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武帝登場 ~最盛期~

 前漢の中期、武帝が即位。中央集権を強化し、匈奴ら異民族を制します。
 その一方で、国力は疲弊したとされます。



対諸侯
 紀元前141年、七代皇帝・武帝が即位する。姓名は劉徹という。
 武帝は、活動的な性格。常に現実路線を取る。文帝・景帝と異なり、特定の思想には傾倒せず。


 武帝はまず、藩国の分割縮小を行い、中央集権を強化する。藩国とは諸侯の領国のことで、当時の諸侯は主に皇族。
 この分割は、「一族の多くの者に、一国を与える」という名目で実行。そのため、「推恩の令」と呼ばれる。これによって、小さな藩国が林立する形となり、強大な藩国は減っていく。

 王朝の力は、景帝の時代を経て、盤石になっている。実力と名目が揃っていたら、諸侯も従わざるを得ない。




対異民族
 武帝が即位するまで、漢王朝は長らく、国内の統治に専念。匈奴に対し下手に出て、争いを避けてきた。(匈奴は遊牧民族で、略奪を好む。)
 武帝は、匈奴の討伐を、大々的に実行する。まず衛青が功を挙げ、続いて、その甥の霍去病(かくきょへい)が活躍。いずれも外戚だが、衛青は元は貧しい育ち。(姉が後宮入りし、取り立てられた。)
 この両者の成功により、漢(前漢)の権威は一気に高まった。

 一方、南方の南越国も、漢王朝と微妙な関係。(南越国は、(複数の)異民族が治めている。)
 漢王朝は当時、冊封(さくほう)体制を取っていた。これは、「服従させつつ、独立的統治を認める」という形態。
 彼等の中に、王朝への反発が生じたため、武帝は討伐を実行する。やがて、南越国を降し、九つの郡に分割した。


 武帝はこうして、帝国の版図を拡大。卓越した実行力の持ち主。(また、衛青らを抜擢するなど、人材起用に長けていた。)但し、自ら出征したことはない。基本的に都にあって、作戦計画を練っていた。




西域進出
 当時、張騫(ちょうけん)という人物あり。出身は漢中郡(長安の西)。
 武帝は匈奴討伐を考えた際、西方の国「大月氏」と同盟するため、この張騫を派遣した。(張騫自ら志願。)
 張騫は途中、匈奴により抑留され、厚遇を受ける。十余年ののち脱出し、西方の各地を渡り歩く。
 やがて大月氏に着いたが、同盟は不成功。後に、再び匈奴に抑留され、一年後に脱出する。


 張騫は漢帝国に帰還すると、西域(さいいき)の貴重な情報をもたらす。また、その数奇な運命は、多くの人を驚かせただろう。
 その後、武帝は西域経営に乗り出し、交易も盛んになる。(漢帝国の一つの転機。)




財政改革
 武帝の時代、漢王朝は躍進。その反面、外征の連続で、国力は疲弊する。武帝は、文帝・景帝と比べ、民力という観点が欠けていた。
 武帝は財政改革をもって、国を立て直そうとする。桑弘羊(そうこうよう)という能吏を起用し、塩と鉄を専売させる。また、桑弘羊は「均輸法」と「平準法」を提案。
 これらは、かなりの成功を収め、国庫は潤ったという。

 均輸法は、各地域において、豊富で安価な物資を買い取る。それらを、不足している地域に高値で転売。これによって、地域間の価格差を是正し、同時に国が利益を得た。
 勿論、価格差が是正されたら、転売の利益は減る。しかし、是正されるまでの間、国は(正当な名目で)十分に利益を得られる。
 一方、平準法は、価格が下落した際、政府が大量に買い取る。そして、価格が上がったとき売却。価格を安定させつつ、国が利益を得た。


 専売策・均輸法・平準法により、民間の商業活動は抑圧される。(要するに、国が取って代わる。)その結果、商人・豪族は反発し、違反行為に走る。(地方官の一部も、彼等と結託。)武帝はこれに対し、酷吏を用いることで対抗した。(酷吏とは、法に厳しい官吏。)




儒教の尊重
 武帝は、儒家の董仲舒(とうちゅうじょ)を重用。これをもって、儒教が国教となったとされる。(実際に浸透するには、しばらく時間を要した。)
 儒教は「孝」を重視。漢王朝は、官・民の関係にもこれを適用。そうして、王朝の権威を強化した。
 儒教は「礼制」という規範をもって、世に秩序を作り出す。(孝もその一つ。)基本は合理主義であり、武帝の感覚に合っていたのだろう。


 武帝はまた、「郷挙里選」という制度を施行する。(董仲舒の提言による。)これは、新しい官僚登用制度。地方長官が地元の人材を抽出し、朝廷に推挙する。その際、儒教的名声を基準とする。(推挙制度は以前からあったが、基準は明確ではなく、高官が思い思いに行っていた。)

 なお、推挙以外には、名族の子弟を登用する制度あり。これは「任子」と呼ばれる。(哀帝(十二代皇帝)の時代に廃止。)
 他には、招聘という形式があり、柔軟に人材を任用可能。(後漢時代には、この招聘制度も明確化され、「辟召」(へきしょう)と呼ばれた。)


 武帝期の社会情勢は、現実には、酷吏(法を重視)を必要とした。(諸々の経済政策により、商人・豪族は不満を抱き、容易に恭順しない。)儒家官僚は、武帝の時代、重用には至らず。また、重用された場合も、柔軟に法治を織り交ぜた。

 なお、豪族の一部は、「郷挙里選」によって官界に進出。彼等は国家に尽くし、善政を心がける一方で、豪族社会の利益を図った。(後の「塩鉄会議」において、その姿勢は顕著に表れる。参考資料:西嶋定生「秦漢帝国」)


 武帝はまた、都の長安に「太学」(最高学府)を設置。(董仲舒の提言による。)主に儒学を教え、官僚・学者を養成する。
 後漢時代になると、学生の数は増加。太学は以後、明代(の途中)まで存続した。




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