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司隷の出来事1 何進と袁氏


後漢の体制
 司隷は、洛陽・長安を含む地域。(首都圏。)行政単位としては、州と同じだが、牧や刺史は置かれない。代わりに、「司隷校尉」が政事をまとめた。
 司隷という名称は、晋の時代に「司州」と改称。

 また、首都洛陽には、「太学」という学校あり。教科は儒学が中心で、官僚や学者を養成する。
 太学が設置されたのは、前漢の中期。武帝(七代皇帝)の時代。(儒家の董仲舒(とうちゅうじょ)の提言による。)
 当時、太学の建物は、長安の城邑の外(北西)に置かれた。(前漢の首都は長安。)後漢時代は、洛陽の城邑の外(南側)。


 後漢時代、太学で学び、官界・学会で活躍した者は、広く名声を得た。(後漢は文化国家。)彼等は帰郷後、塾を開くケースが多く、全国に私塾が林立。優秀な門下生は太学に入り、同様に活躍した。

 また、後漢には、「辟召」(へきしょう)という制度あり。府の長官は己の裁量で、自由に属官を招聘することができ、同時に恩顧関係が生じる。この辟召により、儒家官僚は、出身地が異なる者と連なった。

 このようにして、次第に、学閥や派閥が形成。それは絶えず、官僚人事に影響を及ぼした。




変動
 後漢時代の後半、宦官、外戚が朝廷で台頭。(宦官とは、皇帝の世話係(去勢男子)。外戚とは、皇后・太后の一族。)彼等はしばしば、地方豪族と結託し、農民から搾取する。次第に、官界の人事も牛耳った。
 こうして、後漢の体制は変容する。

 宦官と外戚は、権勢を巡り、互いに対立関係にある。宦官はやがて、外戚を制し、立場を強化する。また、彼等の貪欲さは、外戚以上。
 やがて、儒家の人士たちが、宦官グループと抗争を始める。前者は清流派、後者は濁流派と呼ばれる。(また、清流派はよく徒党を組んだため、「党人」とも呼ばれた。)
 かつて、豪族の一部は、宦官と妥協せず没落。清流派の多くは、そのような豪族の出身だった。彼等は救民、及び立場の回復を図り、活動を開始。また、外戚の一部は、宦官と対するため、清流派に加わる。

 清流派は、ある程度、官界の浄化に成功する。しかし、次第に理想が先走り、融通が利かなくなる。やがて、宦官たちは、「党錮の禁」という弾圧を行う。166年、169年の二度。これらにより、清流派(党人)は官界から駆逐され、宦官専横の時代となった。


 儒学自体は、その後も廃れない。175年、蔡邕(さいよう)が経書を校訂。霊帝の許可の元、それを石碑に刻み、太学の門外に建立する。たくさんの学生・学者がそれに殺到した。

 しかし、朝廷の状況は、簡単には変わらない。宦官たちは権勢を保ち、霊帝は彼等を信任。地方豪族は、農民への圧迫を続けた。




何進登場
 当時、張角という人物がおり、道教団体「太平道」を結成。苦境の農民から支持を集める。184年、張角が農民たちを率い、「黄巾の乱」を起こす。
 張角は、冀州に本拠地を置いた。また、荊州でも、黄巾の一派が大々的に蜂起。

 宦官たちは、黄巾と清流派の結託を警戒し、清流派の官界復帰を許す。また、外戚の何進が大将軍に就任し、鎮圧に当たる。皇甫嵩、朱儁ら儒将が各地に赴き、乱の鎮圧に成功した。(その後も、残党は健在。)


 朝廷では、何進と一部の宦官の間で、抗争が始まる。清流派は何進に味方し、次第に勢いを盛り返す。

 何進は、異色の経歴を持つ。元は家畜業者だったが、妹が宦官の手引きで後宮に入り、そのコネで出世した。
 しかし、権力を得るにつれ、宦官との競合が生じる。反何進派の宦官の筆頭は、蹇碩(けんせき)という人物。
 何進は部下をよく思いやり、大きな人望あり。一方、政争のセンスも有しており、蹇碩一派と一進一退。




