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秦末の混乱から、前漢の当初を要約します。
中国史上、激動期の一つです。
劉邦は故郷時代、家業(農地の運営)は真面目にやらず、任侠集団を統率。活動の詳細は不明だが、要するに、法で割り切れない世界を仕切っていた。やがて、亭長(役場の長)になったが、仕事ぶりは適当だったという。(メインは任侠活動。)
また、よく酒場に入り浸り、まともに支払いをせず。しかし劉邦が来ると、いつも人が集まり、すぐ満席になった。そのため酒場の主人は、あえて劉邦のタダ酒を許したという。
劉邦は豪放な性格で、規範、形式にこだわらない。漢人社会は建前を重んじ、人々を制約するが、劉邦は常々自由に振舞う。(それが許される、天性の人間性があった。)その結果、多くの人々から人気を得た。
紀元前221年、秦国は統一を完了し、秦王朝が始まる。首都は咸陽(かんよう)で、長安の北西に位置。
趙政は、「始皇帝」を名乗る。始皇帝は、重厚な法制を敷き、中央集権を実現させる。従来の封建社会を取り壊し、合理主義の時代を築いた。(大きな転換。)
しかし、秦の統治は、基本的に過酷だった。労役が多い上、常に法のみが重視される。結果、民心はあまり得られず。
紀元前210年、始皇帝は死去。子の胡亥(こがい)が跡を継ぐ。宦官(かんがん)の趙高が実権を握り、圧政を行った。
紀元前209年、陳勝・呉広の乱が起こる。同年、項梁・項羽が挙兵する。(項梁は楚の名族、項羽は項梁の甥。また、項羽の「羽」は字(あざな)で、姓名は項籍。)そして、同じ頃、劉邦も行動を開始する。
あちこちで、秦軍との攻防が続く。やがて、項羽、劉邦がそれぞれ台頭する。項羽は勇将。劉邦は、「兵の将」より「将の将」として優れていた。
胡亥は、暗君として知られる。その人となりは、詳しく記されない。とにかく、育った環境(趙高の存在)が悪すぎた。
その後、趙高は子嬰(しえい)を秦王に擁立。(子嬰は皇族で、胡亥の甥とされる。)皇帝は空位となる。
趙高は続いて、劉邦に付こうとしたが、劉邦はこれを無視。趙高はまもなく、子嬰に殺害される。宦官は得てして、現実主義で、権力欲、利己性が強い。(宦官になる動機の多くは、貧困から逃れ、富貴を得るため。倫理にこだわる余裕はない。)趙高は中でも度を越し、結局は失敗を招いた。
紀元前206年、劉邦は子嬰を降伏させ、秦は滅亡する。
秦は中国史上、初の中央集権国家。しかし、時代を急激に変え過ぎ、自ずと強引さを伴った。(また、趙高の台頭が、王朝にとって致命的だった。)
勿論、三条だけでは、実際は事足りない。劉邦は、複雑な法の代わりに、「人治」を多用したのだろう。つまり、領主や官吏が、己の裁量で揉め事を処理。(これは、漢人の政治の伝統。)
劉邦の立場は、まだ万全ではない。やがて、項羽が優位に立つ。劉邦は項羽により、「漢王」に任じられ、漢中赴任を命じられる。(紀元前206年。)劉邦はこの地で、秘かに再起を窺った。
同年、斉国が項羽に敵対する。(これが、「楚漢戦争」の始まりとされる。)紀元前205年、劉邦は機を捉え、項羽と抗争を再開する。劉邦はまず、関中を制圧した。
その後、項羽が一時優勢に立ったが、次第に人望を失う。項羽は生来、争いの世界で生き、身近な者しか信任しない。そして、古参以外は冷遇した。
紀元前203年、劉邦は項羽と和睦したが、結局破棄を決める。項羽軍の背後を襲い、これを撃破。紀元前202年、「垓下(がいか)の戦い」において、劉邦は最終勝利を収める。項羽は自害。
なお、劉邦の元には、策謀家の張良・陳平、政務官の蕭何(しょうか)、名将の韓信らがいた。韓信は項羽の部下だったが、劉邦が漢王になった頃、項羽を捨て劉邦に帰順。
紀元前202年、劉邦は漢王朝を開く。後世、「前漢」と呼ばれる。首都は長安に置かれた。
また、劉邦は歴史上、「高祖」と呼ばれる。これは、「廟号」というもので、皇帝が死後に贈られる名前。
なお、漢という名称は、劉邦が漢王だったことに由来する。劉邦は己の漢中時代に対し、強い思い入れがあったのだろう。
前者は、全土を「郡」で区分けし、その下に「県」を置く。そして、朝廷が任じた長官が、郡を統治する。(即ち、中央集権体制。)
