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後漢1


汝南袁氏
 袁紹と、その従弟の袁術は、「汝南袁氏」という家系に属する。
 この一族は、豫(よ)州の汝南郡に居住。
 汝南郡は、首都圏の付近(南東)にあり、人口も多い。


 汝南袁氏は、後漢の中期(政争の時代)、朝廷で次第に台頭した。
 儒家貴族に類するが、基本的に柔軟。政治力学に長け、来る者は拒まず、多方面から支持を得る。
 袁紹、袁術もこの家風を受け継ぎ、各々、巧みに派閥を作っていった。




何進の配下
 何進が都(洛陽)で権勢を持っていた頃、その元には多様な人物がいた。
 まず、袁紹、袁術、劉表の三者。そして、荀攸、逢紀、陳琳、蒯越(かいえつ)、韓遂、華歆・・・。
 また、曹操も同じ頃、朝廷に仕えている。
 彼等の多くは、互いに面識を持ったと思われる。


 蒯越は後に、劉表から参謀を任され、重宝される。その後、曹操の配下に入り、厚遇を受ける。




宦官打倒
 何進は宦官と対立したが、決定的な手は打たない。
 そこで袁紹は、宦官打倒を推し進めるため、董卓らを都に呼ぶことを提案。何進の同意を得る。
 その後宦官は滅びたが、董卓が都に来たことで、動乱の時代が訪れた。

 しかし、董卓らを呼ばなければ、何進は宦官と和解していた可能性もある。そうなれば、宦官たちは、次にどんな行動に出ていたか分からない。
 袁紹が董卓らを招いたのは、宦官の手ごわさを、十分認識していたということでもある。
 また、「宦官に比べれば、董卓はまだ話が通じる」と考えたのかも知れない。しかし、その見通しは甘かった。





袁紹の領地
 袁紹は河北(黄河の北)にあって、随一の勢力を築く。その経緯と、具体的な領地についてまとめてみる。


 袁紹は都を去ってのち、渤海太守に任じられ、南皮県に着任。続いて、冀州牧となり、魏郡の鄴(ぎょう)県に移った。
 その後、公孫瓚(幽州の群雄)が冀州を侵略したが、袁紹は徐々にこれを駆逐。長い抗争を制し、遂に討ち滅ぼす。

 また、袁紹は袁譚を青州刺史とし、平原県(平原国所属)に送り込む。当時、袁譚の実質的な領地は、平原国(州の西端)のみ。そこで、袁譚は田楷・孔融(いずれも地方領主)を撃退し、州の西部を全て支配下に置いた。
 一方、青州東部は、曹操配下の臧覇(ぞうは)が支配。

 袁紹はまた、袁煕を幽州刺史に任じる。州の東部は、公孫度の勢力圏。(なお、公孫瓚の同族ではない。)
 また、高幹を并(へい)州刺史に任命。州の西部では、異民族が幅を利かせる。

 以上から、袁紹の領地は、冀州全土、幽州西部、并州東部、青州西部ということになる。




袁紹と袁術
 袁紹は、袁術より人望があったが、時々独善性が目立つ。
 例えば、「周りの反対を聞かず、董卓を都に呼び寄せる」、「嫌がる劉虞を無理やり即位させようとする」などの行動がある。
 袁術の方は、適当な性格だが、その分柔軟さはあったかも知れない。


 また、袁術は驕慢とされるが、人物や物事を素直に認める面あり。
 例えば孫策、周瑜、魯粛を気に入り、袁渙には存分に礼を尽くした。(袁渙は道理を重んじ、直言する人物だったが、袁術は遠ざけず。)
 一方の袁紹は、常々人格者として振舞ったが、優れた部下を煙たがる面もある。史書の記述を見る限り、助言を聞かないことが多かった。




袁紹の治世
 荀攸(曹操の参謀)は、「袁紹は寛(寛容)と厚(厚情)をもって人心を得ていた」と発言。別のとき、郭嘉(曹操の参謀)は、「袁紹は民と夷(蛮族)に恩があった」と言っている。(ここでの「民」は、豪族と一般民、両方を指すだろう。)
 袁紹は、領地をしっかり治めていたらしい。

 また、以下のような民間伝承がある。(時期は、曹操が鄴県(冀州の首都)を落とした直後。袁紹は既に病で死去。)
 「曹操は袁紹を打ち負かし冀州に入ったが、冀州の人は彼に心を売り渡しはしなかった。冀州の人のうち、あるものは喪に服し、ある者は声を上げて泣き、ある者は街に出て袁紹のために葬送した。(中略)曹操は言った。『我々も、麻を被って喪に服し袁紹のために葬送しよう。』(中略)冀州の民衆は曹操に帰順する気になった。」(「三国志 中国伝説の中の英雄」より。)  


 一方、袁紹が曹操と開戦する前、沮授と田豊(袁紹の参謀)はこう発言。「連年の軍事行動で、領内は疲弊している。」そして、国力の回復を説き、防備の重視を勧めている。(袁紹は却下。)
 袁紹は恐らく、仁政を敷いていたが、一方では、野心家の群雄。時代の動乱に、一役買っていたのは事実。一概な評価はできないと思われる。




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