を得た。
しかし、人や物事の本質を見抜く力は、それほど高かった訳ではない。時に余計な猜疑心を抱いたという。
一方、袁術は侠の人。法や社会的規範より、個々人の心意気を重んじる。しかし、民に対しては思いやりがなかった。総じて、為政者に向いていないのだが、それなりに人は付いてきたらしい。形式を嫌う者達は、袁紹や劉表より、袁術と相性がよかっただろう。
袁術の動き
劉表は、襄陽県(南郡の北部)を本拠地とする。その北には、袁術が支配する南陽郡。あるとき、袁術は孫堅に指令し、襄陽城に進軍させる。江夏太守の黄祖(劉表の傘下)が、襄陽城の前方に駐屯し、孫堅に抗戦する。しかし、防ぐことはできず、襄陽城に退く。孫堅は進軍を続け、城を包囲した。
黄祖がやがて手勢を率い、夜陰の中で包囲を抜け出し、新たに兵を集めてくる。孫堅はこれを破り、先頭に立って追撃したが、黄祖の伏兵に射殺される(191年)。黄祖側にとっては、半ば偶発的な勝利。(しかし、黄祖が戦局を変化させ、勝利を導いたことに変わりはない。)
その後、劉表は軍を分遣し、各地の道路を封鎖。袁術は略奪できる場所が減り、次第に財政が欠乏した。
一方、長安では、董卓が日々横暴を振るう。やがて、王允(朝廷の大臣)、呂布(配下の武将)の裏切りに遭い、殺害される(192年)。
しかし、残党の李傕(りかく)、郭汜らが健在。彼等がまもなく、朝廷を支配。劉表の懐柔を考え、州牧に昇格させた。
袁術にとって、劉表は目の上のタンコブ。しかし、最大の敵は袁紹で、あまり劉表に構っていられない。
あるとき、袁術は大軍を率い、荊州を出る。袁紹のいる冀州を目指し、北に進軍する。しかし、曹操(当時袁紹と結託)の前に敗北(193年)。以後、袁術は荊州から姿を消し、代わりに揚州を荒らす。
その後、劉表は張繍(中小軍閥)と連合。張繍は、宛県(南陽郡の首都)に駐屯する。劉表は定期的に物資を援助し、曹操の侵攻を防がせた。
張繍はやがて、曹操に降ったが、ほどなく離反。再び劉表と連合し、穣県(南陽郡)に駐屯する。(穣県の場所は、宛県の少し南西。)
善政
劉表は、荊州に独自の国を築き上げる。教育に力を入れ、各地に学校を開き、儒学を興隆させる。また、対外戦争は仕掛けない。福祉を重んじ、民力は向上し、物資が豊富に蓄積。他の州からも、人々が避難してくる。学者の中では、宋忠、司馬徽(しばき)らが有名。「荊州学」と呼ばれる、実践的儒学が盛んになる。諸葛亮(諸葛孔明)も、司馬徽の元でこれを学んだ。
また、蔡瑁が、江夏、南郡、章陵で太守を歴任する。(黄祖が江夏太守になったのは、恐らく蔡瑁よりあと。)章陵郡は、元は南陽郡の南部。蒯越も蔡瑁同様、章陵太守になっている。(時期は、蔡瑁の前かあとか不明。)この章陵郡は、後に「義陽郡」と改称。
蔡瑁の家は、南郡の大豪族で、郡内に幅を利かせる。儒家名士らとも繋がりあり。(なお、蔡家は、南郡の北部に居住。この地域は、後に襄陽郡と改称。)
劉表はあるとき、蔡瑁の姉の子を娶る。これをもって、南郡の諸豪族と繋がりを持った。
なお、蔡瑁は南郡太守になっているが、少し違和感がある。後漢王朝の原則では、出身地の太守にはなれない(癒着を防ぐため)。蔡瑁は、正式な太守ではなく、「一時的な代行」という形だったのかも知れない。(当時、そういう形の任命は、結構あったという。)
劉表の治世は、基本的に評判がよかった。しかし毛玠(もうかい)は、劉表の政治を「弛緩している」と見て、仕官を避けたという。(その後、曹操の元に行き、実直な官僚として重用される。)
劉表は常々、豪族に配慮、忖度していた。(蔡瑁厚遇は、その代表例。)それをもって、上手く政治体制を維持したが、毛玠の考えには合わず。
反乱発生
当時、劉表の支配は、荊州全土には及んでいない。張羨という人物が長沙太守を務め、独自の勢力を保っていた。張羨はかつて、零陵、桂陽でも太守を務め、荊州南部で広い人望あり。しかし、規範や道理を軽んじ、我意を通すタイプ。このため、儒者の劉表は張羨を嫌う。
劉表は教養人として、常に道理を考え、身を慎んで生きてきた。劉表は恐らく、好き勝手に振舞う者達を憎み、彼等が幅を利かせることが我慢ならない。劉表はかつて、不服従民の指導者達を殺戮している。彼等は横暴をもって知られていた。
張羨は横暴という訳ではなく、結構人心を掴んでいた。しかし劉表は、張羨を正しくない人物と捉えた。また、張羨に人望があることが、余計気に食わなかったのだろう。更に、荊南(荊州南部)が張羨の色に染まることを恐れた。劉表は文化国家を目指しており、そのためにも張羨を排除したい。
張羨は劉表から冷遇され、不満を抱く。やがて、長沙、零陵、桂陽の三郡を率い、劉表に叛意を示した(198年)。
劉表は軍を動員し、張羨を討伐したが、なかなか勝てない。200年、中原で官渡の戦い(袁紹VS曹操)が始まったが、劉表は依然張羨と抗争中。やがて、張羨は病死し、子の張懌が跡を継ぐ。劉表はその後、ようやく平定に成功した。
1、混乱期 2、劉表の時代 3、変動期
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