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トウショウ コウジン
魏の参謀。当初は袁紹に仕え、二つの郡を鎮撫する。後に曹操の配下に入り、許への遷都を成功させる。また、曹操の魏国建国を推進。
・袁紹(冀州牧)が公孫瓚(こうそんさん)と敵対する。鉅鹿(きょろく)郡には、公孫瓚に通じる者が大勢存在。董昭は、袁紹により、鉅鹿郡に遣わされる。
・その前に、袁紹から方策を聞かれる。董昭は答える。「一人の力で、多数の考えを変えることはできません。まずは同調する振りをし、彼等の内情を探ります。」その内に、豪族孫伉(そんこう)ら数十人が首謀者と分かる。
・その後、布令書を偽作。袁紹からの命令だと称し、直ちに孫伉らを誅殺する。一族への連座はさせず、手下の者たちも全て慰撫する。
・魏郡太守が殺害される。董昭は、魏郡に遣わされ、太守の事務を行う。当時郡境は混乱し、万単位の賊(公孫瓚の郎党)がひしめく。彼等の間で、盛んに使者が行き来し、しばしば取引が行われる。董昭は彼等を手なずけ、信頼を得たあと、上手く内部分裂を起こさせる。隙ができると襲撃し、その度に勝利を収める。
・当時、董昭の弟は張邈(ちょうばく)の元。(張邈は陳留太守。)一方、袁紹は張邈と不仲。董昭は、袁紹に疑われ、張楊(河内太守)の元に去る。
・朝廷で、韓暹(かんせん)、楊奉、董承、張楊が権勢争いをする。楊奉の軍が最も強く、数は少ない。董昭はそれを知ると、曹操のために、楊奉の懐柔を画策。(曹操は当時、許県に駐在。)董昭は曹操の名を騙り、楊奉に書簡を送る。「現在天下は安定しません。帝が一人で国を支えるのは、荷が重いでしょう。胸、腹、手足となる者が必要で、その一つでも欠けては駄目です。貴公には、中心部になって頂きたく思います。私には兵糧があり、貴公には軍兵があります。死生労苦を共にする所存です。」
・楊奉はこの書簡を受け取ると、「曹操は兵も兵糧も持っており、朝廷は頼りにできるであろう」と述べる。その後、董昭は楊奉共々、上奏して曹操を推挙する。曹操は鎮東将軍、董昭は符節令に任じられる。(符節令は、朝廷の命令の手続きを司る。)
・曹操から今後の方策を聞かれ、こう答える。「帝を許に移しましょう。朝臣たちは、最近まで流浪続きだったので、また移動するのを嫌がるでしょうが。通常ならざることを行って初めて、通常ならざる功を挙げられるのです。」曹操はそれに対し、こう言う。「私もそのつもりだが、梁にいる楊奉が妨げるかもしれぬ。楊奉の兵は精強だと聞く。」
・董昭は、まずこう言う。「楊奉は兵が少なく、曹将軍を頼りにしています。また、(近頃、楊奉から公的な使者が来ましたが、)公文書に従うことは、それだけで忠誠を示すに足ると言います。そこで答礼の使者を出し、従う意思を示し、(加えて)贈り物をして誠意を見せるのがよいです。」
・更に、こう言う。「使者を通じ、こう告げましょう。『現在、洛陽は備蓄が十分でない。朝廷のために、許(曹操の本拠地)からの輸送を考えている。しかし、許と洛陽は、少し離れている。魯陽なら許に近いので、帝を魯陽に移したい。』楊奉は勇敢ですが、思慮が足りないので、疑惑を持たれることはありません。今後何度も(楊奉と)使者のやり取りをし、楊奉の関心がそちらに向いている内に、我々は計画を定めることができます。」曹操はこれらに従い、帝を許に移すことに成功する。
・張楊が部下の楊醜に裏切られ、殺害される。董昭は曹操の指令を受け、張楊の元部下達を説得し、帰順を決意させる。
・冀州牧に任じられる。(冀州は、実際は袁紹が支配。建前上の任命。)
・曹操は劉備(当時曹操の傘下)に指令し、袁術を討伐させる。董昭は劉備の裏切りを予測し、曹操を諌める。曹操は聞かず、劉備は反逆。車冑(徐州刺史)を殺害し、徐州に本拠を置く。
・曹操により、徐州牧に任じられる。(建前上の任命。)
