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劉備は、関羽を襄陽太守、張飛を宜都太守に任じる。襄陽郡は、長江の北。宜都郡は、襄陽郡の南に接し、長江の南北に及ぶ。(なお、どちらの郡も、元は南郡の一部。)
当時、襄陽県(襄陽郡の首都)には、楽進(曹操配下の名将)が駐屯。関羽はその南にあって、一帯に睨みを利かせる。(具体的な駐屯地は不明。)一方、宜都郡の首都は、夷道県(長江南)。張飛は、ここに駐屯したと思われる。
関羽、張飛は、位は太守だが、実質は拠点の守将。
一方、荊州刺史は、劉表の子の劉琦。(恐らく公安県に駐在。)基本的にお飾りで、実質の刺史は劉備。(なお、劉琦は荊州の情勢に詳しい。助言役は務めていたかも知れない。)
209年(赤壁戦の翌年)、劉琦が死去すると、劉備は荊州牧に就任する。州の首都は公安県。
また、公安県の一帯を(南郡から)独立させ、公安郡を新設している。
劉備はこの頃、人事に尽力。多くの儒家名士を取り込む。即ち、龐統(ほうとう)、馬良、馬謖、廖立、向朗(しょうろう)ら。(諸葛亮が、彼等のリーダー。)
これをもって、政権の方向性を明確にした。
当時、呉の名将周瑜が、南郡の太守に在任。益州の攻略を画策する。孫権の同意を得ると、遠征の準備を進めたが、途中で病死する(210年)。
その後、魯粛が江陵県に赴任する。(江陵県は、南郡の首都。)周瑜に代わり、諸事を統括。(遠征計画は中止。)また、南郡太守には、程普が就任した。(古参の名将。)
同年、孫権は長沙郡を分割し、新たに漢昌郡を作る。(この漢昌郡は、陸口を含む。)魯粛がその太守に就任。
211年、劉備は関羽を荊州に残し、益州に行軍する。214年、劉備は劉璋(益州牧)を降伏させ、首都成都を制圧する。その後、劉璋を公安太守に任じ、荊州に移転させた。
劉備は益州を固めると、荊州問題に取り掛かる。孫権は建前上、劉備に荊州四郡を貸与。(四郡とは、武陵・長沙・零陵・桂陽。)しかし、実際に平定したのは劉備。
孫権は当面、武陵以外の三郡の返還を求めたが、劉備は拒否する。(正確には、「涼州を取ってから」と返答。)
関羽が劉備の意を受け、国境で睨みを利かせる。関羽は剛直な性格で、何者にも屈しない。一方、江南の人々はファミリー気質で、縄張り意識が強い。当然、一帯は不穏になった。
しかし、魯粛が両者の間に立ち、絶えず関係を取り持つ。魯粛は徐州の出身で、豪族の家の生まれ。高い知性を備え、性格は大らかで、政治センスは抜群だった。
一方、孫権は陸口まで出向き、魯粛は巴丘(長沙郡)に移る。(巴丘は土地名で、下雋(かしゅん)県に属する。下雋県は、益陽県の北東に位置。)
その後、孫権が長沙・零陵・桂陽に役人を送り込み、実効支配を試みる。しかし、関羽は彼等に圧力を加え、全員追い払った。
孫権は、呂蒙に三郡を攻略させる。零陵郡(太守郝普)以外は、ほどなく帰順。呂蒙は泉陵県(零陵郡の首都)に進軍し、虚報を流して降伏させる。かくて、三郡は再び孫権の物となった。
呂蒙の活躍の間、魯粛が、関羽を上手く封じていたと思われる。恐らく、政略、軍略を両方用い、防衛ラインを構築。
その頃、武陵郡では、呉の黄蓋が太守となる。(黄蓋は程普と並び、古参の名将。)
黄蓋は着任後、異民族の反乱を平定し、郡内を安定させる。続いて、隣の長沙郡にも進軍し、反乱した異民族を撃破した。
やがて、魯粛が益陽に駐屯し、関羽と対峙する。関羽は進軍を試みたが、甘寧(呉の将)がこれを牽制した。
その後、関羽と魯粛は会見。互いに幹部のみ引き連れ、各々が短い刀を一本所持。(そのため、この会見は「単刀会」と呼ばれる。)魯粛は根本から道理を説き、関羽を納得させた。
