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冀州の出来事2 袁家と曹操


河北制覇
 袁紹と公孫瓚は、いずれも名将だった。しかし人脈、人望に差あり。公孫瓚は常々、士大夫層を圧迫し、あるとき劉虞(幽州牧)を殺害。これにより、ますます人望を失った。

 その後、袁紹は優位に立つ。劉虞は異民族(烏丸など)に人望があったが、袁紹は彼等を味方に取り込み、公孫瓚を追い込む。公孫瓚は、「易京」という城塞に籠城。(易京は、かつて公孫瓚自身が構築。場所は、冀州河間郡の易県。)
 この易京を前に、袁紹は手こずり、4年ほど経過する。袁紹は攻城兵器を整え、改めて攻撃をかける。易京を陥落させ、公孫瓚は自害(199年)。

 袁紹はこの頃、長子袁譚を青州刺史、次子袁煕(えんき)を幽州刺史、甥高幹を并州刺史に任じる。(正確な時期は不明。)


 袁紹は河北を制したものの、実際は内部に問題を孕む。袁紹政権では、豪族が農村をまとめ、儒家名士(豪族出身)が家臣団を構成。彼等が伸長するにつれ、中央集権は妨げられ、君主権力に不安が生じる。袁紹は、その反動で専横的になり、時々粛清も行った。
 袁紹は長らく、豪族・名士をよくまとめ、一大勢力を築き上げた。しかし、限界の時は近付いていた。




顔良と文醜

冀州(官渡戦の頃)

官渡、烏巣は土地名。(前者は司隷、後者は兗州。)延津は、黄河の渡し場の名称。以上の他は県名。
なお、官渡の南方に、許県がある(豫州潁川郡)。いわゆる許都。



 200年、袁紹は黎陽県に本営を設置。黄河を挟み、南の曹操と対峙する。一方で、配下の顔良を遣わし、対岸の白馬城を攻撃させた。
 曹操は荀攸の献策の元、陽動作戦を用い、袁紹は本軍の多くを西に送る。袁紹はこれにより、顔良を援護できなくなる。
 曹操は続いて、白馬城に進軍し、包囲軍の後方を狙う。顔良は止むなく迎撃したが、態勢は整わない。関羽(当時曹操の客将)が自ら、指揮車を急襲し、顔良を討ち取った。

 袁紹はその後、黄河を南に渡河。配下の文醜に命じ、延津(えんしん)に出撃させる。(延津は白馬城の南西にあり、同じく黄河南岸に位置。)文醜は騎兵隊を引率し、前進を開始。曹操は荀攸と画策し、囮の部隊を出し、文醜を奇襲して討ち取る。

 顔良、文醜は名将だったため、その敗北後、袁紹軍は震撼した。(また、開戦前、孔融(曹操の参謀)は「顔良、文醜は三軍に冠たる勇将」と評していた。)この二将は、袁紹の将兵から、相当頼りにされていたのだろう。曹操軍と対戦するまで、連戦連勝の勢いだったと思われる。しかし、曹操の手際の前に敗北。
 しかし、袁紹軍は兵力が多い。二将の敗北後も、優勢は変わらない。




官渡戦
 袁紹は進軍し、官渡で曹操と対峙。
 官渡は、延津(兗州陳留郡)の南に位置する。司隷河南尹の東端の一帯。(県名ではなく土地名。)

 袁紹は大軍をまとめ、徐々に曹操を圧迫し、曹操は一時は撤退を考える。
 しかし、許攸(袁紹の参謀)が土壇場で離反し、情報を漏らす。(袁紹の専横への反発と、同僚との確執が原因。)結果、袁紹は補給地の烏巣(うそう)を狙われる。(烏巣も土地名で、陳留郡の北西部。官渡の北東に位置。)
 袁紹は烏巣、敵本陣の両方に兵を送ったが、どちらも失敗に終わる。その後、曹操は総攻撃をかける。袁紹は官渡から退き、黎陽の軍営に戻った。(200年。)


 半年後、倉亭の袁紹軍が曹操に敗れる。倉亭は黄河の南(兗州)。
 一方、河北の諸県で反乱が発生。袁紹はまだ余力があり、これを全て鎮圧する。しかし、この頃、既に病身。やがて、鄴県で死去する(202年)。
 その後、審配らが画策し、三子の袁尚を跡継ぎとした。袁譚(袁紹の長子)はこれに反発。




袁譚と袁尚

冀州(袁譚と袁尚)



 袁譚は車騎将軍を自称し、黎陽城に駐屯する。表向きは袁尚に従いながら、独自に勢力を持とうとした。
 やがて、曹操の軍が黎陽に進軍する。袁尚は二度、援軍要請を受けたが、袁譚の勢力拡大を警戒。自ら黎陽に赴き、袁譚に軍を分け与えず。

 袁譚、袁尚は協力態勢を取り、曹操と対陣する。なかなか勝負は付かなかったが、半年が経過した頃、袁譚らは劣勢になる。本拠地の鄴(ぎょう)城に撤退し、曹操はこれを追撃。
 あるとき、袁尚が逆襲し、曹操を撃破する。曹操は郭嘉の進言により、一時撤退し、袁譚・袁尚の共倒れを狙った。


 袁譚は本来、生真面目な性格。しかし、母劉氏も袁紹も、常々袁尚に肩入れ。その結果、袁譚は次第に屈折し、横暴な性格になっていった。また、野心家の郭図(かくと)が袁譚を補佐し、絶えず画策した。

 曹操撤退後、袁譚は袁尚に背き、鄴県周辺を荒らし回る。やがて袁尚に迎撃され、南皮県(渤海郡)、続いて平原県(青州平原国)に撤退。その後、館陶県(魏郡の北東部)で一時勝利したが、結局敗れて平原県に退く。袁尚は、武勇をもって知られていた。
 袁尚は、平原城に進軍する。袁譚は、曹操に帰順の使者を出し、後ろ盾とする。袁尚は、不利と見て撤退。




曹操の勝利
 204年、曹操が鄴城を攻略する。(守将審配。)長期戦になったが、水攻めを用い、やがて陥落させる。
 同年、曹操は冀州牧となり、新たな本拠地とする。また、袁紹の墓に赴き、涙を流したという。(曹操と袁紹は、かつての盟友。)

 一方、袁譚は曹操に反逆。郭図の計画に従い、冀州諸郡(甘陵、安平、渤海、河間)を奪還する。その頃、袁尚は曹操に敗れ、中山国に駐在。(中山国の首都は盧奴(ろど)県。)袁譚は袁尚を攻撃し、袁尚は袁煕(幽州刺史)の元に逃亡した。
 袁譚はその後、南皮県に駐屯し、曹操の軍と対峙。曹操は苦戦の末、南皮を陥落させ、袁譚、郭図は共に敗死する(205年)。

 205年、袁尚、袁煕は、烏丸族の地に亡命する。207年、袁尚らは烏丸と協力し、共に曹操に抗戦。しかし敗れ、遼東郡(幽州東部)に向かう。乗っ取りを画策し、公孫康(遼東太守)の殺害を企てたが、逆に殺害される(207年)。
 以上により、冀州・幽州・并州・青州、全て曹操の手に落ちた。




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