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テイイク チュウトク
程昱 仲徳
  
~巨漢の異才~

 魏の参謀、政治家、軍人。故郷(東郡)にいた頃、豪族と共に黄巾を撃退し、後に曹操に仕える。呂布反乱時、東郡の二県を曹操に帰属させ、危機を乗り切る。次第に曹操の信任を受け、重鎮として長らく活躍。



故郷時代
・兗州(えんしゅう)の東郡出身。身の丈八尺三寸(191cm)。見事な髭を生やす。

・あるとき、黄巾軍が県に進入する。官吏の王度(おうたく)が、城内からこれに呼応。官民は城外に逃亡し、王度らもやがて去る。程昱は人々に言う。「王度らが城を得ながら去ったのは、城を守るだけの兵力がないからだ。我々が県長と共に城に篭もれば、必ず勝利を得られるだろう。」豪族の薛房(せつぼう)は、程昱に同意。他は反対する。

・その後、程昱は薛房を高台に登らせ、「敵が迫ってきたぞ」と叫ばせる。官民は急いで城に戻る。黄巾が再び来ると、程昱らは城を堅守する。敵軍が撤退すると、程昱は追撃して破る。(なお、程昱の官職などは不明。確かなのは、豪族と繋がりがあったことのみ。)




故郷時代2
・袁紹(冀州)と公孫瓉(幽州)が争い、後者が一時勝利。劉岱(兗州刺史)は、彼等のどちらに味方すべきか迷う。部下が劉岱に進言し、程昱の助言を聞くことを勧める。「彼は謀に長けており、しっかり方策を立てることができます。」(程昱の経歴は謎が多いが、高い評判があったことが分かる。これまで度々、州の安定に貢献していたのだろう。)

・その後、程昱は劉岱に会い、袁紹に味方すべきと説く。「近くにいる袁紹を捨ててまで、公孫瓉を取るべきではありません。公孫瓉はそれほどの器ではありません。今は勢いがあるとはいえ、いずれ袁紹に敗れるでしょう。」劉岱はこれに従う。公孫瓉は後に袁紹に敗北。




荀彧を補佐
・あるとき、曹操に招聘され、直ちにこれに応じる。周りは「こないだと態度が違う」と言う。(以前、袁紹を評価する発言をした。)しかし、程昱は取り合わない。
・曹操から気に入られ、寿張県の令の代行に任じられる。寿張県は、兗州の東平国。

・曹操が徐州(陶謙の領地)に進軍する。程昱は、鄄城(けんじょう)県に移り、荀彧を補佐する。(鄄城県は、曹操の本拠地。)


・呂布が反乱し、兗州を攻略する。荀彧と程昱は相談し、近辺の二県(范と東阿)を保持することにする。荀彧は程昱に対し、「貴公はあの辺で、民(豪族を中心とする)から人望がある」と述べ、説得を任せる。程昱は范県の説得に成功し、味方に引き入れる。また、東阿県も味方に付く。
・倉亭の渡しを断ち、陳宮(呂布の将)の進軍を防ぐ。(兵法にも長けていた。)その後、荀彧共々、三県を堅守する。




曹操を鼓舞
・あるとき、曹操が兵糧不足に陥り、袁紹への帰順を考える。程昱は、これを制止する。「事態を前に、気後れなさったのですか。もう一度熟慮してください。ご主君は、聡明にして神武の持ち主です。袁紹の下風に立つことができますか。ご主君にはまだ三城が残っており、兵も一万を下りません。そして、文若(荀彧)や私が付いています。」これにより、曹操は思い留まる。(以上は、「三国志演義」には描かれないエピソード。史実の曹操は、心を迷わせることも時々あった。)

・荀彧共々、帝の擁立、許都遷都を勧める。遷都後、尚書に任じられる。(尚書令は荀彧。)




対袁氏
・東中郎将に任じられる。更に、済陰郡(兗州)の太守、兗州の都督となる。(この三つは、恐らく兼任。)少しのち、振威将軍に任じられる。(東中郎将から昇格。)

・曹操が袁紹と開戦する。程昱の駐在地は鄄城県。(済陰郡の郡庁は、元々は定陶県にあったが、曹操が移転させた。)当時、程昱の手元には、七百の兵しかいない。曹操は使者を送り、増援を述べる。
・それに対し、程昱はこう返書する。「中途半端に兵力があると、敵はそれを見て無視できずと考え、城を攻めようとするでしょう。しかし兵力が少ないと、敵は攻めるまでもないと考え、放置するでしょう。」結果、その通りになり、程昱は城を無事保持する。曹操は、程昱の胆力に感嘆。


・曹操が黎陽に進軍し、袁譚、袁尚を討伐する。程昱は、李典と共に輸送に当たる。(李典は当時若手。程昱は恐らく、監督役。)
・やがて、敵に輸送路を遮られたが、李典が敵軍の弱点を見抜く。李典は、(曹操の指令を待たず)独断で攻撃することを考え、程昱はこれに賛同を与える。李典らはその後、勝利を得る。

・独自に兵数千を集める。(恐らく、諸豪族の協力による。)その後曹操に合流し、黎陽攻撃に参加。勝利に貢献し、奮武将軍に任じられる。




曹丕に助言
・あるとき、曹丕(曹操の子)の元に、反乱者が投降してくる。(曹操は出征中。)家臣の多くは、誅殺を主張したが、程昱は受け入れを進言する。「天下が荒れていた頃は、厳格な処罰をもって、見せしめとする必要がありました。しかし今は、天下は既に安定しています。彼等も、降伏すべくして降伏したのです。あえて罰する意味はありません。」曹丕はこれを聞き、処罰しないことにする。

・曹操は帰還後、程昱に向かい、曹丕をよく補佐してくれたと称賛。「君は軍計に明るいだけではないな」と言う。(なお、程昱の活躍は多方面に渡るが、この発言を見ると参謀がメイン。)




隠居と復帰
・剛情な性格で、よく人と衝突する。(荀彧や荀攸とは一味違う。)ある者が「程昱が謀反を企んでいる」と誣告(ぶこく)したが、曹操は全く信じない。
・あるとき、曹操は程昱に感謝し、背中を叩いて言う。「昔袁紹が帰順を勧告してきたとき、貴殿が諌めてくれなければ、私は袁紹に服従していた。今のような栄華はなかった。」その後、程昱の一族は大宴会を開き、皆で程昱を祝福する。程昱は側の者に語る。「私はこれ以上は何も望まぬ。人は満足を知れば災厄を免れる。」かくて引退を決意し、兵を国に返す。


・曹操が魏公となり、魏国が建国される。程昱は衛尉に任じられる。(衛尉は宮門担当。公卿クラス。)
・八十歳で死去し、子の程武が跡を継ぐ。
陳寿は程昱、郭嘉、董昭、劉曄、蒋済をまとめて評する。「策略、謀略に優れた奇士であった。清、徳では荀攸に劣るが、画策に関しては同等である。」




荀彧 荀攸 賈詡 郭嘉


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