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公孫瓚とは、姓が同じだけで、特に族縁関係はない。(当時、公孫という姓は多かったらしい。)
公孫度は年少期、父と共に玄菟郡(北東の小さな郡)に移住。(遼東でトラブルがあったため、とされる。)この地で学問をし、後に中央官僚となる。やがて冀州刺史に任じられたが、讒言(ざんげん)により失脚。
後に、徐栄(董卓の将)の推薦を受け、遼東太守に任じられる。(徐栄は玄菟郡出身。)
遼東の豪族たちは、独自の権力体制を作っており、公孫度の言うことを聞かない。公孫度は、彼等を次々殺戮し、支配権を確立する。(公孫度は遼東の生まれ。遼東豪族の権勢、排他性をよく知っていた。)
公孫度はその後、朝鮮半島に侵攻。異民族(高句麗、烏丸ら)相手に戦勝を重ね、勢力を広げる。かなりの軍才を有していた。
また、遼東の南は、渤海を挟んで、青州の北部に通じる。公孫度は、青州北部にも手を伸ばし、諸県を制圧。遼東との間に、物流を確立した。
196年、公孫度は、曹操から侯に封じられる。しかし、公孫度は満足せず、遼東王を自称。
204年、公孫度は死去し、子の公孫康が跡を継ぐ。公孫康は同年、楽浪郡の南部を分離し、新たに帯方郡を作る。(楽浪郡は、幽州の最東部。)また、東方に広く統治体制を敷き、倭まで及んだと記される。(詳細は不明。)
やがて動乱が発生し、管寧は避難を考える。公孫度の治世の評判を聞き、邴原、王烈ら共々、遼東に移住する。(海路と思われる。)王烈も徳の人。
公孫度は彼等を歓待し、屋敷で会見。管寧は学問の話のみし、政治的発言は避ける。その後、管寧、邴原は山に入り、清貧の生活を送る。王烈もあえて仕官を避け、商人として生活した。
管寧らの元には、徐々に避難民が集まり、やがて町が作られる。
管寧はそこで、人々に儒学の講義をする。同時に、絶えず実践を示し、特に謙譲を重んじる。また、面会相手は学者に限定し、政界との関わりを避ける。公孫度は、この管寧を尊重したという。(一方、邴原は政治サイドの人とも会い、公孫度に警戒される。管寧は邴原を案じ、帰郷させた。)
管寧の周りの人々は、次第に感化される。相互扶助を基本とし、むやみな争いは避け、各々が内面的生活を送る。かくて、一つの理想郷が作られた。
他に、田疇(でんちゅう)という異才あり。幽州の右北平郡出身。劉虞の従事(補佐官)だったが、劉虞死後、故郷(右北平郡)の山に隠遁する。ここに、豪族や農民を集め、自律的集団を作る。防衛態勢を整えると同時に、道義に沿った規律を定め、皆に信頼関係を築かせた。(なお、田疇は、武芸にも長けていたという。)
かつて、後漢の豪族は、(名家を除き)自制を失って横暴になった。(例えば、宦官と結託し、農民から搾取。)その結果、世の中は次第に混乱。一方、名家の豪族は、理想の政治体制にこだわり、しばしば先走った。その結果、反発を買い、かえって横暴な者が増加。
田疇の率いる山村では、皆が農事に根差して生活し、根本の道理を見据えて生きる。次第に大集落(数千家)となったが、豪族達は己の分を守る。自ずと、しっかりした共同体が作られ、長年秩序が保たれた。
袁尚は曹操に敗れ、幽州の袁煕(袁紹の次子)の元に逃亡。その後、彼等は烏丸族の元に行く。
しばらくのち、曹操は烏丸討伐を開始する。このとき、田疇は曹操から招聘され、道案内をする。(田疇はかつて、故郷を烏丸に荒らされたことがある。)官位も貰ったが、政治の世界からは、常に距離を置いた。
烏丸敗北後、袁尚、袁煕は遼東に逃亡。乗っ取りを企て、公孫康の殺害を試みる。しかし、公孫康は袁尚らを恐れており、先手を打って彼等を殺害。その後、曹操に帰順した。田疇は袁尚を哀悼したが、曹操はあえて咎めず。
曹操は、田疇を封爵しようとしたが、田疇はこれを辞退。曹操は夏侯惇を遣わし、改めて封爵しようとする。(夏侯惇は、かねて田疇と親交あり。)しかし、田疇はやはり断った。
また、曹操は管寧を招聘することを欲し、遼東の公孫康に使者を送る。しかし、公孫康はあえて管寧に知らせず。(名士管寧の存在は、遼東の箔付けになる。)
管寧は後に、華歆の推薦により、曹丕から招かれる。これにより、故郷に帰ったが、仕官はあくまで避ける。
曹叡の時代、管寧は華歆の推薦により、光禄勲に任じられる。(光禄勲は、宮中の諸官をまとめる官で、高位の名誉職。)しかし、管寧は辞退した。
管寧、田疇は、常々、為政者から尊重された。それには、勿論理由がある。
