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チングン チョウブン
魏の官僚。最初劉備に仕えたが、結局去り、曹操の元で活躍。曹丕の時代、「九品官人法」(官僚登用の新制度)を制定する。曹叡の時代、宮殿造営を諫言。
・孔融に非凡さを認められ、若くして評判を得る。
・劉備に招聘され、別駕従事となる。(劉備は豫州刺史。別駕従事は、補佐官の筆頭。)
・劉備が陶謙の跡を継ぎ、徐州牧になろうとする。陳羣は、これを制止する。「必ず袁術(南の大軍閥)と衝突します。また、呂布(流浪の勇将)に背後を狙われます。」しかし、劉備は結局、徐州牧に就任。後に、陳羣の予測は当たる。
・茂才(官僚の候補枠)に推挙され、ある県の令に任じられる(推挙者は記されない)。しかし就任せず、徐州に避難する。
・ある者が、二人の人物を推挙する。陳羣は彼等の徳の欠如を見抜き、曹操に進言したが、聞き入れられず。彼等は後に罪を犯し、誅殺される。陳羣はまた、陳矯、戴乾(たいけん)という人物を推薦する。二人は後に名声を得る。以上のことから、人々は陳羣の人物眼を評価する。
・三つの県で令を歴任する。
・中央に戻り、司徒府(内政全般に関わる)に入る。高く評価され、侍御史(監察官)、続いて参丞相軍事となる。(丞相は曹操。)
・曹操が魏国(漢王朝の藩国)を建国する。陳羣は、御史中丞(監察長官)に任じられる。
・肉刑(身体の一部を損傷させる)の復活を主張する。「漢王朝は、鞭打ちを肉刑の代わりとしたのですが、その鞭打ちで死亡する者が増えています。」しかし、王朗らが反対し、議論は沙汰止みとなる。
・曹操の子の曹丕(そうひ)と交流あり。曹丕は陳羣を顔回(孔子の弟子の人格者)に例え、「私には顔回がいるから、門下でいがみ合いがない」と言う。
・「九品官人法」を考案し、施行される。この制度では、地方の人材を「郷品」という単位で評価し、後々まで昇進に反映させる。(評価基準は、まず儒教的名声。)評価を与えるのは、朝廷が任じた特別な人事官。(「中正官」と呼ばれる。)
・曹丕が魏王朝を開く。陳羣は尚書僕射(しょうしょぼくや)、続いて尚書令に任じられる。(僕射は次官、令は長官。)また、侍中(政治顧問)に就任。(恐らく、尚書令と兼任。)
・中領軍に任じられる。(首都の軍の司令官。恐らく、軍政面を期待された。)水軍も担当。
・鎮軍大将軍となり、中護軍も兼ねる。(中護軍は、首都の軍を統括。)
・曹叡に上奏し、帝の心構えを説く。「臣下が陛下の意見に迎合し、陛下の善悪の判断を鈍らせることは、天下の大患です。お気を付けください。」もう一つ。「臣下同士の仲違いは、大変危険です。一度仲違いが起これば、それぞれに党派が生まれます。党派が生まれれば、非難と称賛が入り乱れ、事の真偽は分からなくなります。陛下は常に用心をしておき、源流を断つようにしなければいけません。」
・あるとき、曹真が「斜谷(やこく)を通り、蜀を征伐したい」と願い出る。陳羣は、これに反対する。「斜谷は険阻な地でして、進むのも退くのも困難です。輸送もすんなり行えず、途中で奪われる可能性を無視できません。もし(警備のために)大軍を配置するとしたら、兵力の無駄使いです。」(陳羣には、兵法の素養もあった。)結果、取り止めとなる。
・後に、曹真が再び、蜀征伐を願い出る。陳羣は、費用の計算をした上で、不具合を主張する。(軍政家としての視点。)曹叡は上奏書を読むと、それを曹真に渡し、判断を任せる。曹真は出征し、諸葛亮と対峙したが、長雨で戦況が膠着。陳羣は上奏し、「勅命を出し、撤退させるべきです」と主張。曹叡はこれに従う。
・しかし、曹叡は言う。「王者の宮殿は、いくつも造営するのが当然だ。(それによって、威勢を示す必要がある。)敵が滅びれば(情勢が安定すれば)、もう宮殿を増やすつもりはない(その必要はなくなる)。現在、宮殿の造営こそが君の職務であり、蕭何(劉邦の名臣)の大仕事の如しである。」(蕭何はかつて、貯蔵庫の造営に携わった。)
・陳羣はそれを聞くと、更に諫言する。「劉邦は項羽と争い、その中で宮殿が焼失しました。蕭何はそのため、急いで武器庫・食糧庫を造営したのです。今は当時と状況が違います。」
