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カキン シギョ
魏の政治家。最初、漢の朝臣となり、後に豫(よ)章太守として活躍。やがて孫策に帰順し、孫権の時代、曹操から招聘される。曹操、曹丕、曹叡をよく輔佐。
・出身県(高唐)の役人となる。娯楽の多い地で、周りの役人は休日遊び歩く。華歆は休日になると、いつも家の門を閉ざす。また、議論をする際、常に相手の考えを尊重したという。(頭の固い儒者ではなかった。)
・孝廉に推挙される。(孝廉とは、官僚の候補枠。)その後、郎中(宮仕え)となる。やがて病で辞職。
・何進に招聘される。尚書郎に就任。尚書郎は、尚書台(帝の秘書機関)で諸事に当たる。郎は若手の意。
・南陽郡(荊州)において、袁術に引き留められる。袁術に董卓討伐を進言したが、受け入れられず、出奔する。
・南陽を出発後、あちこちに滞在。その内に、朝廷から詔勅が下り、豫章太守に任じられる。
・着任後、常に清廉を保ち、心を乱さない。また、簡略さをもって、的確に事を処理する。官民は皆、華歆に感謝し、敬愛したという。(人格、手腕を兼備。)
・孫策が江東の多くを取り、残りは豫章のみ。孫策は虞翻を遣わし、華歆に帰服を呼びかける。華歆は、孫策に降り、礼遇される。(恐らく、賓客という扱い。)
・華歆が出発する際、千人余りが見送りに行き、餞別のために財物を送る。合計で数百金に相当。
・華歆はそれらを、ひとまず受け取り、それぞれに(誰からの物か)メモしておく。出発の直前になると、こう言う。「皆さんの気持ちを拒みたくなかったので、贈り物は全て受け取った。しかし、思いの他多くなってしまった。私は一台の馬車で長旅するわけだが、これだけの財物があると危険であろう。皆さんはそのことを考えて、私がこれらを返還することを、どうかご了承頂きたい。」皆、これを聞いて感服し、贈った物を受け取る。(以上、華歆の人格性、及び、気配りの深さがよく分かる。)
・尚書となり、後に侍中に転じる。(尚書は帝の秘書官。侍中は帝の政治顧問。)
・曹操が孫権を征伐した際、これに随行する。荀彧が途中で死去すると、華歆は代わって尚書令に任じられる。(令とは長官。)同時に、軍師(官職名)に任じられる。荀攸と同じ官職。
・曹操が魏国(漢王朝の藩国)を建国する。華歆は、御史大夫(監察長官)に任じられる。
・緻密な性格で、常に用意周到に行動する。上奏する場合、慎重に道理と照らし合わせ、諫言はそれとなく行う。(華歆は徳のイメージが強いが、深慮という点でも非凡。)
・清貧の生活を貫き、しばしば親戚、旧知の者に財産を分け与える。金銭に対し至って淡泊で、利殖は一切行わず。(「三国志演義」のイメージと真逆。)
・あるとき公卿達は、官所有の女奴隷(犯罪者の家族)を賜る。華歆のみ、彼等を全て解放する。
・「曹瞞伝」の記述。伏完の曹操排除計画が露見した際、華歆は曹操の命令で伏皇后(伏完の娘)を捕らえにいく。(重鎮の華歆が、こういう任を与えられるとは考えにくい。)皇后は壁に隠れたが、華歆は兵達に命じ、壁を壊させる。(なお、演義の記述とは異なり、自ら引きずり出したとは記されない。)その後、皇后は刑死する。(「曹瞞伝」以外の史書では、幽閉中に死去と記される。)
・曹丕が魏王朝を開くと、司徒に任じられる。(国政に広く関与。)
・朝臣達が発議。「孝廉では、学問より徳行を重視したものです。(孝廉とは、官僚の候補枠。前漢時代の途中から、後漢時代に置かれた。)人材登用の際、経典の試験で制約すべきではありません。(孝廉を見習うべきです。)」華歆は、これに反対。「学問をもってして、王道を盛んにすべきです。世の掟も法も、経典の盛衰と連動します。また、特別な才子(確実に登用したい人材)がいる場合、招聘によって登用すればよいでしょう。」曹丕はこれに従う。
