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リョウカ ゲンケン
廖化 元倹
  
~忠義の良臣~

 蜀の将。初め関羽の秘書を務め、後に諸葛亮の補佐役となる。その後、姜維の片腕として活躍。しかし、度重なる北伐に対し、次第に疑問を抱く。



初期
・荊州の襄陽郡出身。元の名は淳。果敢な烈士として知られる。
・関羽(当時襄陽太守)の主簿となる。(恐らく、そこそこの家柄。)

・呉が蜀を裏切り、関羽を討伐する。関羽の死後、廖化は呉に帰服。
・しばらくのち(一年半後)、蜀に戻ることを考える。まず、自分が死んだという噂を流し、身を隠す。秘かに呉を出発し、老母を背負い、昼夜兼行で蜀に向かう。劉備はこのとき、呉に遠征する途中だったが、廖化はこれと合流。
・劉備は、再会して喜ぶ。廖化は劉備により、宜都郡(荊州)の太守に任じられる。(宜都郡は、実際は呉の領地。建前上の任命。)そのまま、行軍に随行する。




重用
・諸葛亮の時代、丞相参軍に任じられる。(丞相は諸葛亮。恐らく、廖化も北伐に随行。)
陰平太守に任じられる。(陰平郡は、益州の最北西。)時期不詳。
・右車騎将軍に任じられる。また、并州(へいしゅう)刺史を兼ねる。(并州は、実際は魏の領地。建前上の任命。)時期不詳。


・蔣琬の時代、魏の羌(きょう)族の軍が、国境地帯に砦を置く。廖化は山上に進軍し、羌族の軍と対する。郭淮(魏の将軍)が、二つの軍を援軍とし、東西から山を攻撃。廖化は、これを各個撃破する。
・かつて蜀では、王平、句扶(こうふ)が将として活躍し、後には張翼、廖化が重用。人々は噂して言う。「前に王平と句扶あり、後(あと)に張翼と廖化あり。」

・姜維の北伐に従う。(蔣琬の時代。)別働隊となり、成重山に城塞を構築。そこに駐屯し、羌族の人質を収容する。(そつなく任務を遂行。)
・魏では、郭淮が事態に対処。諸軍を率い、成重山に急行する。姜維は、廖化の救援に向かう。(別動隊の廖化は、兵力不足。)しかし間に合わず、成重山の城塞は落ち、姜維も撤退する。(郭淮の果断な行動が、姜維にとって誤算。)




憂国
・姜維は鄧艾(魏の将)と攻防するが、大きな戦果は挙がらない。廖化はあるとき、周りにこう語る。「春秋左氏伝に、『戦争とは火のようなものだ。やめなければ己の身を焼く』とある。これは、今の事態に当てはまる。知略で相手に勝っていない上、兵の数で負けている。このまま続けて、何の益があるのか。」

・同僚の宗預共々、70歳を過ぎても現役で働く。あるとき、諸葛瞻(しょかつせん。諸葛亮の子)に拝謁に行こうとする。宗預は「我々の歳で何を求めるのか」と言い、行かず。


・鍾会(魏の将)が蜀に侵攻し、剣閣に到着する。廖化は、姜維に従い、剣閣の守備に当たる。(張翼も、姜維の指揮下。)やがて、鍾会は兵糧が尽き、撤退を考える。しかし、鄧艾が成都(蜀の首都)に進軍し、劉禅(蜀の帝)は降伏。
・宗預共々、洛陽移住を命じられる。二人共、途中で死去する。
・ 廖化の伝記は、宗預伝に付属する形で存在。陳寿による評はなし。




姜維 王平 廖化 張翼


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