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その後、曹丕は、并州・幽州・司隷・涼州を復活させる。(曹操に比べ、それほど急進的ではない。)
魏王朝の官僚登用は、「九品官人法」による。(220年、魏王朝成立前に施行。)制定を主導したのは、陳羣(ちんぐん)という儒家官僚。
この制度では、各郡の人事官が、地元の人材を綿密に審査。(九段階で評価。)結果、清流派の系譜を継ぐ人々が、各地から抽出された。
曹丕は一方では、文人達と広く交流。自らも、文学論「典論」を記し、新たな文化の興隆を試みる。内容は、文章や詩について、多角的に在り方を論じたもの。
洛陽の空気は、後漢とは異なり、儒教一色には染まらない。自由な気風が存在したと思われる。但し、時代一の文人・曹植は、洛陽にはいない。
曹植は曹丕の弟で、かつて曹丕と跡目を争った間柄。曹丕は曹植を地方の王とし、都から追い出した。曹丕は、親族間の争いを、殊更に警戒。曹植以外の親族も、同じく地方に追いやっている。
曹丕は、朝政面では、外戚、宦官の権力を排除。国政においては、法治、福祉を充実させ、全土に気を配る。性格的には、やや寛容さが欠けていたが、為政者としての評価は高い。
226年、曹丕は死去し、子の曹叡が跡を継ぐ。
また、当時の官界には、馴れ合いの風潮あり。そこで曹叡は、絶えず儒学の推奨に努め、自制と規律を促進した。曹丕に比べ、理想主義の傾向がやや強い。
曹叡はまた、身分にこだわらず、広く官民に意見を求める。意見書には、自ら目を通したという。
また、曹丕は親族を冷遇したが、曹叡は関係の修復を試みる。彼等は当時、藩国の王として、地方に在住。曹叡はあるとき、彼等を参内させ、努めて親睦した。(諸王の中で、代表的人物は曹植。)
一方、蜀の諸葛亮が、北伐を開始。魏の平安をおびやかす。この北伐は五度に渡り、228年から234年に及ぶ。
第四次、第五次北伐時、曹叡は司馬懿を起用する。司馬懿は持久策を取り、要地を守り通した。曹叡自身も戦略に関与。(曹叡は基本的に、自ら発案することを好んだという。そして、それらは大抵良案だったとされる。)
第五次北伐時、諸葛亮は五丈原(右扶風郡)に進出。屯田して長期戦の態勢に入ったが、やがて病死する。(なお、右扶風郡は、元は司隷所属。この頃は、雍州に属している。)
しかしやがて、宮殿の造営に凝り、農民たちを疲弊させる。家臣たちの諫言も、なかなか聞かず。
曹叡には当然、独自の強い思いがあった筈。例えば、宮殿が華々しく建ち並べば、洛陽の雰囲気は高揚し、新たな活力が生まれる。そして、曹家と魏王朝の威光も、揺るぎないものとなる。曹叡の思惑は、こんなところだろうか。
曹叡は、宮殿造営に関する思いについて、あまり語った形跡がない。例え語っても、家臣たち(儒家官僚が中心)には通じないと考えたのだろう。彼等は何より道理を重んじ、感覚的なことはあまり解さない。
また、「公共事業により、貧農に仕事を与えるのが目的だった」という説もある。この場合、「儒家官僚たちは保守的なので、画期的な策は理解しない」と考え、真意を告げなかったのだろう。
そもそも、曹氏と家臣たちの間には、権力を巡るせめぎ合いあり。(家臣の多くは、いわゆる名士層に所属。)曹叡の宮殿造営へのこだわりは、恐らくこれとも関係する。(曹氏の権威を示すことを欲した。)
何にしても、無茶な事業だったことは、諫言者の多さから窺える。曹叡はそれでも粘り、(規模の縮小はしたが、)やめることはなかった。この頃の曹叡は、基本的に、名君とは呼べない。
曹叡の死後、司馬昭(当時農政担当)は、農民たちを労務から解放。これにより、民心を得たという。
しかし、曹叡は優秀な皇帝。司馬懿も、曹叡をよく補佐し、重鎮として活躍する。曹氏と司馬氏の関係は、この頃は安定していた。
239年、曹叡は死去し、子の曹芳が跡を継ぐ。(当時8歳。)以後、皇族の曹爽が力を持つ。曹爽は徐々に司馬懿を排斥し、司馬懿は秘かに再起を窺う。
249年、司馬懿はクーデターを起こす。曹爽を殺害し、実権を掌握する。
司馬懿は、「九品官人法」を改新。中正官(郡単位)の代わりに、州大中正(州単位)を設置する。(中央政府との距離が近い。)
司馬氏は儒家の家系で、司馬懿も厳正な性格。中央集権を図ったのは、権力を固めた上で、存分に政治を矯正するため。当時、地方情勢は乱れており、司馬懿はそれを正そうとした。
司馬懿はまた、孫礼という人物を起用し、司隷校尉に任じる。この孫礼は、義士として知られ、諸地方を鎮撫した実績あり。司馬懿は常々、高く評価。
251年、司馬懿は死去し、子の司馬師が実権を握る。(その弟の司馬昭も、同じく権勢家。)
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1、何進と袁氏 2、辺境勢力 3、復興期
4、曹丕・曹叡の時代 5、新時代
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司隷の出来事4 曹丕・曹叡の時代
曹丕の手腕
