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ソウジン シコウ
曹仁 子孝
  
~親族随一の勇将~

 魏の将。初め先陣として活躍し、後には大軍を率いる。赤壁戦後、南郡の江陵城を守り、周瑜と対し奮戦する。対蜀でも活躍し、樊(はん)城で関羽の猛攻を防ぎ切る。



戦歴を重ねる
・曹操の族弟で、同郷。日頃から、弓術、馬術、狩猟を好む。
・天下が乱れると、仲間千人を集め、徐州一帯を荒らす。(具体的な時期は、恐らく、反董卓軍が結成された頃。独自に力を蓄えながら、情勢を窺っていた。)

・曹操陣営に加わり、別部司馬に任じられる。(別部司馬は本軍から別れ、独立して軍を統率。)時期は不詳。(恐らく、曹操がある程度力を付けた頃、服属を決めた。)
・騎兵の指揮を得意とし、しばしば先鋒となる。まず、袁術が北上した際、迎撃戦に参加。多数の敵を倒す。また、陶謙、呂布、黄巾の討伐に参加。数々の戦功を挙げる。(「三国志演義」より、活躍は華々しい。)


・広陽太守に任じられる。しかし、曹操は曹仁の勇略(武勇と武略)を思い、手元に置きたいと考え直す。かくて、曹操は曹仁を赴任させず、議郎(宮廷に仕える官)に任じて都に置く。(なお、広陽は幽州の郡で、曹操の領地ではない。「広陽」は、恐らく誤記。)

・曹操が張繍の追撃を受けた際、曹仁は兵を鼓舞し、敵を撃退する。
・史渙共々、眭固(すいこ)を討伐し、これを破る。




対袁氏
・劉備が袁紹の指令を受け、汝南郡を荒らす。曹仁は、劉備の討伐を願い出る。「劉備は新しく袁紹の兵を組み入れ、まだ指揮に慣れていない筈です。」その言葉通り、劉備を撃破し、汝南から追い出す。

・官渡の戦いに参加する。韓猛(袁紹の別働隊)を討伐し、これを破る。
・史渙共々、敵の輸送隊を撃破し、軍糧を焼き払う。徐晃もまた、「史渙共々、韓猛の輸送隊を破った」という記述があるが、同じ時だと思われる。(曹仁は、韓猛と二度目の対戦。)

・袁紹死後、高幹(袁紹の甥)が反乱する。曹操は高幹討伐に赴き、曹仁も随行する。やがて敵城の一つに到着。曹仁は、「寛大さをもって手なずけるべきです」と進言。曹操はそれに従い、寛大な布告を出す。その結果、敵は降伏。




南郡駐屯・関中戦
・赤壁戦後、江陵城(南郡)を任される。(孫権との国境地帯。)
・周瑜(呉の知将)と対峙する。あるとき、配下の牛金を出撃させたが、敵軍に包囲される。曹仁は、数十騎で城を出る。包囲陣の中を暴れ回り、牛金を救出する。参謀の陳矯が、「天上界の人」と称賛。(以上は、「三国志演義」でも有名なシーン。)
・出撃して合戦し、周瑜は矢に当たる。曹仁は後にそれを知り、周瑜の軍営の前まで進軍する。しかし、隙がないと見て断念。(「三国志演義」では、攻撃をかけて敗れているが、正史では冷静。)
・劉備が孫権に協力。曹仁は次第に形勢不利となり、江陵城から撤退する。


・関中の馬超、韓遂が反乱した際、潼関(とうかん)を守る。(関中とは、長安西の一帯。)しばらくのち、曹操の本軍が到着し、馬超らと対峙する。曹操はやがて、彼等の仲を裂き、その後攻勢をかける。曹仁は戦功を挙げ、勝利に貢献する。
・河間郡(冀州)の豪族が反乱する。(原因は不明。)曹仁は、七軍の司令官となり、討伐に向かう。(高い統率力。)やがて平定に成功。




樊城駐屯・呉征伐
樊(はん)城に駐屯し、関羽に備える。(樊城は、漢水の北の城塞。所属は襄陽県。)一方、宛(えん)県で反乱が起き、曹仁はこれを鎮圧する。(宛は襄陽の北東。)
・樊城に戻り、関羽と対する。洪水で士気が下がると、決死の覚悟を示し、将兵を鼓舞する。やがて、徐晃(魏の将軍)が来援し、関羽は撤退。


・曹丕の時代、呉軍が襄陽城を制圧する。曹仁は、徐晃と共に討伐に向かう。やがて、奪還に成功する。その後、(曹操の指令により、)住民達を漢水北に移住させる。
曹丕の南征に従う。濡須(じゅしゅ)まで進軍。呉将朱桓と対峙し、陽動作戦を行い、敵の兵力を分散させる。しかし、川で奇襲を受け、撤退を余儀なくされる。(曹仁は歴戦の名将だったが、水戦は不慣れだった。)


・当初は奔放な性格だったが、後に法を重んじるようになり、規律をもって軍を統率する。
陳寿は曹氏一族の功臣をまとめて評する。「一族として重んじられ、主君を補佐して功労があった。」




夏侯惇 夏侯淵 曹洪 関羽


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