・曹操は、袁紹征伐に取り掛かる。董昭は、魏郡太守に任じられる。(魏郡は冀州の中心地で、袁紹の領地。この時点では、建前上の任命。)顔良(袁紹の将)の討伐に従軍する。
・鄴には、袁紹が任じた魏郡太守・春卿がいる。董昭は書簡を送り、春卿を説得する。「貴公の父は我が方におり、故に、貴公の態度(袁紹に仕えていること)は孝から外れている。帝は我らが奉じており、故に、貴公の態度は忠から外れている。忠、孝いずれも無視するのは、智と言いがたい(碌な結果はもたらさない)。」この説得の結果は、特に記されない。(惑わせる効果はあったと思われる。)曹操はやがて勝利。
・諌議大夫に任じられる。(帝を諌める官。)
・曹操が烏丸族(袁氏と結託)を討伐する。董昭は運河を二つ開通させ、海路より輸送する。(あまり知られていない活躍。)
・軍祭酒に任じられる。(軍事顧問のトップ。郭嘉の後任と思われる。)
・その後、荀彧にも相談。古代の例に言及し、説得を試みる。しかし、荀彧は反対の意を示す。荀彧の死後、曹操は董昭と共に計画を進め、魏国を建国。魏公に就任する。(後に魏王に昇格。)
・曹仁(魏の将)が樊(はん)城で、蜀将関羽と対する。一方、孫権が曹操に書簡を送り、「秘密裡に結託し、両面攻撃しましょう」と提案する。董昭はこう進言する。「表向き同意し、孫権の動きを周知すべきです。関羽は孫権の動きを知れば、樊城に集中できなくなります。秘密を守っても、孫権の望み通りになるだけです。また、樊城の者達は、孫権が動いたことを知れば、意気が上がるでしょう。」曹操はこれに従い、事は上手く運ぶ。
・曹丕が魏王朝を開く。董昭は、大鴻蘆(対外担当)に任じられる。続いて、侍中(政治顧問)に就任。
・曹真、夏侯尚(いずれも魏の将)が、江陵城(呉領)を攻略する。(江陵城は長江の北岸。守将は朱然。)夏侯尚は長江の中洲に駐屯し、浮き橋で南北に行き来する。董昭は上奏し、曹丕に進言。
・まず、こう言う。「敵地深くに入り込む場合、帰路をよく考える必要があります。中州に留まること、浮き橋を渡ること、一本の通路で行き来することは、兵法が最も忌むべきところです。もし敵が浮き橋を攻撃し、防ぎ切れなかったら、中州の軍は呉に降る他ありません。」
・更に、こう言う。「長江はいつ水かさを増すか分からず、そうなったら手に負えません。」
・曹丕はこれらを聞くと、直ちに詔勅を下し、中州からの撤退を命じる。その十日後、長江は突然水かさを増す。
・続いて、こう述べる。「将来の重鎮と目される者達も、やはり倫理を軽視し、権勢や利益を追っています。徒党を組むことを好み、悪口をもって処罰とし、内輪での称賛をもって褒賞としています。そして、子飼いの者に何か名目を与え、宮中に入り込ませ、役人同士の付き合いや、どういう上奏をしたかを探らせています。この行為は、法が禁止していることです。」
・その後、曹叡は詔勅を下し、諸葛誕らを罷免する。(諸葛誕は若手筆頭で、曹叡から元凶と見なされた。諸葛誕は義士として知られたが、一方では、朝廷内での交友を好んでいた。)
・陳寿は程昱、郭嘉、董昭、劉曄、蒋済をまとめて評する。「策略、謀略に優れた奇士であった。清、徳では荀攸に劣るが、画策に関しては同等である。」
劉曄 蒋済 陳羣
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トウショウ コウジン
董昭 公仁
~応変な策略家~
魏の参謀。当初は袁紹に仕え、二つの郡を鎮撫する。後に曹操の配下に入り、許への遷都を成功させる。また、曹操の魏国建国を推進。
袁紹に尽力
・兗州(えんしゅう)の済陰郡出身。孝廉に推挙される。(孝廉とは、官僚の候補枠。)廮陶(えいとう)県の長となり、続いて、柏人県の令に転じる。(前者は鉅鹿(きょろく)郡、後者は趙国所属。いずれも冀州。)
・袁紹(冀州牧)が公孫瓚(こうそんさん)と敵対する。鉅鹿(きょろく)郡には、公孫瓚に通じる者が大勢存在。董昭は、袁紹により、鉅鹿郡に遣わされる。
