トップページ>三国志総合事典(正史)>人物事典-魏晋>
ジョコウ コウメイ
魏の将。楊奉に仕えたのち、曹操の配下に入る。官渡、関中など、各地で活躍を重ねる。無敗を誇り、関羽にも勝利する。
・楊奉が帝を奉じ、河東郡に来る。徐晃はこれに仕え、戦功を挙げる。(相手は李傕らと思われる。)
・洛陽帰還を進言し、楊奉はこれに従う。
・楊奉に対し、曹操への帰順を勧める。しかし、聞き入れられない。徐晃は見切りを付け、曹操の配下に入る。(「三国志演義」では、満寵の説得の結果だが、史実ではない。)
・反抗勢力の平定で活躍する。続いて、呂布の討伐で戦功を挙げる。後に、曹仁らと共に眭固(すいこ)を破る。
・官渡において、袁紹の輸送車を襲撃する。(守将韓猛。)敵軍を破り、兵糧を焼き払う。(これにより、戦局の流れが変わる。)
・袁紹死後、曹操は河北平定に取り掛かる。韓範(易陽の県令)が降伏を偽り、秘かに防備態勢を整える。(易陽は、冀州の趙国所属。)徐晃は討伐を命じられると、改めて降伏を説き、承知させる。
・その後曹操に対し、降伏を認めるよう説く。「今は情勢が不安定でして、諸城は事態に注目しています。もし易陽の降伏を認めず、厳しく攻撃すれば、その情報はすぐに諸城に伝わり、我々への敵意を強めます。」(正史の徐晃は、理知的な性格。)曹操は同意。
・引き続き、河北平定に尽力し、度々戦功を挙げる。
・夏侯淵と協力し、西方の異民族を破る。再び梁興と対戦し、これを討ち取る。その後、漢中の賊陳福を討伐し、三十の陣営を落とす。
・夏侯淵と共に陽平を守り、劉備と対する。(陽平は土地名で、漢中郡の北西の一帯。)やがて別働隊となり、陳式(劉備の将)を撃破する。
・関羽が樊(はん)城(守将曹仁)に進軍し、幾重にも包囲。徐晃は、曹操の指令を受け、樊城の救援に向かう。陽動作戦を用いて惑わせ、拠点の一つを急襲する。(正史の徐晃は用兵家。)その後、救援に来た関羽を撃退。そのまま包囲陣に突入し、向かう所全て突破する。
・関羽とは親交があり、互いに敬愛していたという。(両者は同郷。)樊城を巡る攻防の際、二人は陣頭で語り合ったとされる。徐晃はその後、私情を棄てて関羽を攻撃。
・曹丕の時代、呉軍が襄陽を奪取。徐晃は曹仁共々、これを陥落させる。
・慎み深い性格で、倹約に努める。常々述懐して言う。「明君に出会うのは難しいが、私は幸いにも巡り会えた。力を尽くさずにいられようか。」
・軍を整然と統制し、常に斥候を遠くまで出し、念入りに作戦を練る。そして追撃するときは、一気に攻勢をかける。
・陳寿は五将(張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃)をまとめて評する。「曹操の武勲を助けた将の中でも、この5人が最も優秀だった。」
張遼 楽進 于禁 張郃
トップページ>三国志総合事典(正史)>人物事典-魏晋>
ジョコウ コウメイ
徐晃 公明
~冷静、周到な将軍~
魏の将。楊奉に仕えたのち、曹操の配下に入る。官渡、関中など、各地で活躍を重ねる。無敗を誇り、関羽にも勝利する。
初期
・司隷の河東郡出身。郡の役人となる。・楊奉が帝を奉じ、河東郡に来る。徐晃はこれに仕え、戦功を挙げる。(相手は李傕らと思われる。)
・洛陽帰還を進言し、楊奉はこれに従う。
・楊奉に対し、曹操への帰順を勧める。しかし、聞き入れられない。徐晃は見切りを付け、曹操の配下に入る。(「三国志演義」では、満寵の説得の結果だが、史実ではない。)
・反抗勢力の平定で活躍する。続いて、呂布の討伐で戦功を挙げる。後に、曹仁らと共に眭固(すいこ)を破る。
対袁氏
・曹操が袁紹と開戦する。徐晃は、顔良、文醜の攻撃に参加し、それぞれで戦功を挙げる。また、曹洪と協力し、反抗勢力を破る。・官渡において、袁紹の輸送車を襲撃する。(守将韓猛。)敵軍を破り、兵糧を焼き払う。(これにより、戦局の流れが変わる。)
・袁紹死後、曹操は河北平定に取り掛かる。韓範(易陽の県令)が降伏を偽り、秘かに防備態勢を整える。(易陽は、冀州の趙国所属。)徐晃は討伐を命じられると、改めて降伏を説き、承知させる。
・その後曹操に対し、降伏を認めるよう説く。「今は情勢が不安定でして、諸城は事態に注目しています。もし易陽の降伏を認めず、厳しく攻撃すれば、その情報はすぐに諸城に伝わり、我々への敵意を強めます。」(正史の徐晃は、理知的な性格。)曹操は同意。
・引き続き、河北平定に尽力し、度々戦功を挙げる。
対馬超・対関羽
・馬超、韓遂の討伐に参加する。(馬超らは関中の軍閥。)あるとき、曹操に牽制策を進言。同意を得て、黄河を西に渡河する。(朱霊と協力。)その後、梁興を迎撃して破る。(梁興は関中軍閥の一人。馬超の傘下。)曹操はやがて、馬超らに勝利する。・夏侯淵と協力し、西方の異民族を破る。再び梁興と対戦し、これを討ち取る。その後、漢中の賊陳福を討伐し、三十の陣営を落とす。
・夏侯淵と共に陽平を守り、劉備と対する。(陽平は土地名で、漢中郡の北西の一帯。)やがて別働隊となり、陳式(劉備の将)を撃破する。
・関羽が樊(はん)城(守将曹仁)に進軍し、幾重にも包囲。徐晃は、曹操の指令を受け、樊城の救援に向かう。陽動作戦を用いて惑わせ、拠点の一つを急襲する。(正史の徐晃は用兵家。)その後、救援に来た関羽を撃退。そのまま包囲陣に突入し、向かう所全て突破する。
・関羽とは親交があり、互いに敬愛していたという。(両者は同郷。)樊城を巡る攻防の際、二人は陣頭で語り合ったとされる。徐晃はその後、私情を棄てて関羽を攻撃。
・曹丕の時代、呉軍が襄陽を奪取。徐晃は曹仁共々、これを陥落させる。
・慎み深い性格で、倹約に努める。常々述懐して言う。「明君に出会うのは難しいが、私は幸いにも巡り会えた。力を尽くさずにいられようか。」
・軍を整然と統制し、常に斥候を遠くまで出し、念入りに作戦を練る。そして追撃するときは、一気に攻勢をかける。
・陳寿は五将(張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃)をまとめて評する。「曹操の武勲を助けた将の中でも、この5人が最も優秀だった。」