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ソウヒ シカン
魏の初代皇帝。曹操の跡を継ぎ、ほどなく王朝を設立。新しい人事制度「九品官人法」(陳羣(ちんぐん)が発案)を定め、儒家を優遇する。一方では、文学(主に詩)の文化を推奨。また、外戚・宦官を制する一方、曹植ら親族を冷遇する。
・年少時より、曹操の遠征に随行する。10歳のとき、張繍の乱に遭い、自ら馬を駆って脱出する。
・曹操が鄴(ぎょう)城(守将審配)を陥落させると、曹丕は直ちに城内に進入する。真っ先に袁氏の屋敷に乗り込み、袁熙の妻甄(しん)氏を見出す。(「世語」の記事。)
・五官中郎将、副丞相となる。
・司馬懿、陳羣(ちんぐん)、呉質、朱鑠(しゅれき)と親交する。彼等は曹丕の「四友」と呼ばれる。(この中で、司馬懿と陳羣は儒士。呉質は文才の持ち主。)
・曹植は、曹丕以上の文才を持ち、一時曹操から肩入れされる。しかし、曹植は奔放が過ぎる。結局、曹操は曹丕を太子に決める。(なお、曹操は魏国の王。魏国とは、漢帝国の藩国。)
・曹操死後、跡を継いで魏王となる。
・その年内、漢の帝(献帝)から禅譲を受け、魏王朝を開く。初代魏帝として即位。(なお、曹丕伝は記述量が多いが、禅譲を巡る(形式的な)やり取りが多くを占める。)
・権力争いを防ぐため、曹植ら親族を朝廷から出し、各地の藩国の王とする。また、互いの交流を制限し、彼等の結託・反乱を防ぐ。(後に、諸王の参内を許し、詔勅を出して曹植を慰労。)
・陳羣(ちんぐん)が考案した「九品官人法」を施行。(魏王朝設立前に施行。「九品中正法」とも呼ばれる。)この制度は、郡ごとに「中正官」という人事官を置き、彼等に人材の評価・推挙をさせる。また、評価基準は儒教的名声。
・文人達と深く交流し、「典論」を著述する。主な内容は文学論で、当時の文人達を文体、気風、理、緻密さなどの面から論じる。また、こう記している。「文章は経国(国の経営)の大業、不朽の盛事なり。」この「典論」は曹丕の自信作で、呉の孫権と張昭にも贈呈。
・あるとき布告を出し、こう述べる。「軍の指揮官は兵法について述べ、朝臣は制度を明らかにし、州牧や郡太守は政治について進言し、学者は経書を研究せよ。我はそれらを通覧する。」
・全国の貧民、病人に穀物を与える。天災が起これば、大々的に官倉を開放する。あるときは、役人を各地に派遣し、実態を報告させ、困窮者を救済。
・民爵の付与を行う。(漢王朝でも、一時行われていた。)即ち、国が爵を付与することによって、人々に国民の自覚を与える。中央集権の方針の明示。(庶民は農村共同体に所属、あるいは豪族の支配下。基本的に、王朝と距離があった。)
・他にも、従わない異民族は各地におり、家臣は時々討伐を勧める。しかし、曹丕は国内の教化を掲げ、あえて動かない。結果、異民族はしばしば帰順してくる。
・劉備が呉征伐に向かい、夷陵で陸遜と対峙する。曹丕は、劉備の敗戦を予測。「劉備は戦争に明るくない。七百里にも渡り、陣営を連ねるとは。高原、湿地、山地を包むように陣営を置けば、必ず打ち破られる。」まもなく、劉備は火攻めを受け、益州まで敗走する。(曹丕は年少期から、曹操の行軍に何度も随行した。その中で、兵法の素養を身に付けたと思われる。)
