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涼州の出来事1 辺境の勢力


漢人と羌族
 涼州は、西の辺境にあり、東西に長い。州内に漢人・羌族が共存し、情勢が安定しない。
 また、州の西部には、王朝の支配が十分及んでいない。シルクロードで有名な敦煌は、後漢末から魏王朝成立まで、二十年ほど太守が不在であった。


 羌族は、チベット系の遊牧民族。かつて匈奴に恭順し、その庇護下に入った。
 やがて、前漢の武帝が匈奴を討伐。これを弱体化させ、羌族も同時に衰える。後漢初期、朝廷は羌族を討伐し、あらかた帰服させた。
 漢王朝はしばしば、羌族を漢の内地に移住させ、本来の居住地から隔離。それをもって、彼等の力を削ぐ。同時に、漢の文化に従わせようとした。
 また、強力な行政組織を持つ漢人は、後進民族である羌族から搾取。あるいは過度に使役する。そうして、情勢は次第に悪化した。

 羌族たちは、その剽悍さ、団結力を武器とし、度々反乱を起こす。また、羌族は他の異民族に比べ知性もあり、漢語を習得する者も多かったという。


 後漢の後期、董卓という人物あり。隴西(ろうせい)郡の出身で、地方官吏の子。怪力で騎射に長ける。
 董卓は遊侠を好み、羌族の居住地区を渡り歩く。その顔役達と交流し、互いに意気に感じたという。

 董卓は後に仕官する。一方、羌族は、各地で漢王朝に反乱する。董卓は漢の武将として、これと歴戦する。董卓が討伐した羌族の中には、董卓と親交があった者もいたかも知れない。




蜂起勢力

涼州(韓遂登場)

允吾、狄道、冀は、それぞれ、金城郡、隴西郡、漢陽郡の首都。
隴は涼州の首都。



 後漢の後期、耿鄙(こうひ)という人物が、涼州刺史に任じられる。この耿鄙は、王朝の権威の元、悪政を繰り返す。
 184年、宋建、王国(人名)、羌族が結託して反乱する。朝廷は討伐に取り掛かる。馬騰という人物が官軍に入り、戦功を挙げた。
 この馬騰は、右扶風郡(司隷)の出身。羌族との混血で、地方官吏の子。才覚と人徳を備える。

 後に、宋建らは金城郡に向かう。(首都は允吾県。)宋建らは、郡吏の韓遂・辺章を取り込み、反乱軍の盟主に仕立てた。
 韓遂らは著名な地方官僚で、知識と人脈がある。一方、漢王朝への忠誠は欠けていた。宋建らにとって、利用価値があったのだろう。
 しかし、韓遂・辺章自身、かなりの野心家。やがて、名実共にトップに立つ。


 185年、韓遂らは三輔に侵入する。(三輔とは、右扶風、左馮翊、京兆の三郡。京兆の首都は長安。)やがて、董卓がこれを討伐。韓遂らは一度敗れたが、踏み止まる。この頃、辺章は死去(原因は不詳)。
 187年、耿鄙が金城郡(韓遂の本拠地)に進軍する。しかし人望はなく、部下に殺害される。韓遂はその後、王国(人名)共々、漢陽郡を攻略。(郡の首都は冀県。)太守の傅燮(ふしょう)は、漢への忠義を貫き、討死する。
 一方、耿鄙の軍には馬騰がいた。耿鄙死後、馬騰は韓遂と結託。細かい時期は不明。恐らく、漢陽陥落後。

 馬騰と韓遂は、王国(人名)を盟主に仕立て、三輔を荒らす。王国(人名)は、陳倉県(司隷右扶風郡)に進軍し、城を攻撃する(188年)。しかし、董卓・皇甫嵩が陳倉を救援し、王国(人名)を撃退(189年)。
 その後、馬騰と韓遂は、王国(人名)を追放する。(元々傀儡(かいらい)だったと思われる。)




董卓と中原人
 当時、宦官と地方豪族が結託。漢帝国は、中央、地方両面から腐敗し、次第に権勢を失った。
 189年、袁紹(儒家貴族)が宦官を誅滅。直後に、董卓が洛陽に入り、朝廷を制圧する。


 董卓は涼州の出身。漢人、羌族の相克の地で育った。その不条理な情勢は、元々は漢王朝の施政が原因。董卓の中には、中原の漢人への敵意があっただろう。漢の体制の破綻を目にしたとき、これを危機とは捉えず、好機と考えた。
 董卓は朝廷を制してのち、時の帝(少帝)の廃立を強行するなど、絶えず横暴を行う。

 もっとも、董卓は当初、中原の名士らを相応に尊重した。(それは諸人事から窺える。)しかし、中原人から支持は得られず、やがて袁紹らに反乱される。以後、董卓の暴虐は加速し、都は混乱に陥る。

 涼州の馬騰、韓遂は反乱軍に加わらず、情勢を静観。彼等は羌族と共にあり、羌族を圧迫する漢王朝を敵としていた。董卓政権は性質が違う。


 190年、董卓は長安遷都を強行する。(長安は涼州に近い。)一族は権勢を極め、董卓は「尚父」の称号を欲する。
 その昔、太公望(呂尚)が「尚父」と呼ばれていた。董卓はそれを称号化し、自ら名乗ろうとした。太公望を尊敬していたらしい。(なお、太公望は、羌族だったとされる。董卓は、基本的に羌族と相性が合う。)
 しかし、見識者の蔡邕(さいよう)が反対し、「天下が安定してからにしましょう」と述べる。董卓はこれを聞き入れる。




李傕と馬騰
 192年、王允、呂布が協力し、董卓を殺害する。(王允は朝廷の大臣、呂布は董卓配下の勇将。)
 一方、董卓の残党李傕(りかく)、郭汜(かくし)、張済が東方に駐屯していた。彼等は故郷の涼州に戻り、大軍を集め、その後長安を襲撃。呂布を敗走させ、王允を殺害する。
 張済はほどなく、弘農県(司隷弘農郡)に駐在。李傕らは、長安にあって横暴を振るう。


 馬騰、韓遂は軍を引き連れ、朝廷に挨拶に出向く。共々、李傕らの懐柔を受け、高位を与えられる。馬騰は更に、李傕と私的に通じようとした。
 李傕らは、いずれも涼州出身。馬騰は恐らく、同じ西方人として、政権に関わるつもりだった。李傕らには、董卓ほどの権勢はなく、分け入る余地がある。
 しかし、李傕は馬騰を拒絶する。警戒したのだろう。

 その後、馬騰は韓遂と協力し、李傕らを討伐する。馬騰、李傕の将才は、互いに劣らない。しかし、馬騰の内応策が失敗し、作戦が瓦解する。馬騰らは敗れ、本拠地に戻った(194年)。
 もし馬騰らが勝利し、政権を取っていたら、長安以西は安定したかも知れない。


 194年、雍州という州が新設。涼州の西部を分離し、州として独立させた。(後に、雍州の所領地は変わる。ここでは詳しく触れない。)    




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1、董卓台頭 2、関中の動向 3、魏による支配


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