・なお、当時の魏帝国には、精神の自由を求める風潮あり。経典の軽視も、その結果と思われる。(徳行重視の主張には、口実的要素が存在。)実際は軽佻浮薄の傾向が強く、癒着も横行気味だったとされる。華歆は、こういう状況を憂慮したと思われる。
・曹真が、蜀征伐を願い出る。曹叡は同意。華歆はここで、反対意見を述べる。 ・まず、こう述べる。「今は魏の興隆期です。教化を日々行き渡らせれば、遠方の民もその徳を慕い、我が国に来たがるでしょう。そもそも兵は、止むを得ないときに用いるもの。普段は伏せておいて、いざというとき使うのです。今は政道を第一とし、征伐はその次にすべきでしょう。」
・続いて、こう述べる。「今回の蜀征伐計画は、長距離の輸送を必要とし、これは用兵において、本来避けるべきことです。また、要害を突破しなければならず、一方的な勝利は望めません。」(なお、陳羣(ちんぐん)も同様のことを述べ、征伐に反対。)
・曹叡はこれらに理解を示しつつ、「敵対国が存在する以上、軍事力の行使は、国威を保つために必要」と述べる。その後、征伐が行われたが、やがて長雨が発生。輸送が続かなくなり、撤退となる。
・陳寿は華歆を評して言う。「清廉そのもので、徳性を備えていた。」また、鍾繇(しょうよう)、王朗とまとめて、「一時代の俊傑であった」と称賛。
鍾繇 陳羣 王朗
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カキン シギョ
華歆 子魚
~清廉潔白な人格者~
魏の政治家。最初、漢の朝臣となり、後に豫(よ)章太守として活躍。やがて孫策に帰順し、孫権の時代、曹操から招聘される。曹操、曹丕、曹叡をよく輔佐。
初期
・青州の平原国出身。邴原(へいげん)、管寧と共に遊学する。三人とも、品行をもって名声を得る。
・出身県(高唐)の役人となる。娯楽の多い地で、周りの役人は休日遊び歩く。華歆は休日になると、いつも家の門を閉ざす。また、議論をする際、常に相手の考えを尊重したという。(頭の固い儒者ではなかった。)
・孝廉に推挙される。(孝廉とは、官僚の候補枠。)その後、郎中(宮仕え)となる。やがて病で辞職。
・何進に招聘される。尚書郎に就任。尚書郎は、尚書台(帝の秘書機関)で諸事に当たる。郎は若手の意。
豫章太守となる
・董卓が朝廷を制し、やがて長安遷都を強行。華歆は長安を離れ、南に向かう。・南陽郡(荊州)において、袁術に引き留められる。袁術に董卓討伐を進言したが、受け入れられず、出奔する。
・南陽を出発後、あちこちに滞在。その内に、朝廷から詔勅が下り、豫章太守に任じられる。
・着任後、常に清廉を保ち、心を乱さない。また、簡略さをもって、的確に事を処理する。官民は皆、華歆に感謝し、敬愛したという。(人格、手腕を兼備。)
・孫策が江東の多くを取り、残りは豫章のみ。孫策は虞翻を遣わし、華歆に帰服を呼びかける。華歆は、孫策に降り、礼遇される。(恐らく、賓客という扱い。)
北に戻る
・孫権の時代、華歆は、曹操から招聘される。孫権は引き止めたが、華歆は言う。「将軍(孫権)はまだ、曹操との関係が疎遠です。私が関係樹立に尽力したいと思います。」孫権は承知する。(曹操の領地は中原(中国の中央部)で、儒学が興隆している。華歆は内心、中原の方が自分に合うという気持ちもあって、都行きを望んだのだろう。)
・華歆が出発する際、千人余りが見送りに行き、餞別のために財物を送る。合計で数百金に相当。
・華歆はそれらを、ひとまず受け取り、それぞれに(誰からの物か)メモしておく。出発の直前になると、こう言う。「皆さんの気持ちを拒みたくなかったので、贈り物は全て受け取った。しかし、思いの他多くなってしまった。私は一台の馬車で長旅するわけだが、これだけの財物があると危険であろう。皆さんはそのことを考えて、私がこれらを返還することを、どうかご了承頂きたい。」皆、これを聞いて感服し、贈った物を受け取る。(以上、華歆の人格性、及び、気配りの深さがよく分かる。)