樊城、麦城は城塞。陸口は河口(及びその付近)。他は全て県名。
215年、曹操が漢中の張魯を降伏させる。
劉備は曹操を警戒し、孫権と妥協。江夏・長沙・桂陽は孫権が、南郡・武陵・零陵は劉備が領することとなる。(215年。)
劉備はその後益州に帰り、関羽も江陵県に戻った。
関羽は実質、劉備(荊州牧)の代理。官職は襄陽太守、盪寇(とうこう)将軍。また、劉備から「荊州董督」に任じられている。(劉備が牧の権限の元、設けた役職。董督は都督と同義。)関羽は教養も備え、州をしっかり引き締め、呂蒙から警戒された。
また、麋芳(びほう)が南郡太守として、江陵県に駐在。更に、南の公安県には、士仁が駐在している。(公安県は、公安郡の首都。太守は劉璋だが、実権は士仁。)両県は、長江を挟んでいる。
関羽は、この麋芳、士仁と不和だったという。関羽は気位の高さのため、人心の機微にやや疎かった。
一方、魏の曹仁が樊城を守備。(樊城は、漢水の北の城塞。襄陽郡。)また、南岸の襄陽城(襄陽郡)には、魏の呂常が駐在している。
やがて、宛県(南陽郡の首都)において、侯音(魏の将)が反乱。関羽と通じようとする。(宛県は、樊城の北東。)当時南陽郡では、軍備強化のため、圧政が敷かれていた。(太守は東里袞(とうりこん)という人物。)
侯音の支持者は多く、郡内は混乱に陥る。しかし、曹仁がこれを鎮圧し、その後樊城に帰還した。
まもなく、田豫(でんよ)が南陽太守として赴任。人々をよく慰撫し、郡内に平穏が戻る。
この田豫は、幽州の出身。策謀と人徳の人。少年期、劉備(当時公孫瓚の配下)と交流し、高く評価されたという。結局、劉備に仕える機会はなく、曹操に仕官した。
曹操は、樊城の苦境を見て、于禁(うきん)を援軍とする。(于禁は曹仁と同等の名将。)関羽はこれを知ると、自ら迎撃に向かう。
このとき、関羽の軍は三つ。二城の包囲軍、及び于禁迎撃軍。いずれも、ある程度の大軍と思われる。関羽は豪傑として知られるが、大軍団を統率することもできた。
関羽と于禁は、初めは優劣なく対峙。その内に洪水が発生する。関羽はこれに乗じ、水軍をもって于禁を撃破した。(魏の将は水戦が不慣れ。)
曹操は、関羽に帝を奪われることを恐れ、一時遷都を考える。(当時の都は、豫州潁川郡の許県。)しかし、思い留まり、孫権と結託する。
呉の呂蒙・陸遜が荊州を攻略。(いずれも知将。)関羽は有能だったが、視野はあまり広くない。呂蒙らは巧みに関羽を油断させ、秘かに荊州各地に侵攻した。士仁、続いて麋芳が降伏。
一方、曹操は名将徐晃を遣わし、樊城に向かわせる。他にも援軍を次々送る。関羽は踏み止まろうとしたが、やがて包囲軍を破られ、麦城まで撤退した。(麦城は、江陵の北の城塞。)恐らくこの頃、襄陽の包囲も解いている。
呂蒙は占領地で、殊更に住民を懐柔。それによって、関羽の将兵の戦意を削ぐ。やがて、潘璋(呉の将)が麦城に進軍し、関羽を殺害する(219年)。
孫権は、呂蒙を南郡太守に任じる。また、宜都郡の西部を分離し、新たに固陵郡を作る。潘璋がその太守となった。(なお、漢昌郡は、長沙郡に再統合。)
呂蒙死後、諸葛瑾が南郡太守となる。(諸葛亮の兄。)誠実、堅実な性格で、人格者として知られた。
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1、混乱期 2、劉表の時代 3、変動期
4、関羽と孫権 5、魏晋と呉
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荊州の出来事4 関羽と孫権
地盤固め
