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文帝と景帝 ~変革期~

 前漢の前期、貨幣経済が発達し、貧富の差が拡大。
 文帝と景帝は、これに徹底して対処します。



文帝即位
 文帝は第五代皇帝で、即位は紀元前180年。元々は藩国の王。朝廷の政変の結果、帝位に上った。
 この文帝は、「黄老思想」を好んだとされる。即ち道教。(「黄」とは、黄帝(伝説上の帝)を指す。「老」は老子。)文帝は王朝の動乱を見て育ち、「無為自然」に真実を見出したのだろう。


 文帝が即位した頃、世の中は変動期。まず、農具の進化により、農産物が増加。十分な余剰物が発生し、商業が活発になった。
 しかし、貨幣経済の発達により、新たに社会問題が発生する。(「漢書」食貨志に詳しい記述あり。)商人は取引相手として、豪族を優先。豪族たちは貨幣を得ると、工芸者から嗜好品を買い、日々を楽しんだ。

 結果、貨幣はなかなか、一般の農民に回ってこない。一方、納税は田租を除き、多くが貨幣による。彼等農民は、商人から高利で貨幣を借り、それをもって納税する。返済が困難な場合は、土地や子を売ることで行った。
 社会はもはや、まともに機能していない。文帝は事態を知ると、直ちに改善に取り組む。




文帝の政策
 文帝はまず、租税・賦役を減らした。最も恩恵を受けるのは、国の基盤である小農民。
 また、農村にまとめ役を設置した。目的は、共同体の強化、相互扶助の整備だろう。
 世の中は次第に、農民中心の社会に回帰。

 文帝はまた、ある部下の進言を受け、特別な政策を行う。それは、「官に穀物を納めた者には、その量に応じ、爵位を与える」というもの。
 その結果、豪族は、農民から穀物を買い上げる。農民は、納税のために借金する必要が減り、身を保てるようになった。貧富の差も縮小。(なお、爵位は権威付けになり、社会上の優位をもたらす。労役の軽減もあり。)
 この政策は、要するに、「豪族達に呼び掛け、経済的利益を社会的・法的利益と交換させる」ということ。巧妙にして、大胆な方法だった。


 なお、商業の台頭は、本来なら社会の発展。農村の拡張は、ある意味、時代の逆戻りとも言える。しかし、それによって、救民が実現された。
 当時の漢人には、商業活動に必要な倫理・心構えが欠如。そのため、一度農耕社会に戻すことは、妥当な方針だっただろう。(商人たちにとっては、自業自得。)

 そもそも、漢人には即物主義、利己主義が根付いている。(これは定説。)一方では、精神主義の文化があるが、当時は衰退していた。
 農耕に従事する者が増えれば、自ずと共同体が重んじられ、利己主義は抑制される。また、他者と利を争う代わりに、内省的になり、且つ互いを尊重する。(精神性の回復。)これは、儒家・道家が共に理想とした社会。(文帝は道家であった。)




景帝の時代
 紀元前157年、文帝の子・景帝が即位する。
 景帝は、文帝の方針を継承・拡大。即ち、重農抑商を徹底し、世に行き渡らせる。文帝の始めた改革は、景帝の時代に完成した。
 両皇帝の治世は、合わせて「文景の治」と呼ばれる。

 文帝・景帝には、思想や信念あり。彼等はいずれも、道教を重んじた。その基本は、「自然の摂理に則し、気力を蓄える」というもの。
 彼等は為政の際、厳格な統制、締め付けは避ける。代わりに、じっくり民力を養成することとする。(そのために、共同体の体制を推進。人々は争いにエネルギーを使わず、日々精進できる。)
 また、当時異民族が強盛だったが、文帝、景帝は無理な外征をせず、国内の統治に専念した。


 他にもう一つ、諸侯の問題が存在。(劉邦の時代から、王朝の内患。)この頃の諸侯は、主に皇族なのだが、基本的に中央集権を妨げる。(また、既に世代が進んでおり、本家との血縁は濃くない。)文帝は、諸侯問題を後回しにしたが、景帝は手を付けた。

 景帝はしばしば、国(藩国)の領土削減を実行。(国の支配者は諸侯。)これはいささか、急だったらしい。紀元前154年、諸侯たちが反乱を起こす(「呉楚七国の乱」)。
 諸侯の軍は大軍で、朝廷は騒然となる。しかし、諸侯の足並みは揃わず、意外に早く鎮圧される。(漢の将軍・周亜夫が活躍。)
 とはいえ、一時、国家の危機だったのは間違いない。

 景帝はその後、国ごとに相(しょう)を設置。この相は統治者であり、郡の太守に相当する。諸侯は、己の国から税収を得るのみ。
 こうして、中央集権が強化され、事は結果的に成功した。




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