・その前に、袁紹から方策を聞かれる。董昭は答える。「一人の力で、多数の考えを変えることはできません。まずは同調する振りをし、彼等の内情を探ります。」その内に、豪族孫伉(そんこう)ら数十人が首謀者と分かる。
・その後、布令書を偽作。袁紹からの命令だと称し、直ちに孫伉らを誅殺する。一族への連座はさせず、手下の者たちも全て慰撫する。
・魏郡太守が殺害される。董昭は、魏郡に遣わされ、太守の事務を行う。当時郡境は混乱し、万単位の賊(公孫瓚の郎党)がひしめく。彼等の間で、盛んに使者が行き来し、しばしば取引が行われる。董昭は彼等を手なずけ、信頼を得たあと、上手く内部分裂を起こさせる。隙ができると襲撃し、その度に勝利を収める。
・当時、董昭の弟は張邈(ちょうばく)の元。(張邈は陳留太守。)一方、袁紹は張邈と不仲。董昭は、袁紹に疑われ、張楊(河内太守)の元に去る。
楊奉を籠絡
・帝が安邑県(河東郡)に滞在。張楊は糧食を集め、帝の元に駆け付ける。董昭はこのとき、議郎に任じられる。(帝の補佐官。)
・朝廷で、韓暹(かんせん)、楊奉、董承、張楊が権勢争いをする。楊奉の軍が最も強く、数は少ない。董昭はそれを知ると、曹操のために、楊奉の懐柔を画策。(曹操は当時、許県に駐在。)董昭は曹操の名を騙り、楊奉に書簡を送る。「現在天下は安定しません。帝が一人で国を支えるのは、荷が重いでしょう。胸、腹、手足となる者が必要で、その一つでも欠けては駄目です。貴公には、中心部になって頂きたく思います。私には兵糧があり、貴公には軍兵があります。死生労苦を共にする所存です。」
・楊奉はこの書簡を受け取ると、「曹操は兵も兵糧も持っており、朝廷は頼りにできるであろう」と述べる。その後、董昭は楊奉共々、上奏して曹操を推挙する。曹操は鎮東将軍、董昭は符節令に任じられる。(符節令は、朝廷の命令の手続きを司る。)
楊奉を翻弄
・帝は洛陽に帰還し、曹操も洛陽に赴く。張楊は本拠地に帰還。董昭は、洛陽に留まり、曹操の配下に入る。一方、楊奉は梁(洛陽の南)に駐屯する。
・曹操から今後の方策を聞かれ、こう答える。「帝を許に移しましょう。朝臣たちは、最近まで流浪続きだったので、また移動するのを嫌がるでしょうが。通常ならざることを行って初めて、通常ならざる功を挙げられるのです。」曹操はそれに対し、こう言う。「私もそのつもりだが、梁にいる楊奉が妨げるかもしれぬ。楊奉の兵は精強だと聞く。」
・董昭は、まずこう言う。「楊奉は兵が少なく、曹将軍を頼りにしています。また、(近頃、楊奉から公的な使者が来ましたが、)公文書に従うことは、それだけで忠誠を示すに足ると言います。そこで答礼の使者を出し、従う意思を示し、(加えて)贈り物をして誠意を見せるのがよいです。」
・更に、こう言う。「使者を通じ、こう告げましょう。『現在、洛陽は備蓄が十分でない。朝廷のために、許(曹操の本拠地)からの輸送を考えている。しかし、許と洛陽は、少し離れている。魯陽なら許に近いので、帝を魯陽に移したい。』楊奉は勇敢ですが、思慮が足りないので、疑惑を持たれることはありません。今後何度も(楊奉と)使者のやり取りをし、楊奉の関心がそちらに向いている内に、我々は計画を定めることができます。」曹操はこれらに従い、帝を許に移すことに成功する。
厚遇を受ける
・河南尹に任じられる。洛陽周辺を統治。
・張楊が部下の楊醜に裏切られ、殺害される。董昭は曹操の指令を受け、張楊の元部下達を説得し、帰順を決意させる。
・冀州牧に任じられる。(冀州は、実際は袁紹が支配。建前上の任命。)
・曹操は劉備(当時曹操の傘下)に指令し、袁術を討伐させる。董昭は劉備の裏切りを予測し、曹操を諌める。曹操は聞かず、劉備は反逆。車冑(徐州刺史)を殺害し、徐州に本拠を置く。
・曹操により、徐州牧に任じられる。(建前上の任命。)
・曹操は、袁紹征伐に取り掛かる。董昭は、魏郡太守に任じられる。(魏郡は冀州の中心地で、袁紹の領地。この時点では、建前上の任命。)顔良(袁紹の将)の討伐に従軍する。
