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ソウショク シケン
曹操の子、曹丕の弟。抜群の頭脳・文才を持ち、跡継ぎ候補にされる。結局、曹丕が跡を継ぎ、以後冷遇される。
・あるとき、曹操は曹植の文章を見て驚き、こう問う。「誰かに書いてもらったのか?」曹植はこう言う。「言葉が口を出れば論となり、筆を下せば文となります。どうして人に頼んだりしましょうか。」
・その頃、銅雀台(宮殿の名)が完成する。曹操は曹植に対し、賦を作れと言う。曹植はすぐに良作を仕上げ、曹操を感嘆させる。
・大まかな性格で、華美を好まず、己を飾らない。(道家的な振舞い。)
・曹操から(政治上の)難解な質問をされると、いつも直ちに答える。(詩才だけではない。)
・平原侯、続いて臨淄(りんし)侯に取り立てられる。(前者は冀州、後者は青州。)いずれも、いわゆる県侯。侯は爵位で、その地の税を得る。(現地に行く必要はない。)
・曹操が孫権討伐に向かう。曹植は、留守を任され、鄴(ぎょう)県をまとめる。特に落ち度は記されない。
・まず、王粲(おうさん)、陳琳(ちんりん)ら数人の文人に言及。それぞれに対し、賛美の言葉を添える。
・そのあと、辞賦の話に入る。「陳琳の辞賦が未熟なのを揶揄したら、陳琳は自分の論文の中で、私から称賛を受けたと書いています」と述べる。(曹植は基本的に、陳琳の文才を認めていたが、辞賦に関してはそうではなかった。)
・更に、「劉季緒(劉表の子・劉修)が盛んに人の作品を批判していますが、そういう人に限って自分は未熟です」と述べる。
・続いて、辞賦を贈ると書く。同時にこう述べる。「そもそも街、道端で語られる話にも、必ず見るべき点があり、農民の歌の中にも、風雅に通じるものがあり、一人の男の思想にも、簡単には捨ておけないものがあります。辞賦など所詮、些細な技法です。」
・最後に、今後の抱負を述べる。「私は列侯に取り立てられた以上、やはり国のために働き、人民に恩恵を行き渡らせ、功業をなしたいと思います。もしそれが無理なら、史官となって事実を記録し、風俗の是非を判断し、道徳の真髄を定め、独自の意見を述べたいと思います。」
・楊修も長文で返書し、贈られた辞賦を称賛する。また、「辞賦は、政治や功業を妨げません」と述べる。
・曹植は常に気ままで、酒も好きなだけ飲む。曹丕は物事の限度をわきまえ、感情を律して己を飾る(身分にふさわしい態度を取る)。曹丕の支持者は増え、曹操は曹丕を太子に決める。
・曹丕が魏王となり、年内に魏王朝を開く。曹植は、鄄(けん)城王に任じられ、都から去る。(鄄城とは県の名前。鄄城県。)朝廷への参内も禁止。他の親族たちも、曹植と同様の扱い。(曹丕は、一族の間で争いが起こるのを案じた。曹植を追い出したのは、私怨だけではない。)
・あるとき、一時的な来朝を許される。事前に上奏し、感謝の意を顕示。曹丕は詔勅を出し、これに応える。
・あるとき、曹丕は呉征伐に赴いたが、結局中止。都に戻る途中、雍丘(当時の曹植の領国)に寄り、曹植に会う。その食邑(税の取り立て対象)を五百戸追加。
・その概要。「西方で、一校尉として部隊を担当するか、東方で、一艘(いっそう)の舟を指揮することを望みます。」「私はかつて、武皇帝(曹操)の行軍に従い、東西南北どこにでも行きました。その中で、用兵の本質を学びました。」「私は先帝(曹丕)、威王(曹彰)の死が忘れられません。私だけが永遠に生きられることはなく、何もできないまま、身も名も共に終わるのは辛いです。」「自分を売り込むのは、よくない行為です。時世に乗じ、出世を求めるのは、道家も嫌悪するところです。あえてそれを犯し、忠誠を述べた次第です。」