一方、後者は、全土を「国」(藩国)で区分けする。そして、諸侯(王や公)が、国を統治する。彼等は世襲。
劉邦は、首都(長安)の近辺を郡県制、遠方を封建制とした。
もし秦の体制のみを取れば、民に受け入れられない。一方、封建制のみを取れば、戦国時代(秦の時代の一つ前)が再来する可能性がある。そこで、劉邦は、一番無難な施策を取った。
劉邦自身の心情としては、どんな体制を望んでいたのか。少なくとも、封建制ではなかったと思われる。
中国の封建制では、皇族・功臣が地方領主を務め、世襲される。周の全盛期、領主たちは、(領内に連なる)農村共同体をしっかり統治。領民は皆、充足した日々を送ったとされる。後世の儒家たちは、この時代を理想とし、しばしば封建制を支持した。
儒家が理想とする封建制は、まず、(儒教的倫理から成る)共同体社会を基本としている。また、封建領主が代々、(教育をもって)徳を受け継ぐことが想定される。
しかし、劉邦は元々は、任侠集団のリーダー。儒家が考える共同体体制(堅い倫理・規範の上で成り立つ)は、基本的に性に合わない。
また、封建領主の徳が、代々保たれるとは限らない。現実主義者の劉邦は、それを認識していただろう。
劉邦はそもそも、頭領として、自由に裁量することを好む。当然、儒家たちが望む封建制(諸侯と自律的共同体から成る)より、中央集権体制を望んだと思われる。
劉邦は韓信を位下げし、その領土を没収する。韓信は少しのち、兵を挙げて反乱。しかし、蕭何(しょうか)が策を巡らせ、韓信を殺害する。劉邦はその頃、匈奴討伐のため、遠方の地にいた。帰還後、韓信の死を知り、嘆いたという。
劉邦はその後も、一族以外の諸侯に対し、しばしば位下げを行う。また、反乱されたり、その疑いがあれば誅滅する。そうして、異姓の諸侯を順に排除。一族の者を代わりに起用し、国家の体制を整えた。
劉邦は、かつては人徳の人だったが、この頃は既に変貌。任侠集団を率いていた頃に比べ、複雑な政治力学が存在し、劉邦自身変わらざるを得なかった。これ自体は、ある程度必然だと思われる。しかし、判断力に狂いが生じていたことも、恐らく間違いない。
政務官の蕭何は、諸侯ではなかったが、やはり疑いを持たれる。蕭何はそこで、あえて悪政を行い、自ら評判を落とす。それによって、劉邦の警戒を解いた。
一方、叔孫通(しゅくそんとう)という人物あり。元々は胡亥(秦の二代目皇帝)に仕えていたが、後に項羽の部下となり、やがて劉邦に帰順。
この叔孫通は、儒者だったが、あまり規範にこだわらない。柔軟、現実的な性格で、常々、事の本質を捉えようとする。劉邦は基本的に、儒教を好まなかったが、叔孫通を気に入って重用した。
漢王朝成立後、叔孫通は儀礼を定め、帝室の威儀を整える。儀礼の内容は、簡略だが要を得たもの。これによって、臣下は態度を慎むようになり、劉邦は「私は初めて、皇帝の尊さを知った」と喜んだ。その後も、叔孫通は、劉邦の相談役として活躍。
劉邦は即位して以来、王朝の基礎固めに尽力。非情な行動もあったが、体制は一通り盤石になる。
紀元前195年、劉邦は死去する(62歳)。子の劉盈(りゅうえい)が跡を継いだ。(恵帝。)
呂后は権力欲が強く、政敵を次々殺害する。恵帝は呂后の横暴を制止できず、次第に酒に溺れ、病にかかって死去。
呂后は、国政は無難にこなしたが、宮廷では終始暴虐を行う。呂后の死後、陳平らが、呂氏一族を誅滅する。
その後、陳平らは、呂氏が立てた帝(四代目)を廃する。新しい皇帝として、文帝を立てた。(紀元前180年。)
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劉邦の活躍 ~漢王朝開始~
文帝と景帝 ~変革期~
武帝登場 ~最盛期~
派閥抗争 ~騒乱期~
王莽の時代 ~「新」王朝成立~
王莽の人格性 ~善人か悪人か~
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劉邦の活躍 ~漢王朝開始~
秦末の混乱から、前漢の当初を要約します。
中国史上、激動期の一つです。
劉邦誕生
劉邦は、紀元前256年の生まれ。字(あざな)は季と言う。沛県の豪族(有力農民)の出身。(沛県は、中国東部に位置。)当時、各地に独立国があり、一般に戦国時代と呼ばれる。
