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トヨ ゲンガイ
杜預 元凱
  
~時代を代表する異才~

 魏晋の政治家、学者、軍人。「春秋左氏伝」などを研究。一方で、法律の制定に携わり、また、財政を改革して国庫を潤す。荊州に赴任してのち、呉を征伐して平定し、三国統一が成る。



初期
・司隷の京兆出身。祖父は河東太守の杜畿。父は幽州刺史の杜恕(とじょ)。
・杜恕は李豊(反司馬氏)と仲が良く、司馬懿に疎まれる。杜恕は獄死することとなり、杜預は以後不遇を強いられる。
・あるとき、司馬昭の妹を娶る(司馬昭の義弟となる)。その後、尚書郎に任じられる。(尚書朗とは、尚書台(秘書機関)の補佐官。郎は若手のための官。)
・参相府軍事に任じられる。(相国(首相)の軍事参謀。相国は司馬昭。)


・鍾会らが蜀の攻略に赴く。杜預は、鎮西長史(鎮西将軍府の長史)となり、鍾会に随行する。(鎮西将軍は鍾会。長史とは補佐官の長。)鍾会は勝利後、魏に反逆したが、結局敗れる。杜預はこの計画に参加せず、それを証明したため、処罰を免れる。

・衛瓘(えいかん)が司馬昭の指令を受け、鄧艾を討伐する。その際、田続という人物を焚きつけ、鄧艾を殺害させる。(田続は鄧艾の元部下で、鄧艾に私怨があった。)杜預は、これを非難する。




法と人事
・司馬炎の時代、賈充に協力し、立法に従事する。やがて、「泰始律令」が完成。(泰始は年号。)
・このとき、上奏を行い、法の在り方を詳しく述べる。その概要は、「簡易な文、緻密な体系、明確な主旨。」(分かりやすさが重要だが、内容に抜かりがあってはならず、意義も確かでなければいけない、ということ。)


人事について上奏。まず、こう述べる。「古代の聖なる時代では、功績は本人が黙っていても、自然と周りに広まりました。しかし現代では、(無駄に情報が飛び交っており、)遠方の物事となると、もはや何が事実か分からなくなります。多くの人々は、己の考えより噂を信じ、噂より文書を信じます。現代は文書が氾濫しており、それに伴って偽造も増えています。」(以上、現実観察の鋭さが分かる発言。)

・続いて、こう述べる。「正確な人事を行うには、まず監査官を設置し、官吏たちを評価させるのがよいです。具体的には、毎年、評判がいい者に優を一つ、悪い者に劣を一つ加えていきます。六年経ったとき、それに応じて人事を行うのです。」しかし、司隷校尉(首都圏を統治する)の石鍳(せきかん)が反感を持ち、杜預を罷免する。(杜預は恐らく、正論で物事を割り切る傾向があった。結果、反発する者も出たのだろう。)




秦州赴任
・西方(西涼地方)で異民族が反乱し、隴右(ろうう)に進出する。(隴右とは隴西郡、金城郡の一帯。当時、秦州に所属。)杜預は、秦州刺史に任じられる。校尉、将軍の官も与えられ、反乱への対処に当たる。

・石鍳(せきかん)は、敵の勢いが盛んなのを知りつつ、杜預に出撃を強いる。杜預は情勢を詳しく述べ、「春まで待つべき」と言う。石鍳は上奏して誹謗し、杜預は都に護送される。杜預は武帝(司馬炎)と姻戚関係にあり、爵位を下げることで免責される。
・その後、形勢は杜預の言う通りとなる。朝臣たちは、杜預の見識を認める。




都で政務
・匈奴が反乱し、并州西部に至る。杜預は、度支(たくし)尚書に任じられ、(都で)財政、軍備を整える。まず、兵器を開発。また、食糧庫を新たに設置し、管理体制を整える。その上で、穀物の買取、塩の輸送を行い、物資を蓄える。また、税制の整備にも尽力。大いに治績を挙げたという。(杜預はかつては法を整備し、今度は軍政・財政で手腕を発揮。万能の官僚。)

・あるとき、「石鍳(せきかん)が不当に高位を得ている」と糾弾。(恨みを忘れないタイプ。)互いに言い争い、二人共罷免される。


・数年後、再び度支尚書となる。あるとき、孟津に橋を架けることを進言。しかし、多くの朝臣は反対する。「古代の聖なる時代、橋などやたら架けることはありませんでした。」杜預は反証を挙げ、あくまで建造を主張する。武帝(司馬炎)は同意し、やがて橋は完成。