河北攻略
・曹操は官渡で袁紹を破る。袁紹はやがて死去し、三子の袁尚が跡を継ぐ。曹操は攻防ののち、袁氏の本拠地・鄴(ぎょう)に進軍する(守将は審配)。董昭はこれに随行。・鄴には、袁紹が任じた魏郡太守・春卿がいる。董昭は書簡を送り、春卿を説得する。「貴公の父は我が方におり、故に、貴公の態度(袁紹に仕えていること)は孝から外れている。帝は我らが奉じており、故に、貴公の態度は忠から外れている。忠、孝いずれも無視するのは、智と言いがたい(碌な結果はもたらさない)。」この説得の結果は、特に記されない。(惑わせる効果はあったと思われる。)曹操はやがて勝利。
・諌議大夫に任じられる。(帝を諌める官。)
・曹操が烏丸族(袁氏と結託)を討伐する。董昭は運河を二つ開通させ、海路より輸送する。(あまり知られていない活躍。)
・軍祭酒に任じられる。(軍事顧問のトップ。郭嘉の後任と思われる。)
藩国建議・関羽対策
・当時の曹操は、漢の朝廷の大臣。董昭は、藩国設立を進言する。「大臣の地位にいる限り、疑われるのを避けられません。基礎を固めない限り、万全の計画は練れません。基礎とは、土地と人間です。藩国を作り、爵位制度を整えるのがよいでしょう。」・その後、荀彧にも相談。古代の例に言及し、説得を試みる。しかし、荀彧は反対の意を示す。荀彧の死後、曹操は董昭と共に計画を進め、魏国を建国。魏公に就任する。(後に魏王に昇格。)
・曹仁(魏の将)が樊(はん)城で、蜀将関羽と対する。一方、孫権が曹操に書簡を送り、「秘密裡に結託し、両面攻撃しましょう」と提案する。董昭はこう進言する。「表向き同意し、孫権の動きを周知すべきです。関羽は孫権の動きを知れば、樊城に集中できなくなります。秘密を守っても、孫権の望み通りになるだけです。また、樊城の者達は、孫権が動いたことを知れば、意気が上がるでしょう。」曹操はこれに従い、事は上手く運ぶ。
重鎮として活躍
・曹丕が曹操の跡を継ぎ、魏王となる。董昭は、魏国の将作大匠(宗廟・宮殿を造営する)に任じられる。
・曹丕が魏王朝を開く。董昭は、大鴻蘆(対外担当)に任じられる。続いて、侍中(政治顧問)に就任。
・曹真、夏侯尚(いずれも魏の将)が、江陵城(呉領)を攻略する。(江陵城は長江の北岸。守将は朱然。)夏侯尚は長江の中洲に駐屯し、浮き橋で南北に行き来する。董昭は上奏し、曹丕に進言。
・まず、こう言う。「敵地深くに入り込む場合、帰路をよく考える必要があります。中州に留まること、浮き橋を渡ること、一本の通路で行き来することは、兵法が最も忌むべきところです。もし敵が浮き橋を攻撃し、防ぎ切れなかったら、中州の軍は呉に降る他ありません。」
・更に、こう言う。「長江はいつ水かさを増すか分からず、そうなったら手に負えません。」
・曹丕はこれらを聞くと、直ちに詔勅を下し、中州からの撤退を命じる。その十日後、長江は突然水かさを増す。
風潮を案じる
・曹叡の時代、朝廷の様子について上奏。まず、こう述べる。「近頃、表面を飾り、実質がない者が増えています。彼等は学問を基本とせず、ただ友達付き合いを重んじています。」・続いて、こう述べる。「将来の重鎮と目される者達も、やはり倫理を軽視し、権勢や利益を追っています。徒党を組むことを好み、悪口をもって処罰とし、内輪での称賛をもって褒賞としています。そして、子飼いの者に何か名目を与え、宮中に入り込ませ、役人同士の付き合いや、どういう上奏をしたかを探らせています。この行為は、法が禁止していることです。」
・その後、曹叡は詔勅を下し、諸葛誕らを罷免する。(諸葛誕は若手筆頭で、曹叡から元凶と見なされた。諸葛誕は義士として知られたが、一方では、朝廷内での交友を好んでいた。)
・陳寿は程昱、郭嘉、董昭、劉曄、蒋済をまとめて評する。「策略、謀略に優れた奇士であった。清、徳では荀攸に劣るが、画策に関しては同等である。」