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リュウエン クンロウ
劉焉 君郎
  
~教養高い野心家~

 後漢の群雄。諸官を歴任してのち、益州で牧に就任する。善政に努める一方、手練手管を駆使し、州内に権勢を行き渡らせる。



初期
・荊州の江夏郡出身。漢王朝の皇族。
・州や郡で役人となる。後に朝廷に入り、中郎となる。(郎官は若手のための官職。)やがて師の喪のため、官を去る。山(陽城山)に住んで勉学に励み、自らも人々に学問を教える。

・賢良、方正(いずれも官僚の候補枠)に推挙され、司徒府に招聘される。
洛陽県の令、冀(き)州刺史、南陽太守を歴任。続いて、宗正(皇室の諸事を記録)、太常(朝廷の儀礼担当)を歴任する。




重要な進言
・政治の混乱を見て、霊帝に進言。「現在の刺史や太守は、賄賂によって、その地位を得た者が多いのです。彼等は現地で百姓から搾取し、民心は離れています。そこで、朝廷から新たに清廉の者を選び、牧伯となして、各地を治めさせるのがよいです。」劉焉自身も交州(はるか南の地)の牧になることを内心望み、混迷の朝廷から去ることを欲する。(牧官は前漢末期に設置され、後漢初期に廃止。劉焉は復活を勧めた。)

・劉焉のこの進言は、すぐには受け入れられず、朝廷は情勢を静観。やがて劉焉の言葉通り、各地で刺史を巡るトラブルが続発。
・かくて、牧官の設置が決定され、劉焉は益州牧に任じられる。




手腕を振るう
・当時、益州刺史の郤倹が悪政を敷く。(土着豪族と結託し、民から搾取。)結果、馬相という人物が反乱。黄巾と称し、各地を襲撃する。やがて、郤倹を殺害し、天子と称する。州の従事(補佐官)の賈龍(かりゅう)がこれを破り、劉焉を迎え入れる。


・まず、州都を綿竹県に移す。(元の州都は雒(らく)県。)離反者を慰撫し、寛・恵をもって民を統治。一方で、秘かに野心を抱く。
「五斗米道」(道教団体)と繋がりを持つ。教祖張魯の母と親密になり、張魯をよく手なずける。張魯に漢中を討伐させ、張魯は以後、漢中にあって劉焉の命令に従う。
・東から来た流民の中から、精鋭を選び出し、軍団を編成する。(東州兵と呼ばれる。)


・当時、益州では豪族が力を持ち、地元の民を支配。(横暴な者も多い。)劉焉はその十数人に罪を着せ、誅殺する。(これにより、州牧として己の権力を高め、民を直接支配。)
・このため、任岐という者が反乱する。賈龍もまた、董卓の部将・趙謙と連合し、劉焉に反逆。(任岐と賈龍は、恐らく有力豪族出身。)劉焉は、羌(きょう)族の部隊を従え、任岐と賈龍を撃破する。




慢心と挫折
・馬車を過剰に飾り立て、皇帝の真似事をする。劉表(荊州の長官)はこれを知り、上表して非難する。
・董卓が長安(当時の都)を支配。劉焉にも服従を求めたが、劉焉は拒絶する。(董卓が暴君だから、という理由だけでなく、独立を保ちたかったため。)

・董卓が殺害され、李傕が代わって権勢を得る。(李傕も暴君。)馬騰と韓遂(涼州の軍閥)がこれを討伐する。劉焉は、長子劉範、次子劉誕を遣わし、馬騰らに加勢させる。(恐らく、個人的野心あり。馬騰らが勝てば、その後、新政権で立場を得られる。)しかし、劉範は樊稠(李傕の部将)の前に敗死し、劉誕も李傕に殺害される。


・心労が重なり、発病する。また、州都を成都に移す。(都から遠ざかる形。)やがて死去。
・劉焉の三子劉瑁は、別部司馬の地位にあり。(別部司馬は別働隊を与えられ、独立して軍をまとめる。)しかし、何らかの理由で精神を病み、四子の劉璋が劉焉の跡を継ぐ。

陳寿は劉焉を評して言う。「天命もないのに、勝手に天子になろうとした。明らかに判断力を失っていた。」(陳寿は立場上、漢王朝を軽視した者を厳しく批判。)
・范曄(後漢書の著者)は劉焉を評して言う。「州を治め、子孫のために礎を作った。」(確かに、劉焉は、益州の乱れた情勢を収拾した。しかし、外来勢力と土着豪族の対立という、厄介な情勢を作った面もある。)




劉璋 張魯 劉表


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