・杜預の政策は、常に的確で無駄がなく、朝廷の人々は「杜武庫」と呼んで称賛する。(様々な対応策を備えている様を、武器倉庫に例えた。)水害にも抜かりなく対処。




荊州赴任
・当時羊祜(ようこ)が荊州にあって、対呉の準備を進める。やがて病身になり、後継者として杜預を推薦する。羊祜の死後、杜預は、鎮南将軍・都督荊州諸軍事となる。(いずれも羊祜の後任。)
・あるとき、張政(呉の名将)が来攻し、杜預はこれを迎撃する。大いにこれを破り、撤退させる。(用兵能力も卓越。)


・武帝(司馬炎)は、年明けに呉征伐を行う予定。しかし、杜預は上奏して言う。「今、呉は策も力も尽きています。この期を逃すべきではありません。征伐を後回しにしたら、そのとき、我が方に余裕があるとは限りません。」

・少しのち、再び上奏する。「征伐の反対者は、後難を考慮していません。もし今行わなければ、孫晧(呉帝)は(後方の)武昌に遷都し、その上で、国境地帯の諸城を修復するかも知れません。加えて、民を奥地に移してしまうかも知れません。そのようになれば、我が軍は城を取ることができず、土地から収奪することもできず、機会は失われてしまいます。」この上奏文が届いたとき、武帝は張華と囲碁の際中。張華が杜預に賛同し、武帝は征伐を決める。




呉征伐
・荊州にあって、呉の征伐を主導する。まず、江陵県(南郡)に進軍し、陥落させる。ここに本営を置くと、諸軍を江西(長江の北西の一帯)に遣わし、呉の城は次々陥落する。
・伍延(呉の将)が偽の投降をしたが、杜預はこれを見抜き、攻撃して敗走させる。

・配下の周旨を遣わし、楽郷城(荊州)を攻撃する。(楽郷城は長江の南岸。)事前に、「旗指物をあちこちに立て、山に盛んにかがり火を焚く」という作戦を授ける。周旨はこれに従い、呉軍の士気は挫かれる。城はほどなく陥落。
・やがて、長江の上流地域は、全て平定される。その後、呉の諸郡は次々帰順。
・南郡を中心とし、各地に長吏を置き、荊州を安んじる。

・杜預の首には瘤あり。江陵が呉に属していた頃、城邑の人々は犬の首に瓢箪(ひょうたん)を付け、あるいは木の瘤に目を止め、それらを「杜預頸」と呼んで笑う。杜預は、城を陥落させたあと、住人をことごとく殺害。(この話は「晋書」の本伝に記されている。)


進軍を再開し、建業へと向かう。(建業は呉の首都。)やがて、部下達が疫病を心配し、冬を待つべしと主張する。杜預は、「今敵軍を攻撃すれば、(切れ目が入った)竹を破るが如くだ」と言う。(これが、「破竹の勢い」の語源。)また、晋には王濬(おうしゅん)という名将もおり、別方面から進軍。ほどなく、孫皓(呉帝)は降伏する。




再び荊州
・呉制圧の功績により、当陽県の侯に封じられる。食邑は一万戸近く。杜預は、「私の家は代々官吏です、武功は功にはなりません」と辞退したが、武帝(司馬炎)はあくまで与える。

江夏、漢口の一帯をまとめる。(荊州中部。)大いに人心を得て、「杜父」と呼ばれる。(地方官としても一流。)
・あるとき、二つの石碑に自分の事跡を刻む。その一つを万山の側の川に沈め、もう一つを峴山(けんざん)の上に立てる。こう述べる。「将来地形が変化し、上下が逆転するかも知れぬ。」

司隷校尉に任じられる。(首都圏を統治。)




教養と人格
・常々、「春秋左氏伝」を好む。「春秋左氏伝」は経書(公式の儒学書)の一つで、歴史の研究書に類する。
・自ら「春秋経伝集解」(註釈書)、「釈例」(諸説を比較検討)、「盟会図」、「春秋長暦」を著述する。

・数々の武功を挙げたが、自身は馬に乗れず、弓も不得手。そのため、常に本陣に留まって将兵を指揮。
・人と交わりを結ぶ際、恭しい態度を保ち、礼儀を忘れない。人から教示を求められると、とことん教え込む。
・洛陽中の人士に対し、もてなしを怠らない。これには、恨みを避ける意味もあったという。(徳行によって処世。)


・陳寿と同時代の人物であるため、伝記は陳寿「三国志」にはない。「晋書」に立伝されている。




司馬炎 賈充 羊祜


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