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揚州の出来事3 孫権登場


新時代開始
 孫権が家督を継いだとき、体制はまだ安定しない。周瑜、張昭が中心となり、孫権をよく補佐。

 少しして、孫権は、正式に会稽太守に任じられる。(朝廷は曹操の支配下。曹操は当面、懐柔する方針。)その後、孫権は顧雍を丞(次官)に任じ、会稽に向かわせる。自身は呉郡に留まった。
 顧雍は高い教養・見識を有し、官僚経験も積んでいる。着任後、まず軍備を整え、不服従民の討伐を行う。一通り平定を終えると、以後は穏当に統治し、在任は数年に及んだ。


 また、当時の江東には、外来者が多数住む。(主に北からの避難者。)張昭は彼等に活躍の場を与え、不満を取り除く。現地人・外来者が次第に調和し、新しい秩序が生まれた。(北方は儒教文化、江東は侠の気風。)なお、張昭自身も、徐州(北の州)の出身。




廬江の反乱
 廬江郡では、李術が太守を務める。かつて孫策が任じたのだが、跡を継いだ孫権を軽視。やがて、反乱を起こし、揚州刺史の厳象を殺害した。(厳象は曹操の配下。曹操と孫権は当時連合。)

 孫権は、皖(かん)県に進軍する。(皖は当時、廬江郡の首都。)城を攻撃し、ほどなく陥落させ、李術を討ち取る。その後、皖を支配下には置かず、兵を取り込んで去った。(皖は長江の北。孫権は当面、江南(長江の南)の統治に集中する予定。)
 なお、揚州の長江は、南西から北東に流れる。江南は江東と同じ。




山越
 江東の山地には、山越という原住民あり。複数の異民族の総称。(また、漢人の中にも、あえて彼等と暮らす者たちがいた。)
 山越たちは、しばしば、官に従わない。孫権は当主になって以来、この山越の平定に力を入れる。

 孫権の元には、孫堅・孫策が作った強力な軍団あり。孫権は、名将(黄蓋、韓当、賀斉など)を各地に派遣し、山越に対抗させる。また、しきりに行政区分を変え、統治に苦心した。


 山越の平定は、孫策の代から続いている。不服従民を従わせ、未開地を開発するのは、江東の発展・統一のため不可欠。また、他国に対抗するために、山越の取り込みは有効な手段だった。
 しかし、山越からすれば、慣れ親しんだ環境、生活を変えられることを好まない。また、帰順したら、孫氏のために不本意な労務・軍務を与えられる。山越の反発は、呉政権の強引さも原因だった。




知識人層
 江東には、儒家の名家は少ない。基本的に、世俗的な豪族が力を持つ。(彼等は朝廷進出より、地元での農村支配に重点。)知識人層は、自ずと、外来者が中心となる。まず、張昭、張紘、魯粛は徐州の出身。また、周瑜も廬江郡(揚州北部)の出身で、やはり江東人ではない。

 勿論、江東生まれの知識人も、ある程度は存在した。まず「呉の四姓」(呉郡の四姓)、即ち、陸家、張家、朱家、顧家。いずれも呉郡(の呉県)に属する名族で、それぞれ陸遜、張温、朱桓、顧雍が代表格。(陸遜は、陸康の従兄弟の子。)この中で、朱桓は武将として活躍した。
 なお、朱治は丹陽郡の出身で、別の朱家に属する。


 他に、虞翻(ぐほん)、駱統などがいる。いずれも、会稽北部の出身。(この地域は、江東の中では、文化が発達。)

 虞翻は、時代屈指の学者で、高い見識を有する。(取り分け、易学に通じる。)長らく会稽郡の功曹を務め、王朗、孫策を補佐。孫策時代の途中、富春県の長に移る。(孫堅・孫策の出身県。)孫権が跡を継いでのち、騎都尉に任じられた。
 一方、駱統は、実直な官僚。烏程県(呉郡)の相に任じられ、善政を敷く。その後、会稽郡の功曹となり、しばしば孫権に忠言。軍人でもあり、後に濡須(じゅしゅ)の都督を務めた。(なお、この駱統は、陳国の相・駱俊の子でもある。)




親族の不祥事
 孫家は当初、親族を体制の要とした。例えば、廬陵郡では、孫輔(孫権の従兄)が太守を務めている。しかし、若年の孫権を信頼できず、秘かに曹操と連絡を取った。やがて発覚し、孫権に幽閉され、数年後死去。

 一方、丹陽郡では、孫権の弟孫翊(そんよく)が太守を務める。孫翊は抜群の武才があったが、任地で専横、横暴を振るい、朱治(呉郡太守)の諌めも聞かない。(基本的に、孫権に尽力する気が薄い。)孫翊は次第に人望を失い、部下達に殺害された。

 孫権はこれらの事件を経て、親族に不信感を持ったと思われる。この頃から、親族以外の家臣を重用。しばしば酒宴を催し、絆を深めていく。それは、呉の興隆の一因となった。




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4、魏呉の攻防 5、最盛から衰退へ



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