・朝廷は、曹植への疑いを捨てきれず、これらの上奏は却下。しかし、この上奏文は、曹植の思いを知る上で貴重。
・「魏略」によると、上奏を却下されたあと、周りの者にこう語っている。「そもそも人間が生を尊重するのは、贅沢な暮らしをし、華美な服を着るためではない。生の意味は本来、天に代わり、物の理を実現させることにある。最高の行為は、徳行を打ち立てることであり、その次は、功績を打ち立てることである。孔子も孟子も、自己の抱負を実現できない苦悩があった。私も彼等と同じだ。」(以上、曹植の価値観がよく分かる発言。根本の精神は儒家。)
・「堯の行った教化は、親しい者から疎い者へ、近いところから遠い所へ、というものでした。」(これは、儒家の基本思想の一つ。まず一族を大事にし、その気持ちを世の人々にも延長。)続いて、「私は現在、一族の交流すら許されていません」と嘆く。
・曹叡はこれを読み、自由な交流を許す。
・人材の起用に関し、上奏して意見する。以下、その概要。
・「いい時代、悪い時代の分かれ目は、人材の用い方にあります。各人が仲間を引き立て、互いに推薦するという風潮が生じれば、本当の才子は得られません。」(実際、当時の朝廷には、そういう傾向があったとされる。)
・更に、任官への願いも少し書き、最後はこう締めくくる。「私自身はともかく、いい補佐は必ず身近(一族の中)にいます。そもそも、世の人々の注視を得るには、皇族の威光が必要です。しかし、豪族が権力を得れば、皇族は軽んじられます。現在のように、一族の者が遠ざけられ、異姓の者ばかりが重用されている状況は、私には合点が行きません。」
・曹叡は以上に対し、丁寧な文章で返書する。(しかし、一族を思いきって重用することはなし。曹叡の死後、司馬氏(河内郡の豪族)が実権を掌握。)
・続いて、こう述べる。「立派な古人の中には、あえて野に耕すことを喜び、畑仕事を楽しみ、あるいは粗末な住居に住み、貧民街で過ごした者達がいます。(朝廷が)私の才能を役立てて頂けないので、彼等古人に倣うことを考えています。もし陛下が、私を王の位から解き放って下されば、進みて功業を目指すことは難しくなりますが、退いて自分の生き方を守ることはできます。しかし、私のこの願望はお聞き届けにならない以上、若者たちを返してくださるものと思います。」(独特の勿体ぶった言い回しで、徴発に抗議。)
・曹叡はこれを読み、徴発した者達を全員返す。
・曹植は都にいる間、曹叡に特別の目通りを望む。政治の議論をしたいと思い、更に、試しに用いられることを欲する。しかし、願いは叶わず。
・日々楽しまず、発病して死去(41歳)。子の曹志が跡を継ぐ。事前に遺言し、質素な葬儀を命じる。
・その昔魚山に登り、東阿の街を見下ろして歎息。この場所で死にたいと思う。かくて、そこに墳墓を構築。
・曹叡は詔勅を出し、「陳の思王(曹植)の著書百余篇の副本を作成せよ」と命じる。
・陳寿は曹植を評して言う。「豊かな文才を有しており、それは後世に伝わるに十分であった。しかし、謙譲をもって将来の災いを防ぐことができず、(曹丕と)仲違いするに至った。但し、(曹植に)一方的に非があるという訳でもない。」
曹操 曹丕 曹叡
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ソウショク シケン
曹植 子建
~自由気ままな天才文人~
曹操の子、曹丕の弟。抜群の頭脳・文才を持ち、跡継ぎ候補にされる。結局、曹丕が跡を継ぎ、以後冷遇される。
育ち
・曹操の子。曹丕の弟。十歳余りで、「詩経」「論語」「楚辞」に通じる。また、大きな文才あり。
