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リュウショウ キギョク
劉璋 季玉
  
~温和な二代目~

 後漢の群雄。父劉焉の跡を継ぎ、益州の統治に苦闘する。一方、漢中の張魯と対立し、長年抗争する。後に劉備に抗戦し、敗れて降伏。



初期
・劉焉の四子。漢王朝の皇族。献帝の時代、長安で奉車都尉となる。(帝の車馬を司る官。)
・当時、董卓が長安にあって、朝廷を支配。一方、劉焉は益州で半ば独立し、董卓に従わない。あるとき、朝廷(董卓の支配下)は劉璋を派遣し、劉焉の説得に当たらせる。劉璋はそのまま、益州に留め置かれる。しばらくして、劉焉は病死する。

・劉璋の人となりは、穏やかで仁あり。そのため、司馬(軍のまとめ役)の趙韙(ちょうい)は「御しやすい」と判断。朝廷に上書し、益州刺史に推薦する。
・朝廷(李傕の支配下)は、別に益州刺史を任命。劉璋の部将の一部が呼応し、反乱を起こす。劉璋はこれを防ぎ、反乱軍は荊州に敗走。劉璋は趙韙に追撃させる。
朝廷により、益州牧に任じられる。




対張魯
・かつて、漢中の張魯は劉焉に恭順。しかし、劉璋の時代になると、張魯は命令を聞かなくなる。劉璋は、配下の龐義(ほうぎ)を遣わし、張魯を攻撃する。しかし、なかなか勝利は得られず。(漢中は険阻な地。)

・巴郡を四つの郡に分割し、国境の態勢を整える。
・張魯は、巴西郡(元巴郡の北西部)に手を伸ばす。劉璋は、龐義を巴西太守に任じ、張魯に対抗させる。


・劉璋は龐義とは昔馴染み。自分の子を救われたこともあり、常々恩義を感じており、しばしば厚遇する。その結果、龐義は増長し、専横を振るう。両者は険悪な仲となり、緊張状態が発生。(劉璋は、必ずしも寛容な性格ではない。)




益州の情勢
・度々恩赦を行い、規律が緩んだとされる。
・東州派閥が横暴になり、領民を圧迫する。(東州派閥とは、かつて劉焉が取り立てた外来勢力。)劉璋はこれを統制できず、領民は劉璋を恨む。(東州派閥は、劉璋政権の中核だが、実際は両刃の剣だった。)


・趙韙が人心を得ていたため、彼に東州兵を取り締まらせる。しかし、趙韙は豪族を統率して反乱し、劉璋と東州兵を攻撃する。(趙韙自身も、巴西郡の豪族出身。)
・劉璋は成都に籠城し、東州兵と共に防戦。東州兵は趙韙の勢いを恐れ、団結して戦う。結果趙韙は撃破され、配下の将に殺害される。(劉璋にとっては、二度目の反乱鎮圧。「三国志演義」のイメージとは異なり、益州はそれほど平穏な地ではなく、劉璋は苦闘を重ねている。)


・董和(とうか)を成都(首都)の県令に任じる。当時、権勢者たちが横暴だったが、董和は公平な法をもって治める。権勢者たちは不満を持ち、劉璋に対し、董和の転任を求める。劉璋は一度同意したが、民が大挙して残留を求めると、在任を二年延長させる。(的確な判断。)




益州失陥
・漢中では、張魯が勢威を持つ。また、曹操が華北を支配。いずれも、劉璋にとって脅威。劉璋は、劉備を益州に招き、国防の助けとする。配下の黄権、王累が諫めたが、劉璋は聞かない。一方、配下の張松は劉備と内通し、法正も劉備の元に去る。劉璋は後に、張松を誅殺し、劉備との関わりを断つ。

・劉備が反逆を開始する。州の各地で、劉璋の部下達が呼応。(劉璋への反発というより、東州派閥への反発。)しかし、劉循(劉璋の長子)、張任らが雒(らく)城で粘る。
・劉備は雒城を落とし、成都に迫る。鄭度(劉璋の部下)が進言する。「民を移動させ、土地を焼き払い、敵の収奪を防ぎましょう。敵はいずれ、兵糧がなくなります。」劉璋は却下する。「敵を防いで民を安んじるという話は聞くが、民を移して敵を避けるなど、聞いたことがない。」


・成都の城には、兵三万、糧食が一年分。「官も民も一致団結し、徹底抗戦の気構えだった」と記される。(これを見る限り、成都には、(東州派閥以外にも)劉璋の支持者が結構いた。)
・しかし、劉璋は降伏を決める。「我々親子は、二十年以上州を治めてきたが、民に恩徳を施してはいなかった。その上、三年に渡り抗戦し、戦禍に巻き込んでしまった。」

公安太守に任じられ、荊州に移る。
・後に孫権が荊州を支配し、劉璋はその配下に入る。孫権により、益州牧に任じられたが、ほどなく病死する。


陳寿は劉璋を評して言う。「雄才がないにも関わらず、分不相応な地位にいた。他人に狙われ奪われたのは道理。」
・史家の張璠は言う。「無道の君主ではなかった。張松と法正こそ罪人である。」




劉焉 張魯 劉備


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