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ショウサイ シツウ
蒋済 子通
  
~思慮、見識に長けた良臣~

 魏の政治家、軍人。曹操の信任を受け、腹心や地方官として活躍。曹丕の時代、船団の帰還の指揮を任され、巧みに水路を作り出す。曹叡の時代、上奏し、側近への警戒を説く。



詭計
・揚州の九江郡出身。(原文では、「楚国平阿」とある。九江郡に「平阿」という県あり。)やがて、郡の計吏となる。
別駕従事に任じられる。別駕従事とは、州の補佐官の筆頭。また、当時、揚州の首都は合肥県。(元々は寿春県だったが、曹操が移転させた。)


・赤壁戦後、孫権が合肥(がっぴ)城を包囲する。(このとき、蒋済は曹操の元にあり。恐らく、状況を伝えに行っていた。)曹操は軍を集め、合肥に向かわせる。(蒋済もこれに同行。)この軍は、疫病により足止めされる。そこで蒋済は、城に向け、偽りの内容の書簡を送る。
・その内容は、「四万の援軍が向かっている」というもの。(この情報が現地に広まれば、味方の戦意は上がり、敵は動揺する。)やがて、使者の一人が孫権に捕らえられる。孫権は偽情報を信じ、ほどなく撤退。




忠言
・あるとき、曹操への使者となる。曹操は、淮南の民の強制移住を考え、蒋済に相談する。(孫権に奪われるのを防ぐため。)蒋済はこれに反対。「我が方は強大なので、敵に奪われる可能性は少ないでしょう。また、民は住み慣れた地を好むので、無理に移すのはよくありません。」しかし、曹操は聞かずに強行し、多くの民が呉に逃亡する。
・後にまた、曹操への使者となる。曹操は、「あれは失敗だった」と笑う。蒋済は、(見識を認められ、)丹陽太守に任じられる。


・しばらくのち、温恢(おんかい)が揚州刺史となる。蒋済は、別駕従事に任じられる。(二度目の就任。)
・あるとき、蒋済が謀反を企んだと讒言(ざんげん)する者がおり、蒋済は逮捕される。曹操は直ちに釈放させる。「本当に蒋済が謀反を企んだのなら、(彼の人となりを信頼している)私は人を見る目がないことになる。」




関羽対策
丞相府の主簿となる。(丞相は曹操。)同時に、丞相府の西曹に配属される。(西曹は部局の一つで、府内の人事を統括する。)

・荊州では、関羽と孫権が共存。関羽は次第に勢威を増し、曹操は遷都を考える。蒋済は司馬懿共々、これを制止する。「劉備と孫権は、外面では親密、内面では疎遠です。孫権を手なずけ、関羽を討伐させましょう。」この結果、関羽は敗れる。




多様に活躍
・曹丕が曹操の跡を継ぎ、魏王(魏国の王)となる。蒋済は、相国府の長史に任じられる。(相国は首相で、当時華歆(かきん)が在任。長史は次官。)
・曹丕が魏王朝を開き、初代皇帝となる。蒋済は、東中郎将に任じられ、東方の安定に尽力する。
・あるとき、「万機論」という政治書を著述。(内容は不詳。)曹丕に献上し、称賛を受ける。
・朝廷に戻り、散騎常侍に任じられる。(帝の側仕え。)


・曹丕が夏侯尚に詔勅を下す。「我は貴公を非常に重んじておる。刑罰も恩賞も自由に行え。」夏侯尚は任地にあって、(当時視察中の)蒋済にそれを示す。蒋済は都に帰ると、曹丕が問う。「天下はよく教化されておるか?」蒋済は言う。「取り立てて言うことはありません。亡国の言葉のみ聞こえてきます。」曹丕が顔色を変え、その理由を聞く。蒋済は、詔勅を読んだことを述べ、曹丕を諌める。「刑罰を行い恩賞を与えるのは、天子のすべき重大事です。また、天子に戯れの言葉はなし、と言います。(一時の感情で、適当なことを言ってはいけません。)」曹丕は納得し、先程の詔勅を取り下げる。




対呉戦線
・曹仁が呉の討伐に向かう。蒋済は、別働隊(陽動部隊)を率いる。蒋済は羨渓を襲撃し、呉将朱桓(濡須(じゅしゅ)に駐屯)は援軍を出す。その後、曹仁は、手薄になった濡須に進軍する。
・蒋済は曹仁と合流。曹仁が中洲の攻撃を考えると、蒋済は反対する。「呉軍は西岸に駐屯し、船を上流に並べています。中洲に入り込むのは危険すぎます。」曹仁は従わず、敗北する。(曹仁は名将だったが、水戦は不慣れ。)

・曹仁死後、再び東中郎将となり、曹仁の軍を引き継ぐ。詔勅に言う。「君は文武の資質、慷慨(こうがい)の気があり、呉を併呑する意志を持っている。だから、統率の任を与えるのである。」
・しばらくのち、朝廷に戻り、尚書(帝の秘書官)に任じられる。


・曹丕が広陵郡(呉領)への進軍を考える。水運を利用する算段。蒋済は、水路の交通の不便を説き、反対する。更に、「三洲論」を書き上げ、詳細に解説。しかし、曹丕は聞き入れず、数千の船で出発する。

