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オウイン シシ
王允 子師
  
~忠義、気骨を備えた能臣~

 後漢の官僚。王朝に忠誠を持ち、政治腐敗と対し、黄巾討伐でも活躍。董卓が朝廷を乱すと、呂布(董卓の部下)を誘い、董卓を暗殺させる。董卓の残党が大軍で襲来した際、逃亡せず殺害される。



政治を正す
・并州(へいしゅう)の太原郡出身。高級官僚の家系。節義と志あり。
・同郡の郭泰から「王佐の才」と評される。(郭泰は儒学者で、後に高名を得る。)
・日々経書(儒学書)を読み、朝夕は騎射の練習をする。

・郡(太原郡)の役人となる。(太原郡の治所は晋陽県。)当時晋陽県には、趙津という宦官がおり、日々横暴を振るう。(宦官はしばしば豪族と結託し、農民から搾取。)王允はこれを捕縛し、殺害する。帝(桓帝)は怒り、郡の太守を捕らえ、獄死させる。
・官を辞し、太守の喪に三年服する。その後、再び郡(太原郡)の役人になる。

・太原太守の王球が、路仏という者を重用。路仏は品行に問題があり、王允は表立って批判する。王球は怒り、王允を殺害しようとする。
・その後、州(并州)の刺史鄧盛が、王允を称賛。王允は鄧盛の推挙を受け、別駕従事に任じられる。(補佐官の筆頭。)一方、路仏は免官。

・司徒(朝廷の大臣)の府に招聘される。ここで実績を挙げ、侍御史(監察官)に任じられる。




黄巾討伐
・黄巾の乱が起こる。王允は、豫(よ)州刺史に任じられ、黄巾に当たる。まず霊帝に上奏し、「党錮の禁」(儒者を迫害する政策)の廃止を進言。霊帝は同意する。(朝廷は、儒家勢力が黄巾に味方するのを恐れた。)
・着任すると、荀爽、孔融(いずれも儒家の名士)を招聘し、従事(補佐官)に任じる。続いて、黄巾の討伐を開始する。大いにこれを破り、一帯を平定する。(あまり知られていない活躍。)
・黄巾から書簡を入手し、張譲(宦官)と黄巾の結託を知る。直ちに霊帝に告発し、霊帝は張譲を問い詰めたが、結局これを許す。張譲は王允を恨み、獄に下す。


・恩赦により、豫州刺史に戻る。しかし、張譲の画策により、再び何かの罪に問われる。何進(大将軍)らが上表して弁護し、しばらくのち釈放される。(何進は外戚(皇后・太后の一族)でもある。宦官に対抗するため、しばしば儒者に味方。)
・宦官を避け、姓名を変え、河内郡(司隷)、陳留郡(兗州)を流浪する。




重用
何進の招聘を受け、従事中郎となる。(何進は大将軍で、帝の外戚でもある。従事中郎とは、直属の参謀。)
河南尹に任じられる。洛陽周辺を統治。

・何進は宦官に殺害され、袁紹が宦官を討ち滅ぼす。その後、董卓(辺境出身の武将)が朝廷を制圧する。献帝即位後、王允は、太僕(行幸に随行する)に任じられる。後に、尚書令(秘書機関の長)に就任。(太僕と兼任。)いずれも、董卓の意向と思われる。
司徒に任じられ、広く内政に関わる。尚書令もそのまま兼任。(董卓は暴君だが、現実主義。王允の政務能力を重宝した。)


・董卓が長安遷都を強行する。王允は、朝廷の書類をかき集め、長安に持っていき、改めて分別する。
・その後も、董卓から朝政を委ねられる。表向きは董卓に恭順し、董卓も疑いを持たず。また、朝臣は皆、王允を頼りにしていたという。




董卓暗殺
・司隷校尉の黄琬(こうえん)らと図り、董卓打倒を画策する。まず、「袁術を討つと称し、秘かに帝を連れ出し、洛陽に戻る」という作戦を立てる。しかし、董卓に疑われ、失敗に終わる。

呂布を味方に引き込み、董卓暗殺計画を練る。(呂布は、董卓配下の勇将。)呂布が自ら董卓を殺害する。
・学者の蔡邕(さいよう)は董卓に重用されていたが、その死を知り、思わず嘆息する。王允はこれを咎め、獄死させる。

・「後漢書」によると、(暗殺成功後)呂布をあまり取り立てず、一人の剣客として扱う。結果、険悪な間柄になる。
・「後漢書」には、こう記される。「王允は剛毅で悪を憎み、他人の心情を慮ることなく、時宜を得た方策も取らず。ただ正道を貫こうとし、徐々に人心を失う。」(儒家にとって、正義は宗教的信念でもある。)




李傕らの反乱
・東方には、董卓の残党李傕、郭汜らが駐屯。王允は当初、彼等に赦免を告げるつもりだったが、気が変わって言う。「彼等に罪状はない。罪がない者を赦免するのはおかしな話。あえて赦免を告げれば、彼等はかえって疑いを抱く。」そして、李傕らを放置する。李傕らは、朝廷の方針を知ることができず、疑心暗鬼になる。(王允は官僚としては一流だったが、政治家としては、必ずしもそうではなかった。)

・王允は、董卓の旧臣胡軫(こしん)を呼び、「李傕らの様子を探ってくるように」と命じる。その態度が一方的だったため、胡軫は反感を持ったとされる。胡軫は到着すると、そのまま李傕らに帰服。

・李傕らは、王允に反抗することを決める。西方に行き、涼州(本拠地)で大軍を集め、そのあと長安を襲撃。呂布は抗戦したが敗れ、王允に逃亡を呼びかける。王允は、あえて長安に留まる。「王朝を助け、国家を安んじることが、私の願いだ。天子はまだ幼く、私を頼りにしている。」(その後、呂布は手勢と共に流浪。)李傕らは長安を制圧し、王允は一族共々殺害される。帝は嘆き悲しむ。


・王允の伝記は、陳寿「三国志」にはない。「後漢書」に立伝されている。
・范曄(後漢書の著者)は、王允を評して言う。「困難な道を選び、心を曲げて(董卓に)仕え、元凶(董卓)を倒すことに成功したが、残党に上手く対処できなかった。人には得手不得手がある。」




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