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交州の出来事2 呉による支配


孫権と交州
 孫権が、歩隲(ほしつ)を新たな刺史とする。歩隲伝には、「210年に鄱陽(はよう)太守となり、すぐ交州刺史に転じた」と記載。刺史就任は、210年か211年だろう。
 歩隲は知性、人格をもって知られたが、一方で冷徹さを持つ。呉巨の野心を見抜くと、宴に誘って殺害する。士燮はそれを知り、孫権に恭順の意を示した。

 また、孫権は薛綜(せつそう)を送り込み、合浦(がっぽ)太守とする。続いて、交阯太守に任じる。(いずれも時期不詳。)薛綜は、政務に長けた人物。
 当時、士燮の一族は、南方との貿易体制を確立していた。孫権は当然、その利権に関わる算段だった。


 孫権にとって、交州は、基本的に興味の湧く地。しかし、僻地であることに変わりはない。未開地が多く、時に追放の場として用いた。

 当時、呉に陸績という名士あり。陸康の子で、陸遜の又従兄弟。硬骨漢だったため、段々孫権に疎まれ、鬱林郡の太守に任じられる。(212年。)鬱林はその名称からも、どんな土地か想像が付くだろう。基本的に、文化は発達していない。学者タイプの陸績にとって、不本意な人事であった。

 後には、虞翻(ぐほん)が交州に追放される。こちらは完全な流刑。虞翻は江東屈指の名士で、常に孫権に直言した。
 虞翻は交州にあって、学究に励む。また、人々にも惜しまず教授し、門下生は数百人に上ったという。




呂岱の活躍
 220年、歩隲は荊州に転任し、呂岱が後任の刺史となる。

 あるとき、鬱林郡で異民族が反乱し、呂岱がこれを討伐する。薛綜も随行。(なお、陸績は既に死去。)鎮圧は完了する。その後、薛綜は都に戻り、孫権を近くで補佐した。
 223年、蜀の雍闓(ようがい)が反乱。士燮を通じ、呉と連絡を取る。(雍闓は後に部下に殺害され、反乱も鎮圧される。)
 226年、士燮が死去し、子の士徽(しき)が跡を継ぐ。


 呂岱が孫権に上奏し、交州の分割を提言。孫権は同意し、東部は広州、西部が交州となる。そして、戴良(たいりょう)が交州刺史となり、呂岱は広州刺史となった。
 一方、孫権は士徽を九真太守に任じ、交阯から移住させる。士徽は恐らく、これらが不満で、一族を挙げて反乱。呂岱がこれを討伐し、士徽らを殺害する(226年)。こうして、士氏の勢力は滅亡。
 その後、広州は廃止される。呂岱は、交州刺史に復帰。また、九真郡の反乱を鎮圧し、州内は大方平穏になった。交州の南の諸国も、呉に恭順する。

 231年、呂岱は荊州長沙郡に転任する。薛綜が孫権に上奏し、交州の歴史、及び厄介な情勢について論述。後任の人事に関し、注意を促す。(なお、後任者の名前は記されず。)  




南海郡
 245年、鍾離牧(しょうりぼく)が南海郡の太守となる。鍾離牧は政治、軍事に長け、人格者としても知られた人物。呉王朝の逸材。
 この南海郡は、交州の東部に位置する。(呂岱が活躍したのは主に西部。)揚州の南に隣接。

 鍾離牧は、威と恩を織り交ぜ、領内を治める。また、高涼郡で反乱が起こると、赴いて鎮圧する。(高涼郡は、南海郡の西隣。元は合浦(がっぽ)郡という名称。)
 また、南海郡に曾夏(そうか)という者あり。不服従民を率い、十年以上、独自の勢力を持っていた。鍾離牧は、使者を送って勧告し、曾夏はほどなく恭順。




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