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司隷の出来事5 新時代


司馬師の手腕
 司馬師は、国政、朝政を主導。儒教の理念に則し、堅実に為政する。また、身分にこだわらず、いい人材を発掘する。

 勿論、性格は一筋縄でいかない。司馬師は若年期、無頼の者三千を秘かに養い、洛陽の町のあちこちに潜ませた。つまり、宮廷の外にも、しっかり味方を作っておいた。当然、諜報などにも使っていただろう。司馬師という人物の、凄み、抜け目なさを示すエピソード。

 司馬師は、対外戦略も万全に行う。諸葛恪(呉)、姜維(蜀)の同時侵攻に対処。前者に関しては、城を堅守させ、後者に大軍を送る。どちらも、撃退に成功した。


 司馬師は、権力闘争にも余念がない。
 帝の曹芳は、次第に独自の意思を持ち、司馬氏の言いなりにならず。254年、司馬師は曹芳の素行を貶め、廃立を強行する。その後、新たに曹髦(そうぼう)を帝に据えた。
 司馬師は、統治者としては実直。また、部下にも寛容だったとされる。しかし、権力の問題が関わると、基本的に容赦がなかった。以前には、政敵の李豊を殺害している。

 やがて、寿春(揚州)で毌丘倹(かんきゅうけん)が反乱。(司馬氏を警戒したため。)司馬師はこれを鎮圧し、まもなく死去する。弟の司馬昭が、代わって大権を握った。




司馬昭の手腕
 司馬昭も、民政と権力闘争、双方に力を入れる。法の整備も実行。
 一方、諸葛誕が寿春(揚州)で反乱。(動機は毌丘倹と同様。)司馬昭はこれを討伐し、長期戦の末、鎮圧に成功する。
 その後、寿春一帯を慰撫し、民心の掌握に努めたという。 

 また、司馬昭には、鍾会という腹心あり。名臣鍾繇(しょうよう)の子で、英才エリート。策略、教養、野心の人。やがて司隷校尉となり、首都圏を治めた。
 司馬昭にはもう一人、賈充(かじゅう)という腹心あり。名臣賈逵(かき)の子で、策略、行政両方に長ける。また、我の強い性格で、規範にこだわらない。
 鍾会は半ば、独自の権力を有していたが、賈充は司馬昭の懐刀そのもの。両者とも癖のある性格だったが、司馬昭は、彼等を存分に使いこなした。


 曹髦は学問を好み、聡明さをもって知られる。そして、司馬昭の専横を常々憎む。(これは、「新興の曹氏」と「代々名族の司馬氏」の争いでもあった。)
 260年、曹髦は遂に挙兵。自ら剣を手に、司馬昭の役所を目指す。司馬昭はそれを知ると、賈充に対処を命じる。賈充は部下に命じ、曹髦を殺害させ、責任をその部下に押し付けた。(これは、司馬昭が指令したのかも知れない。)
 司馬昭はその後、曹奐(そうかん)を新しい帝とし、朝廷を支配。


 司馬昭はやがて、鍾会共々、蜀攻略の計画を練る。263年、実行に踏み切り、鍾会、鄧艾らに侵攻させる。
 同年、司馬昭は晋国(魏王朝の藩国)を建国し、晋公となる。晋国の領土は司隷、并州の二州に及び、合計で十郡。(司馬氏の出身地・河東郡を含む。)
 一方、蜀では、皇帝の劉禅が降伏。翌264年、鍾会は魏に背いたが、配下の兵達に殺害される。司馬昭は最初から、この事態を予期していたという。
 同年、司馬昭は晋王に昇格。十郡が新たに追加され、計二十郡となった。




世相
 司馬氏は、儒教を国教として掲げる。日々、統治に尽力。その一方で、権力闘争にも利用した。随時に、儒学書の恣意的解釈を行い、己の立場を正当化したという。曹芳の廃立も、「品行の欠如」が建前上の理由。
 また、官民は、儒教の規範・決まり事を忠実に守る。それをもって、司馬氏の治世への恭順を示す。結果、表面的態度が重視され、本当の感情が排される傾向が生じた。
 司馬氏は基本的に、仁政を行っており、国内に荒廃や混乱は少ない。盤石な礼教体制の元、統治は軌道に乗る。しかし、一方では、閉塞感も存在したとされる。司馬氏は、権力の確立・維持に余念がなく、常々独断的に事を行う。