劉備の本拠地は公安県。(南郡の南端部。)劉備は、関羽を襄陽太守、張飛を宜都太守に任じる。襄陽郡は、長江の北。宜都郡は、襄陽郡の南に接し、長江の南北に及ぶ。(なお、どちらの郡も、元は南郡の一部。)
当時、襄陽県(襄陽郡の首都)には、楽進(曹操配下の名将)が駐屯。関羽はその南にあって、一帯に睨みを利かせる。(具体的な駐屯地は不明。)一方、宜都郡の首都は、夷道県(長江南)。張飛は、ここに駐屯したと思われる。
関羽、張飛は、位は太守だが、実質は拠点の守将。
一方、荊州刺史は、劉表の子の劉琦。(恐らく公安県に駐在。)基本的にお飾りで、実質の刺史は劉備。(なお、劉琦は荊州の情勢に詳しい。助言役は務めていたかも知れない。)
209年(赤壁戦の翌年)、劉琦が死去すると、劉備は荊州牧に就任する。州の首都は公安県。
また、公安県の一帯を(南郡から)独立させ、公安郡を新設している。
劉備はこの頃、人事に尽力。多くの儒家名士を取り込む。即ち、龐統(ほうとう)、馬良、馬謖、廖立、向朗(しょうろう)ら。(諸葛亮が、彼等のリーダー。)
これをもって、政権の方向性を明確にした。
当時、呉の名将周瑜が、南郡の太守に在任。益州の攻略を画策する。孫権の同意を得ると、遠征の準備を進めたが、途中で病死する(210年)。
その後、魯粛が江陵県に赴任する。(江陵県は、南郡の首都。)周瑜に代わり、諸事を統括。(遠征計画は中止。)また、南郡太守には、程普が就任した。(古参の名将。)
四郡トラブル
210年、江陵は劉備に譲られ、関羽が駐在する。魯粛は陸口(長沙郡)、程普は江夏郡に移った。同年、孫権は長沙郡を分割し、新たに漢昌郡を作る。(この漢昌郡は、陸口を含む。)魯粛がその太守に就任。
211年、劉備は関羽を荊州に残し、益州に行軍する。214年、劉備は劉璋(益州牧)を降伏させ、首都成都を制圧する。その後、劉璋を公安太守に任じ、荊州に移転させた。
劉備は益州を固めると、荊州問題に取り掛かる。孫権は建前上、劉備に荊州四郡を貸与。(四郡とは、武陵・長沙・零陵・桂陽。)しかし、実際に平定したのは劉備。
孫権は当面、武陵以外の三郡の返還を求めたが、劉備は拒否する。(正確には、「涼州を取ってから」と返答。)
関羽が劉備の意を受け、国境で睨みを利かせる。関羽は剛直な性格で、何者にも屈しない。一方、江南の人々はファミリー気質で、縄張り意識が強い。当然、一帯は不穏になった。
しかし、魯粛が両者の間に立ち、絶えず関係を取り持つ。魯粛は徐州の出身で、豪族の家の生まれ。高い知性を備え、性格は大らかで、政治センスは抜群だった。
四郡トラブル2
215年、劉備は、自ら公安県に乗り込む。関羽は南東に進出し、益陽県(長沙郡)に駐屯する。(益陽県は、臨湘県(郡の首都)のすぐ北西。)一方、孫権は陸口まで出向き、魯粛は巴丘(長沙郡)に移る。(巴丘は土地名で、下雋(かしゅん)県に属する。下雋県は、益陽県の北東に位置。)
その後、孫権が長沙・零陵・桂陽に役人を送り込み、実効支配を試みる。しかし、関羽は彼等に圧力を加え、全員追い払った。
孫権は、呂蒙に三郡を攻略させる。零陵郡(太守郝普)以外は、ほどなく帰順。呂蒙は泉陵県(零陵郡の首都)に進軍し、虚報を流して降伏させる。かくて、三郡は再び孫権の物となった。
呂蒙の活躍の間、魯粛が、関羽を上手く封じていたと思われる。恐らく、政略、軍略を両方用い、防衛ラインを構築。
その頃、武陵郡では、呉の黄蓋が太守となる。(黄蓋は程普と並び、古参の名将。)
黄蓋は着任後、異民族の反乱を平定し、郡内を安定させる。続いて、隣の長沙郡にも進軍し、反乱した異民族を撃破した。
やがて、魯粛が益陽に駐屯し、関羽と対峙する。関羽は進軍を試みたが、甘寧(呉の将)がこれを牽制した。
