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交州の出来事1 士燮の時代


隔絶の地
 交州は、現在のベトナム辺りに位置。また、龍編県(交阯郡の治所)は、現在のハノイ(ベトナムの首都)辺り。

 交州は、漢王朝から見ると、南方の辺境の地。江南地方より、更に南に位置し、かなりの未開地だった。異民族も多い。
 朝廷が送り込む地方長官らは、現地人の風俗を理解せず、度々トラブルが起こっていた。後漢時代の地方長官は、民の教化が使命とされたが、交州ではそれは困難。無理に行おうとすれば、行き違いと混乱あるのみ。
 交州の地方長官の一部は、教化を最初から断念。しばしば、高価な珍品を集めることにかまけた。

 この交州という地は、漢帝国の一州でありながら、ほぼ異国みたいなもの。当時、日南郡(交州の中でも最南端)では、男女が裸で生活していたという。




士燮登場
 184年、士燮(ししょう)が交阯(こうし)太守となる。一方、交州刺史は朱符という人物。
 この朱符は、名臣朱儁(しゅしゅん)の子だが、横暴な性格。苛酷な搾取を行う。結果、現地人に暴動を起こされ、殺害された。

 その後、士燮は自分の弟達を推挙し、交州各地の太守とする。合浦(がっぽ)は士壱、南海は士武、九真は士䵋(しい)。こうして、士燮は、州の大半を実質統括。州内に秩序が戻った。
 一方、張津(ちょうしん)が朱符の後任として、交州刺史に就任する。地位は士燮より上だが、権勢は実質及ばない。




治世
 士燮は学問を好み、性格は温厚で、大きな人徳あり。また、出身は交州蒼梧郡。南方人の気質、生活習慣をよく理解しており、柔軟に為政する。(礼教を強要せず。)
 また、海の先の国々と交易し、一族は栄える。一方で、福祉体制を整え、領民たちに恩恵を与えた。


 士燮はまた、亡命者、流亡者を広く受け入れる。その代表は、まず許靖。豫州出身の名士で、江南(揚州)に滞在していたが、孫策の軍を避けて流亡。苦難を経て、交阯郡に到着した。(後に劉璋から招聘され、益州で仕官。)

 他には、劉巴が「張」と改姓し、交阯郡に逃れている。劉巴は荊州の名士で、曹操に仕えていた。あるとき、荊州南部の説得に行ったが、一帯は既に劉備が制圧。北への帰路がなくなり、南方の交州に赴いた。
 劉巴は、しばらくは交阯に滞在する。しかし、元来が謹厳な儒士で、融通が利かない性格。士燮とは意見が合わず、結局益州に出奔した。(士燮は儒学を学ぶ一方、商業主義。)




変動
 交州刺史の張津は、道教に傾倒し、布教しようとする。また、荊州刺史の劉表と仲違いする。(劉表は正統派の儒家。基本的に合わない。)
 張津は曹操と通じ、度々荊州に侵攻する。しかし、部下から信望を得られておらず、やがて殺害される。
 その後、劉表が頼恭(らいきょう)を起用し、新しい刺史に任じる。劉表はまた、呉巨を起用し、蒼梧郡の太守に任じた。呉巨は劉備(当時劉表の傘下)の知り合いでもある。

 208年、劉表が死去し、劉備は曹操の攻撃を受ける。このとき、劉備は、呉巨を頼ることを考える。しかし、魯粛(呉の参謀)が、「呉巨は頼りにならない」と制止した。
 劉備はその後、呉の孫権に助力する。孫権は、赤壁で曹操を破る(208年)。

 頼恭は熟年の教養人で、呉巨の方は武辺者。頼恭は常々、呉巨の意見を軽視。結果、呉巨は頼恭を追放する。その後、呉巨は、表面的に孫権に帰服した。
 一方、頼恭の方は、劉備に仕官。厚遇を受け、後には、蜀王朝設立の議に加わる。




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1、士燮の時代 2、呉による支配


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