・夷陵戦のあと、呉の隙を狙い、軍を率いて南下する。曹休、曹真、曹仁を従え、彼等を三方面に分遣する。魏軍はしばしば勝利し、戦況は優位に進む。しかし、決定打は与えられず、大局に大きな変化はなし。(孫権の治める呉は盤石。曹操も長年手こずった。)
・再び呉に進軍。徐盛(呉将)が偽の城壁を築き、曹丕は諦めて撤退する。後に三度目の進軍。川が凍結し、船が進めず引き上げる。
・夏侯尚は曹家の娘を娶ったが、妾の方を寵愛する。曹丕は刺客を送り、妾を殺害させる。夏侯尚は嘆き悲しみ、埋葬したのち、墓を掘り起こす。曹丕は腹を立てる。後に夏侯尚が病身になると、曹丕は自ら慰問して涙を流す。(酷薄さ、人情が同居した性格。)
・夏侯楙(夏侯惇の子)は、夏侯尚と異なり、高い評判はなし。曹丕はこの夏侯楙とも親交し、高官を歴任させる。(どこか、人間的に気に入った部分があったのだろう。)
・魏将の于禁が、荊州の関羽を討伐する。しかし、洪水が起こり、于禁は降伏する。後に于禁は、魏に帰還。于禁は名将で功臣だったが、曹丕は于禁を貶め、憤死させる。
・甄氏は、なかなか曹丕に心を開かない。曹丕は初めは寵愛したが、後に讒言(ざんげん)を聞き、自殺させる。
・陳寿は曹丕を評して言う。「文才あり。博覧強記で多才。度量と徳さえあったら、古代の賢者にも比肩した。」
曹操 曹植 曹叡
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ソウヒ シカン
曹丕 子桓
~冷徹、感情豊かな二代目~
魏の初代皇帝。曹操の跡を継ぎ、ほどなく王朝を設立。新しい人事制度「九品官人法」(陳羣(ちんぐん)が発案)を定め、儒家を優遇する。一方では、文学(主に詩)の文化を推奨。また、外戚・宦官を制する一方、曹植ら親族を冷遇する。
若年期
・曹操の三子。(正室の長子。)董卓の乱の前、曹操の郷里で生まれる。諸々の経書を読み、騎射、剣術にも長ける。また、文才を備える。
・年少時より、曹操の遠征に随行する。10歳のとき、張繍の乱に遭い、自ら馬を駆って脱出する。
・曹操が鄴(ぎょう)城(守将審配)を陥落させると、曹丕は直ちに城内に進入する。真っ先に袁氏の屋敷に乗り込み、袁熙の妻甄(しん)氏を見出す。(「世語」の記事。)
・五官中郎将、副丞相となる。
・司馬懿、陳羣(ちんぐん)、呉質、朱鑠(しゅれき)と親交する。彼等は曹丕の「四友」と呼ばれる。(この中で、司馬懿と陳羣は儒士。呉質は文才の持ち主。)
即位まで
・曹植と跡目を争う。曹植は曹操の五子で、正室の三子に当たる。(正室の次子は曹彰。)
・曹植は、曹丕以上の文才を持ち、一時曹操から肩入れされる。しかし、曹植は奔放が過ぎる。結局、曹操は曹丕を太子に決める。(なお、曹操は魏国の王。魏国とは、漢帝国の藩国。)
・曹操死後、跡を継いで魏王となる。
・その年内、漢の帝(献帝)から禅譲を受け、魏王朝を開く。初代魏帝として即位。(なお、曹丕伝は記述量が多いが、禅譲を巡る(形式的な)やり取りが多くを占める。)
基本姿勢
・朝廷の制度を改め、外戚と宦官の地位を制限する。(外戚とは、太后・皇后の一族。)
・権力争いを防ぐため、曹植ら親族を朝廷から出し、各地の藩国の王とする。また、互いの交流を制限し、彼等の結託・反乱を防ぐ。(後に、諸王の参内を許し、詔勅を出して曹植を慰労。)
・陳羣(ちんぐん)が考案した「九品官人法」を施行。(魏王朝設立前に施行。「九品中正法」とも呼ばれる。)この制度は、郡ごとに「中正官」という人事官を置き、彼等に人材の評価・推挙をさせる。また、評価基準は儒教的名声。