220年、曹丕が献帝から禅譲を受け、魏王朝を開く。(禅譲とは、帝位を譲り受けること。)首都は洛陽。その後、曹丕は、并州・幽州・司隷・涼州を復活させる。(曹操に比べ、それほど急進的ではない。)
魏王朝の官僚登用は、「九品官人法」による。(220年、魏王朝成立前に施行。)制定を主導したのは、陳羣(ちんぐん)という儒家官僚。
この制度では、各郡の人事官が、地元の人材を綿密に審査。(九段階で評価。)結果、清流派の系譜を継ぐ人々が、各地から抽出された。
曹丕は一方では、文人達と広く交流。自らも、文学論「典論」を記し、新たな文化の興隆を試みる。内容は、文章や詩について、多角的に在り方を論じたもの。
洛陽の空気は、後漢とは異なり、儒教一色には染まらない。自由な気風が存在したと思われる。但し、時代一の文人・曹植は、洛陽にはいない。
曹植は曹丕の弟で、かつて曹丕と跡目を争った間柄。曹丕は曹植を地方の王とし、都から追い出した。曹丕は、親族間の争いを、殊更に警戒。曹植以外の親族も、同じく地方に追いやっている。
曹丕は、朝政面では、外戚、宦官の権力を排除。国政においては、法治、福祉を充実させ、全土に気を配る。性格的には、やや寛容さが欠けていたが、為政者としての評価は高い。
226年、曹丕は死去し、子の曹叡が跡を継ぐ。
曹叡の手腕
曹叡も意欲的な皇帝で、常に親政する。礼教を基本とし、厳格な法を改め、福祉を重んじる。また、当時の官界には、馴れ合いの風潮あり。そこで曹叡は、絶えず儒学の推奨に努め、自制と規律を促進した。曹丕に比べ、理想主義の傾向がやや強い。
曹叡はまた、身分にこだわらず、広く官民に意見を求める。意見書には、自ら目を通したという。
また、曹丕は親族を冷遇したが、曹叡は関係の修復を試みる。彼等は当時、藩国の王として、地方に在住。曹叡はあるとき、彼等を参内させ、努めて親睦した。(諸王の中で、代表的人物は曹植。)
一方、蜀の諸葛亮が、北伐を開始。魏の平安をおびやかす。この北伐は五度に渡り、228年から234年に及ぶ。
第四次、第五次北伐時、曹叡は司馬懿を起用する。司馬懿は持久策を取り、要地を守り通した。曹叡自身も戦略に関与。(曹叡は基本的に、自ら発案することを好んだという。そして、それらは大抵良案だったとされる。)
第五次北伐時、諸葛亮は五丈原(右扶風郡)に進出。屯田して長期戦の態勢に入ったが、やがて病死する。(なお、右扶風郡は、元は司隷所属。この頃は、雍州に属している。)
宮殿造営の真意
曹叡は英明で知られ、政治、国防で手腕を発揮。皇帝として、かなりの資質を備えていた。しかしやがて、宮殿の造営に凝り、農民たちを疲弊させる。家臣たちの諫言も、なかなか聞かず。
曹叡には当然、独自の強い思いがあった筈。例えば、宮殿が華々しく建ち並べば、洛陽の雰囲気は高揚し、新たな活力が生まれる。そして、曹家と魏王朝の威光も、揺るぎないものとなる。曹叡の思惑は、こんなところだろうか。
曹叡は、宮殿造営に関する思いについて、あまり語った形跡がない。例え語っても、家臣たち(儒家官僚が中心)には通じないと考えたのだろう。彼等は何より道理を重んじ、感覚的なことはあまり解さない。
また、「公共事業により、貧農に仕事を与えるのが目的だった」という説もある。この場合、「儒家官僚たちは保守的なので、画期的な策は理解しない」と考え、真意を告げなかったのだろう。
そもそも、曹氏と家臣たちの間には、権力を巡るせめぎ合いあり。(家臣の多くは、いわゆる名士層に所属。)曹叡の宮殿造営へのこだわりは、恐らくこれとも関係する。(曹氏の権威を示すことを欲した。)
何にしても、無茶な事業だったことは、諫言者の多さから窺える。曹叡はそれでも粘り、(規模の縮小はしたが、)やめることはなかった。この頃の曹叡は、基本的に、名君とは呼べない。
曹叡の死後、司馬昭(当時農政担当)は、農民たちを労務から解放。これにより、民心を得たという。
司馬懿の台頭
司馬氏は、古くからの名族。新興の曹氏との関係は、本来微妙だった。しかし、曹叡は優秀な皇帝。司馬懿も、曹叡をよく補佐し、重鎮として活躍する。曹氏と司馬氏の関係は、この頃は安定していた。
239年、曹叡は死去し、子の曹芳が跡を継ぐ。(当時8歳。)以後、皇族の曹爽が力を持つ。曹爽は徐々に司馬懿を排斥し、司馬懿は秘かに再起を窺う。
249年、司馬懿はクーデターを起こす。曹爽を殺害し、実権を掌握する。
司馬懿は、「九品官人法」を改新。中正官(郡単位)の代わりに、州大中正(州単位)を設置する。(中央政府との距離が近い。)
司馬氏は儒家の家系で、司馬懿も厳正な性格。中央集権を図ったのは、権力を固めた上で、存分に政治を矯正するため。当時、地方情勢は乱れており、司馬懿はそれを正そうとした。
司馬懿はまた、孫礼という人物を起用し、司隷校尉に任じる。この孫礼は、義士として知られ、諸地方を鎮撫した実績あり。司馬懿は常々、高く評価。
251年、司馬懿は死去し、子の司馬師が実権を握る。(その弟の司馬昭も、同じく権勢家。)
1、何進と袁氏 2、辺境勢力 3、復興期
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