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司隷の出来事3 復興期


曹操到来
 当時、曹操が兗(えん)州を本拠地とし、勢力を確立。196年、曹操は洛陽に行軍し、帝を奉じる。
 曹操はほどなく、許県への遷都を実行。(許県は、洛陽の東に位置。豫州潁川郡。)以後、許県は「許都」とも呼称される。

 この頃、張済は弘農に戻っていたが、次第に糧食が欠乏する。そこで、略奪を行うため、荊州(劉表の領地)に侵攻する。その最中、流れ矢により戦死し、甥の張繍が跡を継いだ(196年)。

 李傕は、黄白城に駐在。(黄白城は、長安北の城塞。左馮翊郡。)その勢力は、既に衰えている。197年、曹操は諸軍を派遣し、これを討伐。198年、李傕は敗死する。
 また、郭汜の方は、郿(び)県に駐在。(郿県は、長安の西。右扶風郡。)しかし、部下の襲撃を受け、殺害される(197年)。
 こうして、董卓の残余勢力は滅亡し、司隷は曹操の統治下に入った。


 曹操は、鍾繇(しょうよう)を長安に赴任させ、関中方面を任せる。関中とは、長安以西の一帯を指す。(司隷西部と、涼州東部。)




河東の混乱

司隷(河東の動乱)



 冀州には、袁紹が割拠。河北を平定後、大軍で曹操を討伐する。曹操は、苦戦を経て勝利(200年)。やがて、袁紹は病死し、三子の袁尚が跡を継ぐ(202年)。

 202年、袁尚が高幹・郭援に指令し、河東郡に侵入させる。(河東郡は司隷の北部。首都は安邑県。)高幹は并(へい)州刺史でもあり、拠点は州都の晋陽県。
 鍾繇はまず、馬騰・韓遂(関中の軍閥)に利害を説き、呼応を防いだ。

 郭援は、河東郡の諸県に進軍し、次々降伏させる。かなりの軍才の持ち主。
 しかし、絳邑(こうゆう)県(河東郡)では、県長の賈逵(かき)が善戦する。しばらくのち、遂に降ったが、以後巧みに画策。郭援の軍を、内部から撹乱した。
 やがて、鍾繇が郭援を討伐。指揮下には馬超(馬騰の子)。郭援は敗れ、討死する。高幹は曹操に帰服。


 206年、高幹が反乱を起こす。河東郡では、これに内応する動きが出る。
 曹操は、杜畿という人物を起用し、河東太守に任じる。杜畿は巧みに策を弄し、首謀者たちを欺く。その内に、夏侯惇(曹操の将)が大軍で到着し、一味を撃破。
 一方、弘農郡の澠池(べんち)県では、賈逵が令を務める。この地でも内応者が出たが、賈逵は一味を巧みに撹乱。反乱の計画を頓挫させた。




安定へ
 鍾繇は、関中の住民に呼びかけ、洛陽に移住させる。更に、各地の逃亡者、亡命者を洛陽に呼び込む。洛陽は、次第に復興に向かった。

 また、董昭が河南尹(官職名)に任じられる。(河南は、洛陽を含む地域。)後には、夏侯惇が河南尹に就任。(恐らく董昭の後任。)董昭は参謀タイプで、応変に方策を考え出す。夏侯惇は実直な人物で、民政、軍政に長ける。

 一方、河東郡では、太守の杜畿が治績を挙げる。農事、防備、教育、福祉を全て充実させ、大いに民心を得た。


 また、張既という人物がおり、新豊県(京兆に所属)の令に就任。(京兆は、長安を含む地域。)この張既は、行政だけでなく、人心掌握にも長ける。治績は、三輔(京兆・左馮翊・右扶風の三郡)の諸県で随一。
 後に、張既は京兆尹(官職名)に任じられる。流民を呼び込み、街々を復興させ、広く人心を得た。

 この頃、馬騰が曹操に帰順し、前将軍となる。馬騰は、右扶風郡の槐里(かいり)県に駐屯し、一帯の統治に尽力。鮮卑族の侵入に備え、士大夫を厚遇し、民をいたわる。結果、三輔全域が平穏になった。

 213年、曹操は并州・幽州を冀州に、司隷・涼州を雍州に吸収させる。州の林立を排し、中央集権体制を強化。




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