当時は混乱の時代。知識人の多くは、互いにネットワークを作り、諸々の権力機構と結合。上から世界を変えようとした。しかし管寧や田疇は、世俗からあえて背を向け、精神生活に没頭。同時に、民の間に身を投じ、内側から世界を変える例を示した。
当時の国家体制は、本来、地域ごとの農村共同体を基底とする。管寧らは、いい手本になり得る。
この管寧・田疇の如く、民と共に再出発を図った者は、実は各地域に存在した。(この二人に比べ、総じて著名にはならなかったが。)彼等は魏王朝の時代、しばしば「九品官人法」(官僚登用制度)によって取り立てられた。
公孫淵は海路より、呉の孫権と結ぶ。しかし、ほどなく気が変わり、呉の使者を殺害する。その後、魏に恭順する態度を見せたが、次第に傲慢な態度を見せた。
曹叡(魏の帝)は、毌丘険(かんきゅうけん)を幽州刺史に任じる。
237年、毌丘険は公孫淵を討伐する。しかし、公孫淵はかなりの勢力。毌丘険は軍才に長けていたが、勝てずに撤退する。同年、公孫淵は燕王を名乗り、大々的に反乱した。
その後、司馬懿が大軍をまとめ、公孫淵を討伐する。公孫淵は、孫権に援軍を求めたが、当然断られる。238年、司馬懿は公孫淵を破り、これを殺害した。
238年、倭の卑弥呼の使節団が、帯方郡に来訪する。目的は、魏の帝への謁見。
帯方郡では、この使節団に役人を付け、洛陽(魏の首都)に行かせる。帝(曹叡)は、彼等に「親魏倭王」の印綬を与えた。
なお、この出来事は、239年説もある。その場合、帝は曹芳。
やがて、朝鮮半島において、高句麗の動きが不穏になる。244年、毌丘倹が高句麗の討伐に向かう。玄菟郡を経由し、高句麗の軍と対戦。大いにこれを破り、以後、高句麗は魏に逆らわず。
244年、卑弥呼の使者が、再び魏に来訪。このときの帝は曹芳。
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1、二人の指導者 2、遼東郡
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幽州の出来事2 遼東郡
公孫度の活躍
幽州の東部に、遼東という広い郡あり。この郡に、公孫度(こうそんたく)という人物がいた。公孫瓚とは、姓が同じだけで、特に族縁関係はない。(当時、公孫という姓は多かったらしい。)
公孫度は年少期、父と共に玄菟郡(北東の小さな郡)に移住。(遼東でトラブルがあったため、とされる。)この地で学問をし、後に中央官僚となる。やがて冀州刺史に任じられたが、讒言(ざんげん)により失脚。
後に、徐栄(董卓の将)の推薦を受け、遼東太守に任じられる。(徐栄は玄菟郡出身。)
遼東の豪族たちは、独自の権力体制を作っており、公孫度の言うことを聞かない。公孫度は、彼等を次々殺戮し、支配権を確立する。(公孫度は遼東の生まれ。遼東豪族の権勢、排他性をよく知っていた。)
公孫度はその後、朝鮮半島に侵攻。異民族(高句麗、烏丸ら)相手に戦勝を重ね、勢力を広げる。かなりの軍才を有していた。
また、遼東の南は、渤海を挟んで、青州の北部に通じる。公孫度は、青州北部にも手を伸ばし、諸県を制圧。遼東との間に、物流を確立した。
196年、公孫度は、曹操から侯に封じられる。しかし、公孫度は満足せず、遼東王を自称。
204年、公孫度は死去し、子の公孫康が跡を継ぐ。公孫康は同年、楽浪郡の南部を分離し、新たに帯方郡を作る。(楽浪郡は、幽州の最東部。)また、東方に広く統治体制を敷き、倭まで及んだと記される。(詳細は不明。)
管寧と田疇
当時、管寧という名士あり。青州の北海国出身。学友に華歆(かきん)、邴原(へいげん)。三者とも、徳行をもって知られた。
やがて動乱が発生し、管寧は避難を考える。公孫度の治世の評判を聞き、邴原、王烈ら共々、遼東に移住する。(海路と思われる。)王烈も徳の人。
公孫度は彼等を歓待し、屋敷で会見。管寧は学問の話のみし、政治的発言は避ける。その後、管寧、邴原は山に入り、清貧の生活を送る。王烈もあえて仕官を避け、商人として生活した。
管寧らの元には、徐々に避難民が集まり、やがて町が作られる。
管寧はそこで、人々に儒学の講義をする。同時に、絶えず実践を示し、特に謙譲を重んじる。また、面会相手は学者に限定し、政界との関わりを避ける。公孫度は、この管寧を尊重したという。(一方、邴原は政治サイドの人とも会い、公孫度に警戒される。管寧は邴原を案じ、帰郷させた。)
管寧の周りの人々は、次第に感化される。相互扶助を基本とし、むやみな争いは避け、各々が内面的生活を送る。かくて、一つの理想郷が作られた。