劉邦は故郷時代、家業(農地の運営)は真面目にやらず、任侠集団を統率。活動の詳細は不明だが、要するに、法で割り切れない世界を仕切っていた。やがて、亭長(役場の長)になったが、仕事ぶりは適当だったという。(メインは任侠活動。)
また、よく酒場に入り浸り、まともに支払いをせず。しかし劉邦が来ると、いつも人が集まり、すぐ満席になった。そのため酒場の主人は、あえて劉邦のタダ酒を許したという。
劉邦は豪放な性格で、規範、形式にこだわらない。漢人社会は建前を重んじ、人々を制約するが、劉邦は常々自由に振舞う。(それが許される、天性の人間性があった。)その結果、多くの人々から人気を得た。
秦の成立~反乱発生
諸国の中で、秦国が次第に台頭。秦王は趙政。紀元前221年、秦国は統一を完了し、秦王朝が始まる。首都は咸陽(かんよう)で、長安の北西に位置。
趙政は、「始皇帝」を名乗る。始皇帝は、重厚な法制を敷き、中央集権を実現させる。従来の封建社会を取り壊し、合理主義の時代を築いた。(大きな転換。)
しかし、秦の統治は、基本的に過酷だった。労役が多い上、常に法のみが重視される。結果、民心はあまり得られず。
紀元前210年、始皇帝は死去。子の胡亥(こがい)が跡を継ぐ。宦官(かんがん)の趙高が実権を握り、圧政を行った。
紀元前209年、陳勝・呉広の乱が起こる。同年、項梁・項羽が挙兵する。(項梁は楚の名族、項羽は項梁の甥。また、項羽の「羽」は字(あざな)で、姓名は項籍。)そして、同じ頃、劉邦も行動を開始する。
あちこちで、秦軍との攻防が続く。やがて、項羽、劉邦がそれぞれ台頭する。項羽は勇将。劉邦は、「兵の将」より「将の将」として優れていた。
秦の滅亡
趙高は胡亥に対し、反乱の実態を隠す。統治が軌道に乗っていると思わせ、自らの権勢を保っていた。しかし、隠し切れなくなり、胡亥を自殺に追い込んだ。胡亥は、暗君として知られる。その人となりは、詳しく記されない。とにかく、育った環境(趙高の存在)が悪すぎた。
その後、趙高は子嬰(しえい)を秦王に擁立。(子嬰は皇族で、胡亥の甥とされる。)皇帝は空位となる。
趙高は続いて、劉邦に付こうとしたが、劉邦はこれを無視。趙高はまもなく、子嬰に殺害される。宦官は得てして、現実主義で、権力欲、利己性が強い。(宦官になる動機の多くは、貧困から逃れ、富貴を得るため。倫理にこだわる余裕はない。)趙高は中でも度を越し、結局は失敗を招いた。
紀元前206年、劉邦は子嬰を降伏させ、秦は滅亡する。
秦は中国史上、初の中央集権国家。しかし、時代を急激に変え過ぎ、自ずと強引さを伴った。(また、趙高の台頭が、王朝にとって致命的だった。)
前漢成立
劉邦は、秦を打倒したあと、滞在地で「法三章」を掲げる。即ち、「人を殺した者は死刑」「人を傷つけた者は処罰」「盗みをした者は処罰」。秦の煩雑な刑法を廃し、三条だけとした。これにより、大いに民心を得たという。勿論、三条だけでは、実際は事足りない。劉邦は、複雑な法の代わりに、「人治」を多用したのだろう。つまり、領主や官吏が、己の裁量で揉め事を処理。(これは、漢人の政治の伝統。)
劉邦の立場は、まだ万全ではない。やがて、項羽が優位に立つ。劉邦は項羽により、「漢王」に任じられ、漢中赴任を命じられる。(紀元前206年。)劉邦はこの地で、秘かに再起を窺った。
同年、斉国が項羽に敵対する。(これが、「楚漢戦争」の始まりとされる。)紀元前205年、劉邦は機を捉え、項羽と抗争を再開する。劉邦はまず、関中を制圧した。
その後、項羽が一時優勢に立ったが、次第に人望を失う。項羽は生来、争いの世界で生き、身近な者しか信任しない。そして、古参以外は冷遇した。
紀元前203年、劉邦は項羽と和睦したが、結局破棄を決める。項羽軍の背後を襲い、これを撃破。紀元前202年、「垓下(がいか)の戦い」において、劉邦は最終勝利を収める。項羽は自害。
なお、劉邦の元には、策謀家の張良・陳平、政務官の蕭何(しょうか)、名将の韓信らがいた。韓信は項羽の部下だったが、劉邦が漢王になった頃、項羽を捨て劉邦に帰順。
紀元前202年、劉邦は漢王朝を開く。後世、「前漢」と呼ばれる。首都は長安に置かれた。
また、劉邦は歴史上、「高祖」と呼ばれる。これは、「廟号」というもので、皇帝が死後に贈られる名前。