・その後、話の方向性を変える。「人は己の欲求を実行に移す際、何らかの理屈を付けたがるものです。ましてや、帝がそのような正当化を行うならば、臣下が止められるものではありません。欲求のままに行動するのも、取り止めるのも、陛下の意のままです。」(堅物の陳羣も、つむじを曲げた。)
・更に、こう続ける。「昔、漢の明帝が徳陽殿の造営を考えた際、鍾離意がこれを止めました。鍾離意が死去してのち、初めて造営に取り掛かりました。(しかし、)王者は本来、一人の臣下に遠慮などすべきではありません。王者の行動は当然、人民のためを思ってのことでしょうから。(ついでに言えば、)私は鍾離意に遠く及びません。私は彼と違って、陛下の行為を止められないのですから。」(これらは勿論皮肉。)
・曹叡はその後、少し考え直し、造営の規模を縮小する。
・当時、「陳羣は高位にありながら、政治に積極的でない」と批判する声あり。陳羣の死後、しばらく経った頃、帝曹芳が群臣の上奏を編纂させる。(「名臣奏議」と名付けられる。)人々はこれにより、陳羣の進言内容を知り、感嘆したという。
・曹操の家臣に劉廙(りゅうよく)という者がおり、その弟が魏諷(ぎふう)の反乱に加担する。劉廙は連座させられ、罪は死刑に該当する。陳羣は罪の軽減を曹操に進言し、聞き入れられる。劉廙は陳羣に感謝したが、陳羣は言う。「私が刑罰について論じたのは、ただ国家のためである。」
・度量があり、常に驕らなかったという。
・陳羣死後、子の陳泰が跡を継ぎ、長らく活躍する。また、帝(曹叡)は陳羣の功、徳を追慕。陳泰以外の子も厚遇し、一人を侯に取り立てる。
・陳寿は陳羣を評して言う。「名誉と道義によって行動し、清らかさをもって人望を得た。」
鍾繇 華歆 王朗
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チングン チョウブン
陳羣 長文
~実直、優秀な儒家官僚~
魏の官僚。最初劉備に仕えたが、結局去り、曹操の元で活躍。曹丕の時代、「九品官人法」(官僚登用の新制度)を制定する。曹叡の時代、宮殿造営を諫言。
劉備に助言
・豫州(よしゅう)の潁川(えいせん)郡出身。代々名士の家系。陳是の孫、陳紀の子。
・孔融に非凡さを認められ、若くして評判を得る。
・劉備に招聘され、別駕従事となる。(劉備は豫州刺史。別駕従事は、補佐官の筆頭。)
・劉備が陶謙の跡を継ぎ、徐州牧になろうとする。陳羣は、これを制止する。「必ず袁術(南の大軍閥)と衝突します。また、呂布(流浪の勇将)に背後を狙われます。」しかし、劉備は結局、徐州牧に就任。後に、陳羣の予測は当たる。
・茂才(官僚の候補枠)に推挙され、ある県の令に任じられる(推挙者は記されない)。しかし就任せず、徐州に避難する。
官職を歴任
・曹操が呂布を破り、徐州を制する。陳羣は、曹操に仕官する。司空府の西曹に配属。(司空は民政大臣で、曹操が在任。西曹は、府内の人事を司る部局。)
・ある者が、二人の人物を推挙する。陳羣は彼等の徳の欠如を見抜き、曹操に進言したが、聞き入れられず。彼等は後に罪を犯し、誅殺される。陳羣はまた、陳矯、戴乾(たいけん)という人物を推薦する。二人は後に名声を得る。以上のことから、人々は陳羣の人物眼を評価する。
・三つの県で令を歴任する。
・中央に戻り、司徒府(内政全般に関わる)に入る。高く評価され、侍御史(監察官)、続いて参丞相軍事となる。(丞相は曹操。)
・曹操が魏国(漢王朝の藩国)を建国する。陳羣は、御史中丞(監察長官)に任じられる。
・肉刑(身体の一部を損傷させる)の復活を主張する。「漢王朝は、鞭打ちを肉刑の代わりとしたのですが、その鞭打ちで死亡する者が増えています。」しかし、王朗らが反対し、議論は沙汰止みとなる。
・曹操の子の曹丕(そうひ)と交流あり。曹丕は陳羣を顔回(孔子の弟子の人格者)に例え、「私には顔回がいるから、門下でいがみ合いがない」と言う。
制度を定める
・曹丕が曹操の跡を継ぎ、魏王となる。陳羣は、尚書(帝の秘書官)に任じられる。
・「九品官人法」を考案し、施行される。この制度では、地方の人材を「郷品」という単位で評価し、後々まで昇進に反映させる。(評価基準は、まず儒教的名声。)評価を与えるのは、朝廷が任じた特別な人事官。(「中正官」と呼ばれる。)