・あるとき、曹操は曹植の文章を見て驚き、こう問う。「誰かに書いてもらったのか?」曹植はこう言う。「言葉が口を出れば論となり、筆を下せば文となります。どうして人に頼んだりしましょうか。」
・その頃、銅雀台(宮殿の名)が完成する。曹操は曹植に対し、賦を作れと言う。曹植はすぐに良作を仕上げ、曹操を感嘆させる。
・大まかな性格で、華美を好まず、己を飾らない。(道家的な振舞い。)
・曹操から(政治上の)難解な質問をされると、いつも直ちに答える。(詩才だけではない。)
・平原侯、続いて臨淄(りんし)侯に取り立てられる。(前者は冀州、後者は青州。)いずれも、いわゆる県侯。侯は爵位で、その地の税を得る。(現地に行く必要はない。)
・曹操が孫権討伐に向かう。曹植は、留守を任され、鄴(ぎょう)県をまとめる。特に落ち度は記されない。
楊修との交友
・楊修としばしば、手紙のやり取りをする。以下、その一通の内容。(曹植から揚修に宛てたもの。)
・まず、王粲(おうさん)、陳琳(ちんりん)ら数人の文人に言及。それぞれに対し、賛美の言葉を添える。
・そのあと、辞賦の話に入る。「陳琳の辞賦が未熟なのを揶揄したら、陳琳は自分の論文の中で、私から称賛を受けたと書いています」と述べる。(曹植は基本的に、陳琳の文才を認めていたが、辞賦に関してはそうではなかった。)
・更に、「劉季緒(劉表の子・劉修)が盛んに人の作品を批判していますが、そういう人に限って自分は未熟です」と述べる。
・続いて、辞賦を贈ると書く。同時にこう述べる。「そもそも街、道端で語られる話にも、必ず見るべき点があり、農民の歌の中にも、風雅に通じるものがあり、一人の男の思想にも、簡単には捨ておけないものがあります。辞賦など所詮、些細な技法です。」
・最後に、今後の抱負を述べる。「私は列侯に取り立てられた以上、やはり国のために働き、人民に恩恵を行き渡らせ、功業をなしたいと思います。もしそれが無理なら、史官となって事実を記録し、風俗の是非を判断し、道徳の真髄を定め、独自の意見を述べたいと思います。」
・楊修も長文で返書し、贈られた辞賦を称賛する。また、「辞賦は、政治や功業を妨げません」と述べる。
跡目争い
・曹操は曹植を高く評価し、曹丕・曹植の間に跡目争いが発生。(曹植自身にも、相応の野心はあったのかも知れない。)
・曹植は常に気ままで、酒も好きなだけ飲む。曹丕は物事の限度をわきまえ、感情を律して己を飾る(身分にふさわしい態度を取る)。曹丕の支持者は増え、曹操は曹丕を太子に決める。
・曹丕が魏王となり、年内に魏王朝を開く。曹植は、鄄(けん)城王に任じられ、都から去る。(鄄城とは県の名前。鄄城県。)朝廷への参内も禁止。他の親族たちも、曹植と同様の扱い。(曹丕は、一族の間で争いが起こるのを案じた。曹植を追い出したのは、私怨だけではない。)
・あるとき、一時的な来朝を許される。事前に上奏し、感謝の意を顕示。曹丕は詔勅を出し、これに応える。
・あるとき、曹丕は呉征伐に赴いたが、結局中止。都に戻る途中、雍丘(当時の曹植の領国)に寄り、曹植に会う。その食邑(税の取り立て対象)を五百戸追加。
活躍の場を望む
・曹叡の時代、曹植は依然地方にあり、日々鬱屈する。あるとき、上奏して起用を願う。
・その概要。「西方で、一校尉として部隊を担当するか、東方で、一艘(いっそう)の舟を指揮することを望みます。」「私はかつて、武皇帝(曹操)の行軍に従い、東西南北どこにでも行きました。その中で、用兵の本質を学びました。」「私は先帝(曹丕)、威王(曹彰)の死が忘れられません。私だけが永遠に生きられることはなく、何もできないまま、身も名も共に終わるのは辛いです。」「自分を売り込むのは、よくない行為です。時世に乗じ、出世を求めるのは、道家も嫌悪するところです。あえてそれを犯し、忠誠を述べた次第です。」