その後、関羽と魯粛は会見。互いに幹部のみ引き連れ、各々が短い刀を一本所持。(そのため、この会見は「単刀会」と呼ばれる。)魯粛は根本から道理を説き、関羽を納得させた。
関羽の時代
215年、曹操が漢中の張魯を降伏させる。
劉備は曹操を警戒し、孫権と妥協。江夏・長沙・桂陽は孫権が、南郡・武陵・零陵は劉備が領することとなる。(215年。)
劉備はその後益州に帰り、関羽も江陵県に戻った。
関羽は実質、劉備(荊州牧)の代理。官職は襄陽太守、盪寇(とうこう)将軍。また、劉備から「荊州董督」に任じられている。(劉備が牧の権限の元、設けた役職。董督は都督と同義。)関羽は教養も備え、州をしっかり引き締め、呂蒙から警戒された。
また、麋芳(びほう)が南郡太守として、江陵県に駐在。更に、南の公安県には、士仁が駐在している。(公安県は、公安郡の首都。太守は劉璋だが、実権は士仁。)両県は、長江を挟んでいる。
関羽は、この麋芳、士仁と不和だったという。関羽は気位の高さのため、人心の機微にやや疎かった。
一方、魏の曹仁が樊城を守備。(樊城は、漢水の北の城塞。襄陽郡。)また、南岸の襄陽城(襄陽郡)には、魏の呂常が駐在している。
やがて、宛県(南陽郡の首都)において、侯音(魏の将)が反乱。関羽と通じようとする。(宛県は、樊城の北東。)当時南陽郡では、軍備強化のため、圧政が敷かれていた。(太守は東里袞(とうりこん)という人物。)
侯音の支持者は多く、郡内は混乱に陥る。しかし、曹仁がこれを鎮圧し、その後樊城に帰還した。
まもなく、田豫(でんよ)が南陽太守として赴任。人々をよく慰撫し、郡内に平穏が戻る。
この田豫は、幽州の出身。策謀と人徳の人。少年期、劉備(当時公孫瓚の配下)と交流し、高く評価されたという。結局、劉備に仕える機会はなく、曹操に仕官した。
関羽の時代2
219年、関羽は軍を率いて北上し、樊城(守将曹仁)を攻撃する。また、別働隊を編成し、襄陽城(守将呂常)に進軍させる。曹操は、樊城の苦境を見て、于禁(うきん)を援軍とする。(于禁は曹仁と同等の名将。)関羽はこれを知ると、自ら迎撃に向かう。
このとき、関羽の軍は三つ。二城の包囲軍、及び于禁迎撃軍。いずれも、ある程度の大軍と思われる。関羽は豪傑として知られるが、大軍団を統率することもできた。
関羽と于禁は、初めは優劣なく対峙。その内に洪水が発生する。関羽はこれに乗じ、水軍をもって于禁を撃破した。(魏の将は水戦が不慣れ。)
曹操は、関羽に帝を奪われることを恐れ、一時遷都を考える。(当時の都は、豫州潁川郡の許県。)しかし、思い留まり、孫権と結託する。
呉の呂蒙・陸遜が荊州を攻略。(いずれも知将。)関羽は有能だったが、視野はあまり広くない。呂蒙らは巧みに関羽を油断させ、秘かに荊州各地に侵攻した。士仁、続いて麋芳が降伏。
一方、曹操は名将徐晃を遣わし、樊城に向かわせる。他にも援軍を次々送る。関羽は踏み止まろうとしたが、やがて包囲軍を破られ、麦城まで撤退した。(麦城は、江陵の北の城塞。)恐らくこの頃、襄陽の包囲も解いている。
呂蒙は占領地で、殊更に住民を懐柔。それによって、関羽の将兵の戦意を削ぐ。やがて、潘璋(呉の将)が麦城に進軍し、関羽を殺害する(219年)。
孫権は、呂蒙を南郡太守に任じる。また、宜都郡の西部を分離し、新たに固陵郡を作る。潘璋がその太守となった。(なお、漢昌郡は、長沙郡に再統合。)
呂蒙死後、諸葛瑾が南郡太守となる。(諸葛亮の兄。)誠実、堅実な性格で、人格者として知られた。
1、混乱期 2、劉表の時代 3、変動期
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