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・張掖属国が廃止。(時期不詳。)
・194年、安定郡の南東部、司隷右扶風郡の北部が分離され、合わせて「新平郡」が作られる。
・194年、涼州西部が分離され、「雍州」が作られる。(李傕の時代。)具体的には、武威郡、張掖郡、張掖居延属国、酒泉郡、敦煌郡の五郡。
・張掖居延属国が「西海郡」と改称。(時期不詳。)
・213年、雍州、涼州、司隷が合わせて「雍州」となる。涼州、司隷は廃止。(曹操の時代。)
・213年、金城郡の西部が分離され、「西平郡」が作られる。
・220年、漢陽郡が「天水郡」と改称される。(曹丕の時代。魏王朝開始後。)
・220年、司隷、涼州が復活。新しい雍州は、後漢の涼州の東部、及び、後漢の司隷の西部となる。なお、北地郡(新しい雍州の一部)は、場所が移転。左馮翊郡の西部を北地郡とし、元の北地郡はほぼ放棄された。
・221年、天水郡の東部が分離され、「広魏郡」が作られる。(曹丕の時代。)
・雍州の西部が分離され、「秦州」が作られたが、まもなく廃止。(曹丕の時代。)
・右扶風郡は「扶風郡」、左馮翊郡は「馮翊郡」に改称。(時期不詳。)
・221年、京兆尹が「秦国」となる。(曹丕の時代。)244年、「京兆郡」となる。(曹芳の時代。)
・漢興郡が廃止され、右扶風郡に統合。(魏の時代。細かい時期は不明。)
・229年、諸葛亮が武都郡を制圧。益州に編入する。
・広魏郡が「略陽郡」と改称。(司馬炎の時代。細かい時期は不明。)
・269年、司馬炎が秦州を復活させる。所領地は雍州、涼州、梁州の一部。具体的には、まず、天水郡、南安郡、隴西郡、武都郡。(以上、元雍州。)また、金城郡(元涼州)と、陰平郡(元梁州)。因みに、梁州は263年(蜀滅亡時)、益州北部が分離されて作られた。
陰平郡・武都郡・漢中郡→益州 /魏興郡・南郷郡→荊州 /平陽郡・河東郡・弘農郡→司州 /西平郡・金城郡・武威郡→涼州
①南安郡 ②天水郡 ③広魏郡 ④新平郡 ⑤北地郡
<読み方>
隴西:ろうせい /扶風→ふふう /馮翊:ふうよく
参考資料:「中国歴史地図集3」他
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180年以後の変遷
・188年、漢陽郡の西部が分離され、「南安郡」が作られる。(何進の時代。)首都は豲道(かんどう)県。・張掖属国が廃止。(時期不詳。)
・194年、安定郡の南東部、司隷右扶風郡の北部が分離され、合わせて「新平郡」が作られる。
・194年、涼州西部が分離され、「雍州」が作られる。(李傕の時代。)具体的には、武威郡、張掖郡、張掖居延属国、酒泉郡、敦煌郡の五郡。
・張掖居延属国が「西海郡」と改称。(時期不詳。)
・213年、雍州、涼州、司隷が合わせて「雍州」となる。涼州、司隷は廃止。(曹操の時代。)
・213年、金城郡の西部が分離され、「西平郡」が作られる。
・220年、漢陽郡が「天水郡」と改称される。(曹丕の時代。魏王朝開始後。)
・220年、司隷、涼州が復活。新しい雍州は、後漢の涼州の東部、及び、後漢の司隷の西部となる。なお、北地郡(新しい雍州の一部)は、場所が移転。左馮翊郡の西部を北地郡とし、元の北地郡はほぼ放棄された。
・221年、天水郡の東部が分離され、「広魏郡」が作られる。(曹丕の時代。)
・雍州の西部が分離され、「秦州」が作られたが、まもなく廃止。(曹丕の時代。)
・右扶風郡は「扶風郡」、左馮翊郡は「馮翊郡」に改称。(時期不詳。)
・221年、京兆尹が「秦国」となる。(曹丕の時代。)244年、「京兆郡」となる。(曹芳の時代。)
・漢興郡が廃止され、右扶風郡に統合。(魏の時代。細かい時期は不明。)
・229年、諸葛亮が武都郡を制圧。益州に編入する。
・広魏郡が「略陽郡」と改称。(司馬炎の時代。細かい時期は不明。)
・269年、司馬炎が秦州を復活させる。所領地は雍州、涼州、梁州の一部。具体的には、まず、天水郡、南安郡、隴西郡、武都郡。(以上、元雍州。)また、金城郡(元涼州)と、陰平郡(元梁州)。因みに、梁州は263年(蜀滅亡時)、益州北部が分離されて作られた。
三国時代の雍州(260年頃)
①南安郡 ②天水郡 ③広魏郡 ④新平郡 ⑤北地郡
<読み方>
隴西:ろうせい /扶風→ふふう /馮翊:ふうよく