・船団は、途中で渋滞。ある者が、「この機に、この場所で屯田を始めるべし」と主張したが、蒋済は反対する。「この地は東と北に水路があり、水量が多いときは敵が来る。」曹丕は蒋済の言に従い、すぐに帰路に付く。
・その途中、精湖まで来ると、水かさが減っている。船は上手く進めない。曹丕は先に帰還することとし、蒋済は大船団を預けられる。蒋済は数本の水路を掘り、そこにそれぞれ船を集め、前後の船を繋がせる。一方、土の堤を作り、湖をせき止める。その後、堰(せき)を開き、船は一斉に淮水に入る。こうして、船団は全て帰還。曹丕は感嘆する。「私は船を半数、焼き捨てる覚悟だった。」




軍略・朝政
・曹叡の時代、曹休(魏の将)が皖(かん)県に進軍する。(皖県は呉領。)蒋済は上奏して言う。「朱然が上流から曹休を狙うでしょう。」曹休が皖に到着すると、再び上奏する。「呉が西方で動きを見せています。兵を結集させ、皖に向かうつもりでしょう。急いで曹休を救援すべきです。」曹叡はこれに従う。曹休は敗北したが、援軍が到着し、追撃を食い止める。
中護軍に任じられる。(首都の軍を統括。)


・当時、中書省(側近の機関)に権力が集まる。蒋済は曹叡に上奏し、忠告する。
・まず、こう述べる。「大臣、側近が力を持つことに対し、十分注意なさってください。大臣は得てして不忠ではありませんが、威光と権力が下(大臣)にある限り、自ずと上(皇帝)は侮られるでしょう。陛下はその点、自ら政務を御覧になり、権力が大臣に行くのを防いでいます。」

・続けて、こう述べる。「しかし、(帝と共に政務を見ている)側近に関してはどうでしょう。彼等は、大臣より賢明とは限りませんが、媚びへつらう点では大臣を上回ります。彼等は秘かに、実権の一部を切り取り、掌握してしまうかも知れません。」

・更に、こう述べる。「そうなりましたら、人々は直ちに、彼等に接近します。また、そうして接点を得た者たちに対し、新たに人々が群がります。賞罰や人事は大いに乱れ、真っ当に昇進の道を歩んでいる者は邪魔され、媚びへつらう者が出世します。彼等はごく小さなことに着目し、目に見えることを利用して、(甘言や讒言(ざんげん)を弄することで、)表に出て参ります。陛下に置きましては、今が沈思黙考のときです。」曹叡は、以上の助言に感謝する。
護軍将軍に任じられ、散騎常侍も加官される。(前者は、首都の軍の司令官。後者は、帝の側仕え。)




対外政策・国政
・曹叡が公孫淵(遼東太守)の討伐を考え、田豫(でんよ)を向かわせる。蒋済は、これに反対する。「敵対関係にない国、侵略や反乱を起こしていない臣下は、(いつか厄介な存在になる可能性があるとしても、)軽々しく討伐してはいけません。討伐して失敗したら、それこそ賊(自分の国に従わない者)への道に駆り立てることになります。『虎、狼が通行を邪魔しているときは、狐、狸を始末しない』と言います。大きな害悪(呉や蜀)を取り除けば、小さな害悪は自ずと消えます。」しかし、曹叡は従わない。田豫は結局勝てず。(田豫は知将だったが、公孫淵の軍備は万全だった。)後に、公孫淵は大々的に反乱。


・曹叡が盛んに宮殿を造営し、国力が衰退する。蒋済は、宮殿造営を諫める。「民を使役する場合、農閑期を待つのが普通です。国家の大事業を起こす君主は、まず民力を計算するものです。」更に、こう述べる。「歓楽全般をお控えになってください。さすれば、精神は健全を保てます。」曹叡は、「よく諫言してくれた」と詔勅する。




曹芳の時代
・曹爽の一派が、実権を掌握後、盛んに法律・制度の改変を行う。その頃日食が起こり、人々は騒ぎ出す。曹芳が詔勅を下し、何故日食(天変地異)が起こったのか尋ねる。蒋済は、(この機を捉え、)曹爽らの政治を批判。(当時、「天地の異変は、政治の良し悪しと連動する」という通説があった。)
・その内容。「法律、制度を作り上げるのは、本来、一世の大才がすべきことです。そうでない者は、軽々しく行ってはいけません。文武の官に己の分を守らせ、静穏な政治によって民を導けば、なごやかな陽気が戻ります。」

・司馬懿が曹爽を討伐し、蒋済も随行する。蒋済は司馬懿の意を受け、曹爽に書簡を送付。「降伏したら、免職にするのみ」と告げる。やがて、曹爽は降伏したが、司馬懿はこれを誅殺する。蒋済はこの年に死去。(一説に、曹爽を騙す結果になったことを悔い、発病したといわれる。)


・「魏略」によると、かなりの酒好きだったという。(意外な逸話。)
・曹叡の時代、「人を判断する場合、その瞳を見れば大体分かる」と主張し、論文を書く。(蒋済は以前、「万機論」「三州論」を著述しているが、今度は軽い話題。)そこで、鍾繇(しょうよう)が子の鍾会(当時5歳)を会わせてみる。蒋済はその瞳を観察し、大いに評価する。鍾会は後に、重鎮として活躍。

陳寿は程昱、郭嘉、董昭、劉曄、蒋済をまとめて評する。「策略、謀略に優れた奇士であった。清、徳では荀攸に劣るが、画策に関しては同等である。」




董昭 劉曄 陳羣 


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