 当時の世の儒教は、政権と強く結合。儒家本来の理想からは、乖離している部分あり。
 心ある教養人は、形骸化した儒教に背を向け、しばしば道教に傾倒する。(即ち、老子や荘子の思想。基本の流儀は無為自然。)彼等は、政権に対し無言の抗議をし、同時に世の空気を変えようとした。
 彼等の一部は隠遁し、精神生活に入る。「竹林の七賢」がその代表。首都の洛陽に住みながら、あえて世間から背を向ける。
 司馬氏に迎合する者たちは、しばしば彼等に干渉し、考えを変えることを強要した。

 七賢の筆頭は、阮籍(げんせき)という人物。俗物を相手にするとき、必ず白眼で対応したという。そこから、「白眼視」という言葉が生まれた。




儒教と道教
 儒教は、基本的に建前主義。権力が強要すれば、形骸化が生じる。

 ここでの建前とは、規範を意味する。儒家は基本的に、取るべき態度・行動を周到に定め、それを前面に掲げる。建前を立てること自体は、儒教の持ち味であり、武器でもある。

 儒教は本来、天の摂理を追求し、それを元に人の在り方を考える。摂理と建前(規範)は、表裏一体をなす。儒教文化の中で生きる漢人は、古来、建前を「ただの建前」と見ることはない。一つの真実と見なし、絶えず現実との一致を志向。それが随時、悪への抑止力となる。(以上は、権力者においても例外ではない。)
 しかし、その一方で、漢人は即物的な性質を保有。世俗的欲求が強い傾向がある。

 彼等においては、建前を方便として見ている部分、真実として重んじている部分、通常両方存在する。その境界は、しばしばはっきりしない。しかし、明らかに前者が上回る場合もある。
 建前と欲求が相反した際、時として、「大義」という上位の建前が持ち出される。例えば、強引な手段で政変を起こしても、それが「大義」ならば罪としない。つまり、「大義」をもって下位の建前(通常の道徳)を無効化し、欲求を押し通す。


 一方、道教は、ひたすら万物の原理を追求する。儒教と異なり、建前、規範を介さず生き方を考える。明確な倫理は作らず、感覚をもって真理を捉える。
 儒教が権力性を強め、形骸化が進むと、大体道教が流行り出す。民衆だけでなく、知識人層にもその傾向は生じる。
 魏の後期、多くの知識人が老荘思想を学び、形而上学の議論に没頭。結果、独自の文化が栄え、理想論が流行する。それは晋の時代まで、朝臣の性格を決定付け、善政が志向された。その反面、現実的な政治家は減ったとされる。




晋王朝
 司馬炎は、司馬昭の長子。賢明、度量をもって知られ、郷里で高い評判を得る。265年、司馬昭が死去すると、司馬炎は跡を継ぐ。
 265年、司馬炎は魏の帝(曹奐)から禅譲を受け、晋王朝を開く。

 司馬炎は儒学の興隆に努め、善行を推奨し、諫言もよく聞き入れる。(曹叡を思わせる人物。)加えて、人材の発掘に尽力した。
 司馬懿から司馬昭の三代は、仁徳と非情さが同居。(しばしば、後者が上回った。)しかし、司馬炎は少し違う。

 また、司馬昭の時代の法律は、煩雑な面あり。司馬炎は、賈充(かじゅう)に修正を命じ、杜預も途中から参加。やがて、新法「泰始律令」が完成する。(泰治は年号。)民百姓に、よく浸透したという。
 一方、羊祜(ようこ)が荊州に赴任。手腕と人徳に優れ、抜群の治績を挙げる。同時に、対呉の軍備も充実させた。

 279年、司馬炎は呉征伐を実行する。杜預が中心となり、賈充が監督役。晋軍は連勝を重ねる。280年、晋軍は呉を降伏させ、三国統一が成る。


 少しのち、司馬炎は、農政改革に取り掛かる。即ち、占田制(所有地を制限)、課田制(公田の割り当て)。
 これらの成果は、部分的なものに留まる。占田制は、地方豪族の反発を買い、軌道には乗らず。
 一方、税制の改革も行い、戸調式(家単位で徴税)を施行。


 司馬炎はここまで、実直に国事に尽くしてきた。しかし、次第に、堕落を見せ始める。女色に耽り、売官(官職を売る)も行うようになる。(長年の反動と思われる。)
 290年、司馬炎は死去。翌291年、皇族たちは自領で挙兵し、身内同士で争いを始めた(「八王の乱」と呼ばれる)。結果、晋王朝には、異民族が付け入る隙ができる。316年、晋王朝は匈奴に滅ぼされる。

 その後、司馬炎の甥・司馬睿(しばえい)が、江南に晋を再建(317年)。史学上、司馬睿の晋は「東晋」、司馬炎の晋は「西晋」と呼ばれる。




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