なお、漢という名称は、劉邦が漢王だったことに由来する。劉邦は己の漢中時代に対し、強い思い入れがあったのだろう。
劉邦の時代1
劉邦(高祖)は、「秦の郡県制」と「秦以前の封建制」を、バランスよく取り入れた。前者は、全土を「郡」で区分けし、その下に「県」を置く。そして、朝廷が任じた長官が、郡を統治する。(即ち、中央集権体制。)
一方、後者は、全土を「国」(藩国)で区分けする。そして、諸侯(王や公)が、国を統治する。彼等は世襲。
劉邦は、首都(長安)の近辺を郡県制、遠方を封建制とした。
もし秦の体制のみを取れば、民に受け入れられない。一方、封建制のみを取れば、戦国時代(秦の時代の一つ前)が再来する可能性がある。そこで、劉邦は、一番無難な施策を取った。
劉邦自身の心情としては、どんな体制を望んでいたのか。少なくとも、封建制ではなかったと思われる。
中国の封建制では、皇族・功臣が地方領主を務め、世襲される。周の全盛期、領主たちは、(領内に連なる)農村共同体をしっかり統治。領民は皆、充足した日々を送ったとされる。後世の儒家たちは、この時代を理想とし、しばしば封建制を支持した。
儒家が理想とする封建制は、まず、(儒教的倫理から成る)共同体社会を基本としている。また、封建領主が代々、(教育をもって)徳を受け継ぐことが想定される。
しかし、劉邦は元々は、任侠集団のリーダー。儒家が考える共同体体制(堅い倫理・規範の上で成り立つ)は、基本的に性に合わない。
また、封建領主の徳が、代々保たれるとは限らない。現実主義者の劉邦は、それを認識していただろう。
劉邦はそもそも、頭領として、自由に裁量することを好む。当然、儒家たちが望む封建制(諸侯と自律的共同体から成る)より、中央集権体制を望んだと思われる。
劉邦の時代2
劉邦は、功臣達を諸侯に任じたが、内心では警戒する。また、中央集権実現のために、彼等の存在は邪魔になる。劉邦は韓信を位下げし、その領土を没収する。韓信は少しのち、兵を挙げて反乱。しかし、蕭何(しょうか)が策を巡らせ、韓信を殺害する。劉邦はその頃、匈奴討伐のため、遠方の地にいた。帰還後、韓信の死を知り、嘆いたという。
劉邦はその後も、一族以外の諸侯に対し、しばしば位下げを行う。また、反乱されたり、その疑いがあれば誅滅する。そうして、異姓の諸侯を順に排除。一族の者を代わりに起用し、国家の体制を整えた。
劉邦は、かつては人徳の人だったが、この頃は既に変貌。任侠集団を率いていた頃に比べ、複雑な政治力学が存在し、劉邦自身変わらざるを得なかった。これ自体は、ある程度必然だと思われる。しかし、判断力に狂いが生じていたことも、恐らく間違いない。
政務官の蕭何は、諸侯ではなかったが、やはり疑いを持たれる。蕭何はそこで、あえて悪政を行い、自ら評判を落とす。それによって、劉邦の警戒を解いた。
一方、叔孫通(しゅくそんとう)という人物あり。元々は胡亥(秦の二代目皇帝)に仕えていたが、後に項羽の部下となり、やがて劉邦に帰順。
この叔孫通は、儒者だったが、あまり規範にこだわらない。柔軟、現実的な性格で、常々、事の本質を捉えようとする。劉邦は基本的に、儒教を好まなかったが、叔孫通を気に入って重用した。
漢王朝成立後、叔孫通は儀礼を定め、帝室の威儀を整える。儀礼の内容は、簡略だが要を得たもの。これによって、臣下は態度を慎むようになり、劉邦は「私は初めて、皇帝の尊さを知った」と喜んだ。その後も、叔孫通は、劉邦の相談役として活躍。
劉邦は即位して以来、王朝の基礎固めに尽力。非情な行動もあったが、体制は一通り盤石になる。
紀元前195年、劉邦は死去する(62歳)。子の劉盈(りゅうえい)が跡を継いだ。(恵帝。)
恵帝・呂后の時代
二代目皇帝の恵帝は、元来常識人。思いやりのある人物。しかしまだ若年で、母の呂后が専横した。(外戚政治。)呂后は権力欲が強く、政敵を次々殺害する。恵帝は呂后の横暴を制止できず、次第に酒に溺れ、病にかかって死去。
呂后は、国政は無難にこなしたが、宮廷では終始暴虐を行う。呂后の死後、陳平らが、呂氏一族を誅滅する。
その後、陳平らは、呂氏が立てた帝(四代目)を廃する。新しい皇帝として、文帝を立てた。(紀元前180年。)
劉邦の活躍 ~漢王朝開始~