・曹丕が魏王朝を開く。陳羣は尚書僕射(しょうしょぼくや)、続いて尚書令に任じられる。(僕射は次官、令は長官。)また、侍中(政治顧問)に就任。(恐らく、尚書令と兼任。)
・中領軍に任じられる。(首都の軍の司令官。恐らく、軍政面を期待された。)水軍も担当。
・鎮軍大将軍となり、中護軍も兼ねる。(中護軍は、首都の軍を統括。)
曹叡を補佐
・曹叡が即位する。陳羣は、司空(民政大臣)に任じられる。
・曹叡に上奏し、帝の心構えを説く。「臣下が陛下の意見に迎合し、陛下の善悪の判断を鈍らせることは、天下の大患です。お気を付けください。」もう一つ。「臣下同士の仲違いは、大変危険です。一度仲違いが起これば、それぞれに党派が生まれます。党派が生まれれば、非難と称賛が入り乱れ、事の真偽は分からなくなります。陛下は常に用心をしておき、源流を断つようにしなければいけません。」
・あるとき、曹真が「斜谷(やこく)を通り、蜀を征伐したい」と願い出る。陳羣は、これに反対する。「斜谷は険阻な地でして、進むのも退くのも困難です。輸送もすんなり行えず、途中で奪われる可能性を無視できません。もし(警備のために)大軍を配置するとしたら、兵力の無駄使いです。」(陳羣には、兵法の素養もあった。)結果、取り止めとなる。
・後に、曹真が再び、蜀征伐を願い出る。陳羣は、費用の計算をした上で、不具合を主張する。(軍政家としての視点。)曹叡は上奏書を読むと、それを曹真に渡し、判断を任せる。曹真は出征し、諸葛亮と対峙したが、長雨で戦況が膠着。陳羣は上奏し、「勅命を出し、撤退させるべきです」と主張。曹叡はこれに従う。
曹叡に諫言
・曹叡が宮殿を盛んに造営し、民は農業に十分従事できず。陳羣は曹叡に謁見し、このように説く。「呉と蜀がまだ健在なので、軍事、農事を重視すべきです。宮殿を造営するのは、敵が滅びてからにすべきです。現在、宮殿の造営に力を入れ、民を疲弊させるなら、敵を喜ばせることになります。」・しかし、曹叡は言う。「王者の宮殿は、いくつも造営するのが当然だ。(それによって、威勢を示す必要がある。)敵が滅びれば(情勢が安定すれば)、もう宮殿を増やすつもりはない(その必要はなくなる)。現在、宮殿の造営こそが君の職務であり、蕭何(劉邦の名臣)の大仕事の如しである。」(蕭何はかつて、貯蔵庫の造営に携わった。)
・陳羣はそれを聞くと、更に諫言する。「劉邦は項羽と争い、その中で宮殿が焼失しました。蕭何はそのため、急いで武器庫・食糧庫を造営したのです。今は当時と状況が違います。」
・その後、話の方向性を変える。「人は己の欲求を実行に移す際、何らかの理屈を付けたがるものです。ましてや、帝がそのような正当化を行うならば、臣下が止められるものではありません。欲求のままに行動するのも、取り止めるのも、陛下の意のままです。」(堅物の陳羣も、つむじを曲げた。)
・更に、こう続ける。「昔、漢の明帝が徳陽殿の造営を考えた際、鍾離意がこれを止めました。鍾離意が死去してのち、初めて造営に取り掛かりました。(しかし、)王者は本来、一人の臣下に遠慮などすべきではありません。王者の行動は当然、人民のためを思ってのことでしょうから。(ついでに言えば、)私は鍾離意に遠く及びません。私は彼と違って、陛下の行為を止められないのですから。」(これらは勿論皮肉。)
・曹叡はその後、少し考え直し、造営の規模を縮小する。
逸話
・政治上の得失について、度々上奏する。その際、他言はしない。また、下書きは全て破棄し、近親者も内容を知らず。・当時、「陳羣は高位にありながら、政治に積極的でない」と批判する声あり。陳羣の死後、しばらく経った頃、帝曹芳が群臣の上奏を編纂させる。(「名臣奏議」と名付けられる。)人々はこれにより、陳羣の進言内容を知り、感嘆したという。
・曹操の家臣に劉廙(りゅうよく)という者がおり、その弟が魏諷(ぎふう)の反乱に加担する。劉廙は連座させられ、罪は死刑に該当する。陳羣は罪の軽減を曹操に進言し、聞き入れられる。劉廙は陳羣に感謝したが、陳羣は言う。「私が刑罰について論じたのは、ただ国家のためである。」
・度量があり、常に驕らなかったという。
・陳羣死後、子の陳泰が跡を継ぎ、長らく活躍する。また、帝(曹叡)は陳羣の功、徳を追慕。陳泰以外の子も厚遇し、一人を侯に取り立てる。
・陳寿は陳羣を評して言う。「名誉と道義によって行動し、清らかさをもって人望を得た。」