他に、田疇(でんちゅう)という異才あり。幽州の右北平郡出身。劉虞の従事(補佐官)だったが、劉虞死後、故郷(右北平郡)の山に隠遁する。ここに、豪族や農民を集め、自律的集団を作る。防衛態勢を整えると同時に、道義に沿った規律を定め、皆に信頼関係を築かせた。(なお、田疇は、武芸にも長けていたという。)
かつて、後漢の豪族は、(名家を除き)自制を失って横暴になった。(例えば、宦官と結託し、農民から搾取。)その結果、世の中は次第に混乱。一方、名家の豪族は、理想の政治体制にこだわり、しばしば先走った。その結果、反発を買い、かえって横暴な者が増加。
田疇の率いる山村では、皆が農事に根差して生活し、根本の道理を見据えて生きる。次第に大集落(数千家)となったが、豪族達は己の分を守る。自ずと、しっかりした共同体が作られ、長年秩序が保たれた。
管寧と田疇2
田疇は度々、袁紹から招聘を受ける。しかし、あくまで応じず。また、袁紹の死後は、跡を継いだ袁尚(三子)から招聘される。しかし、やはり応じない。袁尚は曹操に敗れ、幽州の袁煕(袁紹の次子)の元に逃亡。その後、彼等は烏丸族の元に行く。
しばらくのち、曹操は烏丸討伐を開始する。このとき、田疇は曹操から招聘され、道案内をする。(田疇はかつて、故郷を烏丸に荒らされたことがある。)官位も貰ったが、政治の世界からは、常に距離を置いた。
烏丸敗北後、袁尚、袁煕は遼東に逃亡。乗っ取りを企て、公孫康の殺害を試みる。しかし、公孫康は袁尚らを恐れており、先手を打って彼等を殺害。その後、曹操に帰順した。田疇は袁尚を哀悼したが、曹操はあえて咎めず。
曹操は、田疇を封爵しようとしたが、田疇はこれを辞退。曹操は夏侯惇を遣わし、改めて封爵しようとする。(夏侯惇は、かねて田疇と親交あり。)しかし、田疇はやはり断った。
また、曹操は管寧を招聘することを欲し、遼東の公孫康に使者を送る。しかし、公孫康はあえて管寧に知らせず。(名士管寧の存在は、遼東の箔付けになる。)
管寧は後に、華歆の推薦により、曹丕から招かれる。これにより、故郷に帰ったが、仕官はあくまで避ける。
曹叡の時代、管寧は華歆の推薦により、光禄勲に任じられる。(光禄勲は、宮中の諸官をまとめる官で、高位の名誉職。)しかし、管寧は辞退した。
管寧、田疇は、常々、為政者から尊重された。それには、勿論理由がある。
当時は混乱の時代。知識人の多くは、互いにネットワークを作り、諸々の権力機構と結合。上から世界を変えようとした。しかし管寧や田疇は、世俗からあえて背を向け、精神生活に没頭。同時に、民の間に身を投じ、内側から世界を変える例を示した。
当時の国家体制は、本来、地域ごとの農村共同体を基底とする。管寧らは、いい手本になり得る。
この管寧・田疇の如く、民と共に再出発を図った者は、実は各地域に存在した。(この二人に比べ、総じて著名にはならなかったが。)彼等は魏王朝の時代、しばしば「九品官人法」(官僚登用制度)によって取り立てられた。
魏王朝と幽州
曹叡の時代、遼東では、公孫淵が太守を務める。(公孫康の子。)野心家で、利己主義者。公孫淵は海路より、呉の孫権と結ぶ。しかし、ほどなく気が変わり、呉の使者を殺害する。その後、魏に恭順する態度を見せたが、次第に傲慢な態度を見せた。
曹叡(魏の帝)は、毌丘険(かんきゅうけん)を幽州刺史に任じる。
237年、毌丘険は公孫淵を討伐する。しかし、公孫淵はかなりの勢力。毌丘険は軍才に長けていたが、勝てずに撤退する。同年、公孫淵は燕王を名乗り、大々的に反乱した。
その後、司馬懿が大軍をまとめ、公孫淵を討伐する。公孫淵は、孫権に援軍を求めたが、当然断られる。238年、司馬懿は公孫淵を破り、これを殺害した。
238年、倭の卑弥呼の使節団が、帯方郡に来訪する。目的は、魏の帝への謁見。
帯方郡では、この使節団に役人を付け、洛陽(魏の首都)に行かせる。帝(曹叡)は、彼等に「親魏倭王」の印綬を与えた。
なお、この出来事は、239年説もある。その場合、帝は曹芳。
やがて、朝鮮半島において、高句麗の動きが不穏になる。244年、毌丘倹が高句麗の討伐に向かう。玄菟郡を経由し、高句麗の軍と対戦。大いにこれを破り、以後、高句麗は魏に逆らわず。
244年、卑弥呼の使者が、再び魏に来訪。このときの帝は曹芳。
1、二人の指導者 2、遼東郡
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