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カシン スイコウ
後漢の大将軍。元々は屠殺業だったが、後宮入りした妹のコネで出仕(妹は後に皇后となる)。朝廷で権勢を伸ばし、やがて宦官と衝突する。袁紹と結託し、宦官打倒を企てたが、逆に殺害される。
・妹(異母妹)が宦官の手引きで後宮入り。(当時の帝は霊帝。)何進は、郎中(宮仕え)となる。やがて、虎賁(こほん)中郎将(近衛隊を率いる)に任じられる。
・潁川(えいせん)郡の太守を務める。(潁川郡は、豫州の最西部に位置。都から近い要地。)
・妹が霊帝の皇后となる。皇后の一族は外戚と呼ばれ、朝廷において特別な位置付け。何進は更に優遇され、侍中(政治顧問)、将作大匠(宗廟・宮殿を造営)、河南尹(洛陽周辺を治める)を歴任する。(こうして見ると、何進は官僚経験が長い。その中で、相応の政治感覚は身に付いたと思われる。)
・「黄巾の乱」が起こり、各地が混乱に陥る。何進は、大将軍に任じられ、洛陽にあって指令を出す。皇甫嵩(こうほすう)、朱儁(しゅしゅん)ら諸将の活躍により、乱はひとまず鎮圧される。
・蹇碩は、何進を都から追い出すことを考える。上奏し、「何進を西方に出征させ、辺章・韓遂を討伐させましょう」と述べ、帝は同意する。しかし、何進も、蹇碩の思惑通りになる気はない。袁紹(名門貴族)に命じ、東で兵を集めさせ、一方で「兵が集まってから出発します」と上奏。かくて、意図的に出発を遅らせ、結局都に留まる。
・劉弁(何皇后の子)と、劉協(王夫人の子)の間で、跡目問題が発生。(劉協が弟。)何進は劉弁の伯父に当たり、劉弁を後押しする。一方、蹇碩が劉協の後見役を任せられる。(霊帝は、「資質は劉協が上」と考え、心を迷わせていたという。)政争は自ずと加速。
・霊帝が崩御すると、蹇碩は劉協擁立を考え、何進の殺害を画策。宮中で準備を整え、何進を待ち受ける。蹇碩の部下の中に、何進の旧知の者がおり、参内する何進に目配せする。何進はすぐに察し、病と称して引き返し、近道を通って自分の軍営に入る。かくて、兵と共に私邸に戻り、蹇碩は手が出せなくなる。
・劉弁が即位する(少帝)。何進は、録尚書事となり、尚書台(帝の秘書機関)を監督する。太傅(帝を見守る)の袁隗と共に、少帝を日々補佐。(袁隗は、袁紹の叔父。)
・蹇碩が再び何進殺害を試み、同僚の趙忠に協力を求める。当時、宦官の中に郭勝という者がおり、何進の味方に付く。(郭勝は何進と同郷で、かつて何太后の後宮入りを手引き。)趙忠は何進に勢いがあるのを見て、その味方をすることを決める。(趙忠は宦官の中でも、我欲の強さで知られた人物。)何進はその後、蹇碩を誅殺し、その軍を取り込む。
・何太后にたしなめられ、少し考えを変える。放縦な者のみ誅することとする。しかし袁紹は、「それじゃ生ぬるい」と言う。袁紹は、何太后に圧力をかけるために、地方軍を都に呼ぶことを提案。何進は同意する。(董卓、丁原らが、地方の諸将の代表。)
・宦官のトップグループは、十常侍と呼称される。(正確に十名とは限らず。)十常侍の筆頭・張譲が中心となり、何進打倒を画策する。(張譲は霊帝の信頼厚かったが、その一方で私腹を肥やしていた。宦官の中でも、狡知に長ける。)
・張譲は数十人を従え、兵を嘉徳殿(南宮)に配備する。何太后の詔と偽り、何進を呼び寄せる。何進が参内すると、張譲は忘恩をなじった後、兵に斬殺させる。その後、袁紹らが宦官を滅ぼす。
・「後漢書」には、「何進は仁恩(仁徳と恩愛)あり」と記される。何進死後、呉匡(何進の腹心)が部下達に復讐を呼びかけると、皆涙を流して誓いを立てたという。
・范曄(後漢書の著者)は、何進、竇武(とうぶ)をまとめてこう評する。「悪人たち(宦官)の打倒を計画し、世の人々の期待に応えようとしたが、途中で失敗した。」(なお、竇武は何進と同じく外戚。何進の時代より前、宦官に敗れて自害した。)
袁紹 袁術 董卓
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カシン スイコウ
何進 遂高
~異色の大将軍~
後漢の大将軍。元々は屠殺業だったが、後宮入りした妹のコネで出仕(妹は後に皇后となる)。朝廷で権勢を伸ばし、やがて宦官と衝突する。袁紹と結託し、宦官打倒を企てたが、逆に殺害される。
出世