・文人達と深く交流し、「典論」を著述する。主な内容は文学論で、当時の文人達を文体、気風、理、緻密さなどの面から論じる。また、こう記している。「文章は経国(国の経営)の大業、不朽の盛事なり。」この「典論」は曹丕の自信作で、呉の孫権と張昭にも贈呈。
・あるとき布告を出し、こう述べる。「軍の指揮官は兵法について述べ、朝臣は制度を明らかにし、州牧や郡太守は政治について進言し、学者は経書を研究せよ。我はそれらを通覧する。」
諸々の施策
・私的な復讐を禁じ、罪の密告も制限する。また、各地に役人を派遣し、法の乱れを矯正させる。一方では、布告を出し、刑罰の軽減を推奨している。(この布告の中で、自らを儒者と称している。)
・全国の貧民、病人に穀物を与える。天災が起これば、大々的に官倉を開放する。あるときは、役人を各地に派遣し、実態を報告させ、困窮者を救済。
・民爵の付与を行う。(漢王朝でも、一時行われていた。)即ち、国が爵を付与することによって、人々に国民の自覚を与える。中央集権の方針の明示。(庶民は農村共同体に所属、あるいは豪族の支配下。基本的に、王朝と距離があった。)
軍事
・西方で異民族が反乱する。彼等は、魏軍の行軍を阻むため、川を決壊させる工事を始める。曹丕は、その疲労に付け込めると考え、曹真に討伐させる。曹真は勝利。
・他にも、従わない異民族は各地におり、家臣は時々討伐を勧める。しかし、曹丕は国内の教化を掲げ、あえて動かない。結果、異民族はしばしば帰順してくる。
・劉備が呉征伐に向かい、夷陵で陸遜と対峙する。曹丕は、劉備の敗戦を予測。「劉備は戦争に明るくない。七百里にも渡り、陣営を連ねるとは。高原、湿地、山地を包むように陣営を置けば、必ず打ち破られる。」まもなく、劉備は火攻めを受け、益州まで敗走する。(曹丕は年少期から、曹操の行軍に何度も随行した。その中で、兵法の素養を身に付けたと思われる。)
・夷陵戦のあと、呉の隙を狙い、軍を率いて南下する。曹休、曹真、曹仁を従え、彼等を三方面に分遣する。魏軍はしばしば勝利し、戦況は優位に進む。しかし、決定打は与えられず、大局に大きな変化はなし。(孫権の治める呉は盤石。曹操も長年手こずった。)
・再び呉に進軍。徐盛(呉将)が偽の城壁を築き、曹丕は諦めて撤退する。後に三度目の進軍。川が凍結し、船が進めず引き上げる。
逸話
・夏侯尚(夏侯淵の甥)は、才略の評判あり。曹丕は、互いに年少だった頃から、身分を超えて交友。
・夏侯尚は曹家の娘を娶ったが、妾の方を寵愛する。曹丕は刺客を送り、妾を殺害させる。夏侯尚は嘆き悲しみ、埋葬したのち、墓を掘り起こす。曹丕は腹を立てる。後に夏侯尚が病身になると、曹丕は自ら慰問して涙を流す。(酷薄さ、人情が同居した性格。)
・夏侯楙(夏侯惇の子)は、夏侯尚と異なり、高い評判はなし。曹丕はこの夏侯楙とも親交し、高官を歴任させる。(どこか、人間的に気に入った部分があったのだろう。)
・魏将の于禁が、荊州の関羽を討伐する。しかし、洪水が起こり、于禁は降伏する。後に于禁は、魏に帰還。于禁は名将で功臣だったが、曹丕は于禁を貶め、憤死させる。
・甄氏は、なかなか曹丕に心を開かない。曹丕は初めは寵愛したが、後に讒言(ざんげん)を聞き、自殺させる。
・陳寿は曹丕を評して言う。「文才あり。博覧強記で多才。度量と徳さえあったら、古代の賢者にも比肩した。」