重鎮として活躍
・議郎(帝の補佐官)、及び参司空軍事に任じられる。(司空府は民政担当。当時の司空は曹操。)
・尚書となり、後に侍中に転じる。(尚書は帝の秘書官。侍中は帝の政治顧問。)
・曹操が孫権を征伐した際、これに随行する。荀彧が途中で死去すると、華歆は代わって尚書令に任じられる。(令とは長官。)同時に、軍師(官職名)に任じられる。荀攸と同じ官職。
・曹操が魏国(漢王朝の藩国)を建国する。華歆は、御史大夫(監察長官)に任じられる。
・緻密な性格で、常に用意周到に行動する。上奏する場合、慎重に道理と照らし合わせ、諫言はそれとなく行う。(華歆は徳のイメージが強いが、深慮という点でも非凡。)
・清貧の生活を貫き、しばしば親戚、旧知の者に財産を分け与える。金銭に対し至って淡泊で、利殖は一切行わず。(「三国志演義」のイメージと真逆。)
・あるとき公卿達は、官所有の女奴隷(犯罪者の家族)を賜る。華歆のみ、彼等を全て解放する。
・「曹瞞伝」の記述。伏完の曹操排除計画が露見した際、華歆は曹操の命令で伏皇后(伏完の娘)を捕らえにいく。(重鎮の華歆が、こういう任を与えられるとは考えにくい。)皇后は壁に隠れたが、華歆は兵達に命じ、壁を壊させる。(なお、演義の記述とは異なり、自ら引きずり出したとは記されない。)その後、皇后は刑死する。(「曹瞞伝」以外の史書では、幽閉中に死去と記される。)
人事に関する考え
・曹丕が曹操の跡を継ぎ、魏王(魏国の王)となる。華歆は、相国(首相)に任じられる。
・曹丕が魏王朝を開くと、司徒に任じられる。(国政に広く関与。)
・朝臣達が発議。「孝廉では、学問より徳行を重視したものです。(孝廉とは、官僚の候補枠。前漢時代の途中から、後漢時代に置かれた。)人材登用の際、経典の試験で制約すべきではありません。(孝廉を見習うべきです。)」華歆は、これに反対。「学問をもってして、王道を盛んにすべきです。世の掟も法も、経典の盛衰と連動します。また、特別な才子(確実に登用したい人材)がいる場合、招聘によって登用すればよいでしょう。」曹丕はこれに従う。
・なお、当時の魏帝国には、精神の自由を求める風潮あり。経典の軽視も、その結果と思われる。(徳行重視の主張には、口実的要素が存在。)実際は軽佻浮薄の傾向が強く、癒着も横行気味だったとされる。華歆は、こういう状況を憂慮したと思われる。
対外政策
・曹叡が即位する。華歆は、太尉(防衛大臣)に任じられる。当初は病を理由に辞退し、代わりに管寧を推薦したが、曹叡は「まだ頑張って欲しい」と述べる。華歆は、結局辞退できず。
・曹真が、蜀征伐を願い出る。曹叡は同意。華歆はここで、反対意見を述べる。 ・まず、こう述べる。「今は魏の興隆期です。教化を日々行き渡らせれば、遠方の民もその徳を慕い、我が国に来たがるでしょう。そもそも兵は、止むを得ないときに用いるもの。普段は伏せておいて、いざというとき使うのです。今は政道を第一とし、征伐はその次にすべきでしょう。」
・続いて、こう述べる。「今回の蜀征伐計画は、長距離の輸送を必要とし、これは用兵において、本来避けるべきことです。また、要害を突破しなければならず、一方的な勝利は望めません。」(なお、陳羣(ちんぐん)も同様のことを述べ、征伐に反対。)
・曹叡はこれらに理解を示しつつ、「敵対国が存在する以上、軍事力の行使は、国威を保つために必要」と述べる。その後、征伐が行われたが、やがて長雨が発生。輸送が続かなくなり、撤退となる。
・陳寿は華歆を評して言う。「清廉そのもので、徳性を備えていた。」また、鍾繇(しょうよう)、王朗とまとめて、「一時代の俊傑であった」と称賛。