・荊州の南陽郡出身。家は屠殺業。・妹(異母妹)が宦官の手引きで後宮入り。(当時の帝は霊帝。)何進は、郎中(宮仕え)となる。やがて、虎賁(こほん)中郎将(近衛隊を率いる)に任じられる。
・潁川(えいせん)郡の太守を務める。(潁川郡は、豫州の最西部に位置。都から近い要地。)
・妹が霊帝の皇后となる。皇后の一族は外戚と呼ばれ、朝廷において特別な位置付け。何進は更に優遇され、侍中(政治顧問)、将作大匠(宗廟・宮殿を造営)、河南尹(洛陽周辺を治める)を歴任する。(こうして見ると、何進は官僚経験が長い。その中で、相応の政治感覚は身に付いたと思われる。)
・「黄巾の乱」が起こり、各地が混乱に陥る。何進は、大将軍に任じられ、洛陽にあって指令を出す。皇甫嵩(こうほすう)、朱儁(しゅしゅん)ら諸将の活躍により、乱はひとまず鎮圧される。
政争1
・当時、宦官の蹇碩(けんせき)が権勢を持ち、何進と対立。蹇碩は壮健で武略を有し、上軍校尉の地位にあり。(即ち、霊帝が創設した「西園八校尉」の筆頭。)大将軍の何進より、立場は上。しかし、蹇碩は、何進を恐れはばかったという。(外戚というだけでなく、権力闘争に長けていたのだろう。)・蹇碩は、何進を都から追い出すことを考える。上奏し、「何進を西方に出征させ、辺章・韓遂を討伐させましょう」と述べ、帝は同意する。しかし、何進も、蹇碩の思惑通りになる気はない。袁紹(名門貴族)に命じ、東で兵を集めさせ、一方で「兵が集まってから出発します」と上奏。かくて、意図的に出発を遅らせ、結局都に留まる。
・劉弁(何皇后の子)と、劉協(王夫人の子)の間で、跡目問題が発生。(劉協が弟。)何進は劉弁の伯父に当たり、劉弁を後押しする。一方、蹇碩が劉協の後見役を任せられる。(霊帝は、「資質は劉協が上」と考え、心を迷わせていたという。)政争は自ずと加速。
政争2
・当時、袁氏という名族あり。若手では、袁紹とその従弟袁術あり。袁紹は無頼漢たちをよく手なずけ、袁術は気侠を尊ぶことで知られる。何進は、この二人を味方に付ける。加えて、知恵者の逢紀、何顒(かぎょう)、荀攸(じゅんゆう)を召し寄せ、参謀とする。(以上、絶妙な面子。何進は、人事のセンスもあったと思われる。)・霊帝が崩御すると、蹇碩は劉協擁立を考え、何進の殺害を画策。宮中で準備を整え、何進を待ち受ける。蹇碩の部下の中に、何進の旧知の者がおり、参内する何進に目配せする。何進はすぐに察し、病と称して引き返し、近道を通って自分の軍営に入る。かくて、兵と共に私邸に戻り、蹇碩は手が出せなくなる。
・劉弁が即位する(少帝)。何進は、録尚書事となり、尚書台(帝の秘書機関)を監督する。太傅(帝を見守る)の袁隗と共に、少帝を日々補佐。(袁隗は、袁紹の叔父。)
・蹇碩が再び何進殺害を試み、同僚の趙忠に協力を求める。当時、宦官の中に郭勝という者がおり、何進の味方に付く。(郭勝は何進と同郷で、かつて何太后の後宮入りを手引き。)趙忠は何進に勢いがあるのを見て、その味方をすることを決める。(趙忠は宦官の中でも、我欲の強さで知られた人物。)何進はその後、蹇碩を誅殺し、その軍を取り込む。
宦官打倒
・宦官は朝政を乱し、民から搾取。儒家と対立する。袁紹(儒家貴族)は、宦官誅滅を強く主張し、何進もこれに同意。(恐らく、押し切られた形。)何進は以後、参内を控え、時機を窺う。・何太后にたしなめられ、少し考えを変える。放縦な者のみ誅することとする。しかし袁紹は、「それじゃ生ぬるい」と言う。袁紹は、何太后に圧力をかけるために、地方軍を都に呼ぶことを提案。何進は同意する。(董卓、丁原らが、地方の諸将の代表。)
・宦官のトップグループは、十常侍と呼称される。(正確に十名とは限らず。)十常侍の筆頭・張譲が中心となり、何進打倒を画策する。(張譲は霊帝の信頼厚かったが、その一方で私腹を肥やしていた。宦官の中でも、狡知に長ける。)
・張譲は数十人を従え、兵を嘉徳殿(南宮)に配備する。何太后の詔と偽り、何進を呼び寄せる。何進が参内すると、張譲は忘恩をなじった後、兵に斬殺させる。その後、袁紹らが宦官を滅ぼす。
・「後漢書」には、「何進は仁恩(仁徳と恩愛)あり」と記される。何進死後、呉匡(何進の腹心)が部下達に復讐を呼びかけると、皆涙を流して誓いを立てたという。
・范曄(後漢書の著者)は、何進、竇武(とうぶ)をまとめてこう評する。「悪人たち(宦官)の打倒を計画し、世の人々の期待に応えようとしたが、途中で失敗した。」(なお、竇武は何進と同じく外戚。何進の時代より前、宦官に敗れて自害した。)