・朝廷は、曹植への疑いを捨てきれず、これらの上奏は却下。しかし、この上奏文は、曹植の思いを知る上で貴重。
・「魏略」によると、上奏を却下されたあと、周りの者にこう語っている。「そもそも人間が生を尊重するのは、贅沢な暮らしをし、華美な服を着るためではない。生の意味は本来、天に代わり、物の理を実現させることにある。最高の行為は、徳行を打ち立てることであり、その次は、功績を打ち立てることである。孔子も孟子も、自己の抱負を実現できない苦悩があった。私も彼等と同じだ。」(以上、曹植の価値観がよく分かる発言。根本の精神は儒家。)
親族関連・人材起用
・親族間の疎遠さを憂い、上奏して述べる。以下、その概要。
・「堯の行った教化は、親しい者から疎い者へ、近いところから遠い所へ、というものでした。」(これは、儒家の基本思想の一つ。まず一族を大事にし、その気持ちを世の人々にも延長。)続いて、「私は現在、一族の交流すら許されていません」と嘆く。
・曹叡はこれを読み、自由な交流を許す。
・人材の起用に関し、上奏して意見する。以下、その概要。
・「いい時代、悪い時代の分かれ目は、人材の用い方にあります。各人が仲間を引き立て、互いに推薦するという風潮が生じれば、本当の才子は得られません。」(実際、当時の朝廷には、そういう傾向があったとされる。)
・更に、任官への願いも少し書き、最後はこう締めくくる。「私自身はともかく、いい補佐は必ず身近(一族の中)にいます。そもそも、世の人々の注視を得るには、皇族の威光が必要です。しかし、豪族が権力を得れば、皇族は軽んじられます。現在のように、一族の者が遠ざけられ、異姓の者ばかりが重用されている状況は、私には合点が行きません。」
・曹叡は以上に対し、丁寧な文章で返書する。(しかし、一族を思いきって重用することはなし。曹叡の死後、司馬氏(河内郡の豪族)が実権を掌握。)
人手不足を主張
・「魏略」によると、曹叡が盛んに若者を徴発し、曹植の国(藩国)にも供出を命令。曹植はこれに応じたが、ほどなく上奏して抗議。まず、慢性的な人手不足を述べ、「このままでは、王として国を治められません」と述懐。・続いて、こう述べる。「立派な古人の中には、あえて野に耕すことを喜び、畑仕事を楽しみ、あるいは粗末な住居に住み、貧民街で過ごした者達がいます。(朝廷が)私の才能を役立てて頂けないので、彼等古人に倣うことを考えています。もし陛下が、私を王の位から解き放って下されば、進みて功業を目指すことは難しくなりますが、退いて自分の生き方を守ることはできます。しかし、私のこの願望はお聞き届けにならない以上、若者たちを返してくださるものと思います。」(独特の勿体ぶった言い回しで、徴発に抗議。)
・曹叡はこれを読み、徴発した者達を全員返す。
失意の中で
・曹叡が詔勅し、曹植ら諸王を参内させる。また、参内の日の前に、曹植は陳王に昇格する。(陳国は由緒ある国。)
・曹植は都にいる間、曹叡に特別の目通りを望む。政治の議論をしたいと思い、更に、試しに用いられることを欲する。しかし、願いは叶わず。
・日々楽しまず、発病して死去(41歳)。子の曹志が跡を継ぐ。事前に遺言し、質素な葬儀を命じる。
・その昔魚山に登り、東阿の街を見下ろして歎息。この場所で死にたいと思う。かくて、そこに墳墓を構築。
・曹叡は詔勅を出し、「陳の思王(曹植)の著書百余篇の副本を作成せよ」と命じる。
・陳寿は曹植を評して言う。「豊かな文才を有しており、それは後世に伝わるに十分であった。しかし、謙譲をもって将来の災いを防ぐことができず、(曹丕と)仲違いするに至った。但し、(曹植に)一方的に非があるという訳でもない。」