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シバエン アンセイ
司馬炎 安世
  
~竜頭蛇尾の初代皇帝~

 晋の初代皇帝。儒教を推奨し、善政に努める。機を見て呉征伐を決断し、三国の統一を果たす。その後も、農政を改革するなど、精力的に為政。しかし、やがて、遊蕩に耽るようになる。



晋王朝設立
・司馬昭の長子。司馬懿の孫。寛大で恵み深く、仁と厚情あり。沈思黙考し、度量も広い。郷里で高い評判を得る。
・奉車都尉、中護軍などを歴任する。後に、撫軍大将軍となり、開府する。


・司馬昭(晋王)は、兄司馬師を尊重し、その養子の攸を(晋国の)太子にしようとする。(なお、司馬攸は、元々は司馬昭の三子。司馬師に男児ができなかったため、養子として差し出した。)しかし、賈充(かじゅう)ら重臣が司馬炎を推し、司馬炎が太子となる。
・やがて、司馬昭が死去。司馬炎は跡を継ぎ、晋王、及び魏の相国(しょうこく)となる。
・魏の帝(曹奐)から禅譲(帝位を譲ること)を受け、晋王朝を開く。(賈充、羊祜(ようこ)らがこれに尽力。)




意欲的に為政
・儒教による教化を重んじ、福祉も積極的に行う。また、学問の興隆を推進する。更に、埋もれた人材の発掘に努める。一方、部下の諌言もよく聞く。

・法を寛容、簡略にする方針を掲げる。賈充が中心となって立法し、杜預もこれに関わる。(なお、賈充は司馬昭の時代から、立法に従事していた。)この新法は、広く民の間に浸透したという。
・この法律は泰始(年号名)に完成したため、「泰始律令」と呼ばれる。(律は刑法、令は行政法。)

・一族の者27人に、王の爵位を与え、各地方に封じる。これにより、一族の力を強化。(しかし、後に「八王の乱」が起こる。)


羊祜(ようこ)を荊州の都督に任じる。羊祜は襄陽に着任すると、徳治を基本とし、大いに治績を挙げる。
・羊祜は、杜預を後継者に指名し、やがて死去する。羊祜は生前、質素な葬礼を望んでいたが、司馬炎は国を挙げて葬儀を行う。その後、杜預を新たに都督とし、荊州に駐在させる。




三国統一・農政改革
・杜預共々、呉征伐を計画。時機を見計らい、決断する。賈充を司令官に任じ、杜預、王濬(おうしゅん)らを主力とし、呉征伐を開始する。晋軍は快進撃を続け、呉は降伏し、三国統一が成る。

・杜預の功績を称え、県侯の爵位を与え、多大な食邑を領させる。杜預は辞退したが、司馬炎は譲らず。(司馬炎は、家臣によく報いる人物。)
・功臣の賈充が死去する。ある者が、賈充の諡号(しごう)として、「荒公」を提案する。(色々悪評があった。)司馬炎はこれに反対し、「武公」に決める。


占田制、課田制を実施する。前者は、官民に一定の所有地を与えることで、大土地の所有を制限。後者は、公田(主に元屯田地)を民に割り当てる制度。占田制は、豪族の反発に遭い、あまり上手く行かず。(晋の地方豪族は、名族も含め、しばしば奢侈を好んだ。)
・同時に、税制の改革を行う。即ち、戸調式の導入。従来の人頭税を、戸単位に変更。




その後
・次第に、遊蕩に耽るようになる。(恐らく、今までの反動。また、地方豪族の実態を見て、投げやりになったのかも知れない。)後宮の宮女も増やす。
・後漢の霊帝などと同様、売官(賄賂で官僚を登用)を行う。

・子の司馬衷(しばちゅう)を太子とするが、資質に問題あり。臣下の多くは、聡明な司馬攸(司馬炎の弟)を太子にすべきと考える。司馬炎はそれでも、司馬衷を太子にしたいと考え、反対者を次々左遷する。また、司馬攸を青州の都督に任じ、都から遠ざけようとする。司馬攸は憤慨して発病し、赴任途中死去する。


・司馬炎の死後、国は大いに乱れ、短期間で滅亡する。
・司馬炎の伝記は、「晋書」に立伝。即ち、「帝紀第3 世祖武帝」。




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