袁氏登場
 後漢の後期、袁紹という人物がおり、清流派に属する。汝南郡(豫州)の名族の出で、やがて洛陽に移住。
 袁氏は他の清流派に比べ、理念はそれほど重視せず、現実主義の傾向が強い。袁紹は遊侠生活を送りながら、宦官に害される者たちを支援。やがて、何進に仕官した。

 何進はまた、袁術(袁紹の従弟)を招聘し、傘下に加える。袁術は気侠を尊ぶことで知られ、意気が盛んだった。洛陽に入ると、馬車を豪奢に飾り立て、城邑を日々パトロール。民百姓は「路中悍鬼」と呼んで恐れた。
 曹操も少しして朝廷に入り、「典軍校尉」となる。一方、袁紹は「中軍校尉」に就任した。

 やがて、霊帝が死去する。跡継ぎは未定。候補は、劉弁(兄)と劉協(弟)。前者には何進、後者には蹇碩が付いていた。(何進は劉弁の伯父。)
 蹇碩は、何進の殺害を企てる。しかし、何進は機先を制し、蹇碩を殺害する。そして、劉弁(少帝)が即位。


 後に、袁紹は司隷校尉、袁術は虎賁(こほん)中郎将となる。(司隷校尉は、司隷の統治者。虎賁中郎将は、近衛隊の隊長。)かくて、外戚と袁氏は、洛陽を半ば支配した。(袁紹と袁術は不仲だったが、この頃は特にトラブルなし。)




画策
 袁紹は、宦官誅滅を考える。清流派と宦官の抗争は、既に泥沼化。袁紹は、一気に片を付けることを考えた。
 宦官の多くは私欲が強く、そのために人々を害する。全員がそうという訳ではないが、袁紹の態度は徹底していた。

 何進は本来、袁紹のように過激ではない。しかし、宦官とは長年、緊張状態が続いている。恐らく、何進にも、一気に解決したい気持ちがあった。何進は、袁紹に引きずられる形で、計画に賛同した。

 何太后(何進の妹)はこれを制止。袁紹は、何太后に圧力をかけるため、諸地方の軍を都に呼ぶ。地方長官らは、都の政争の外におり、ある意味信頼を置きやすい。
 しかし、彼等も各々、独自の思惑を持つ。曹操は袁紹の計画を聞くと、失敗を予見した。




政変
 宦官側は、張譲らが中心となり、逆襲を開始。張譲らは、嘉徳殿に兵を伏せ、何進を呼び出す。(嘉徳殿は、南宮の宮殿。)何進が参内すると、これをなじって殺害する。(189年。)

 その後、袁術が呉匡(何進の腹心)と協力し、報復戦を開始する。まず、南宮の門に攻撃をかける。宦官側の兵が、これと対する。日が暮れ始めると、袁術は門を焼き払い、宮庭まで兵を進める。嘉徳殿に火をかけ、張譲らを待ち構えたが、なかなか出て来ない。一方、呉匡は宮中に突入し、張譲らを探索した。

 また、何苗(何進の弟)は日頃、何進と対立し、宦官たちと交流。呉匡は常々、何苗を敵視していた。
 呉匡は何苗の加担を考え、部下達に報復を呼びかける。部下達は皆涙を流し、団結して仇討ちを誓う。その結果、何苗は討死し、張譲も騒乱の中で自殺した。

 一方、袁紹が北宮におり、行動を開始。手勢を率い、宦官を無差別に殺戮し、まとめて滅ぼす。清流派・宦官の長年の抗争は、こうして幕を閉じた。
 その直後、董卓が洛陽に入り、朝廷を制圧する。董卓は、袁紹に招かれた地方長官の一人。西涼(西の辺境)の出身で、異民族討伐で活躍した人物。


 董卓は帝(少帝)の廃立を強行し、新しい帝(献帝)を立てる。その後も、暴虐を繰り返す。(廃立を行ったのは、主に、少帝の母・何太后の力を警戒したため。)もし董卓が来なければ、袁氏が中心となって、朝廷を立て直していたかも知れない。
 董卓に対抗できる者は、都にはいない。袁紹は河北(冀州)に去り、袁術もやがて南方(荊州)に出奔した。




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