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建業は長江下流の南岸、武昌は長江上流の南岸。武昌は蜀の領土に近く、北方には洛陽(魏の首都)がある。
同221年、劉備が荊州に進軍する。五渓(武陵郡)の異民族も味方に付け、夷陵県(宜都郡)に駐屯。陸遜(呉の知将)と長期間対峙する。
翌222年、陸遜は勝機を見出し、攻勢をかける。劉備は白帝県(益州巴東郡)に撤退した。
孫権は、夷陵県を西陵県と改称。(かつて、江夏郡にも「西陵県」があったが、既に廃止。)また、孫権は、陸遜を荊州牧に任じる。(荊州の内、孫権の勢力圏は中部・南部。)駐在地は西陵県(後に武昌県に移る)。
陸遜は儒学の士でもあり、礼教を重視する。また、孫権の意思の元、蜀との関係修復に尽力した。
222年、曹丕が呉征伐に赴き、荊州、揚州を攻略。曹真・夏侯尚を江陵県に進軍させ、呉将朱然が県城を守る。しばらく攻防が続いたが、翌年曹真らは撤退した。(揚州に進軍した曹仁、曹休も、同じ頃に撤退。)
魏の曹丕が、夏侯尚を荊州牧に任じる。荊州の内、魏領は実質北部のみ。しかし、豊かな地域。
当時、漢水の北の一帯は荒廃しており、不服従民の数も多かった。(また、山岳地帯では、異民族が幅を利かせている。)領民の中には、漢水を渡り、孫権の領地に移住する者もいた。
夏侯尚は、大々的に道路を開発。軍を上庸県から西方まで進ませ、体制の盤石を領民に示す。一帯に治安が戻り、多くの者が恭順したという。
この夏侯尚は、名将夏侯淵の甥。夏侯氏は曹氏の親類。曹操の一族には、異才が多かった。
この頃、江夏郡の北部・中部は魏領。南部は呉領。魏の江夏太守は文聘で、石陽県に駐在している。郡を抜かりなく治め、関羽討伐でも功あり。
226年、曹丕が死去。同年、孫権が石陽に進軍する。しかし、文聘は隙を見せず、孫権はほどなく撤退。文聘は追撃し、これを破った。
文聘は、荊州南陽郡出身。かつては劉表に仕え、南陽に駐在し、北の国境を守っていた。長年に渡り、荊州の安定に尽力。
孫権はまた、潘濬(はんしゅん)を武昌県に置く。潘濬は陸遜と協力し、荊州の統括に当たった。
潘濬は元は関羽の部下だったが、関羽敗北後、やむなく孫権に帰服。この潘濬は、儒学の士で、政治・軍事いずれにも熟達する。その点、陸遜とタイプが似ている。(性格は陸遜より厳格。)
231年、五渓の異民族が大挙して反乱し、潘濬が討伐に当たる。(五渓とは、五つの谷の総称。)潘濬は大軍団を統率し、長期戦を制して勝利した。
一方、呉の朝廷では、呂壱(りょいつ)が横暴を振るう。
潘濬はそれを知ると、呂壱を糾弾し、朝政の改善に尽力。しばしば、陸遜と語り合い、国の行く末を案じる。やがて、孫権は呂壱を誅殺(238年)。
239年、潘濬は任地で死去する。呉は、貴重な人材を一人失った。
呂岱は、潘濬の地位を継ぎ、武昌県に赴任する。
呂岱が荊州に着任した頃、州南部はまだ不穏だった。南方は元々は未開の地で、多くの人が独自に生活していたが、孫呉政権が強引に征服。その結果、民情が安定しない。加えて、当時の孫権は朝政に失敗(呂壱の重用)。呉帝国は揺らいでおり、不服分子にとって、付け入る隙があった。
239年、廖式(呉の都督)が荊州で反乱。零陵郡に加え、蒼梧(そうご)郡(交州)、鬱林郡(交州)が混乱に陥る。
呂岱は、自ら軍を率い、鎮圧に赴く。呂岱は既に老齢で、孫権は援軍を次々送る。一年の攻防ののち、平定は完了した。
245年、陸遜(荊州牧)が死去し、子の陸抗が跡を継ぐ。
翌年、陸抗は諸葛恪と任地を交換し、諸葛恪が武昌に赴任。(陸抗は揚州紫桑県へ。)呂岱共々、荊州を統括した。
少しのち、司馬炎は羊祜(ようこ)を荊州の都督とし、襄陽郡に赴任させる。羊祜は盛んに開墾し、福祉にも力を入れ、大きな治績を挙げた。
やがて、陸抗が楽郷に赴任する。楽郷は南郡にあり、長江の南岸に位置。(恐らく、県名ではなく土地名。)陸抗はまず、楽郷城という城塞を築いた。
当時、呉王朝は混乱し、人心を失う。272年、西陵県(元夷陵県)において、呉臣歩闡(ほせん)が反乱する。羊祜がこれを援護。陸抗が歩闡の討伐に当たり、晋軍に対処しつつ、鎮圧に成功した。
羊祜と陸抗は、国境を挟んで張り合う。各々軍備を固め、互いに隙を見せない。その一方で、両者とも略奪などはせず、日々徳を競う。あるとき、陸抗は酒を送り、後に羊祜は薬を送った。
両者の関係は、故事「羊陸之交」として、長らく語り継がれる。
274年、陸抗は死去。以後、呉は人材不足となる。278年、羊祜が死去し、代わりに杜預が荊州の都督となる。羊祜の整えた軍備を引き継ぎ、機会を窺った。
杜預は、法治、財政、軍事全てに長けた人物。(馬には乗れず。)また、高名な儒学者で、取り分け「春秋左氏伝」を好んだ。
279年、司馬炎が呉攻略を開始し、杜預らが主導する。晋軍は快進撃を続け、揚州へと迫る。280年、呉は降伏し、三国が統一された。
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1、混乱期 2、劉表の時代 3、変動期
4、関羽と孫権 5、魏晋と呉
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荊州の出来事5 魏晋と呉
夷陵戦
221年、呉王の孫権が遷都。建業県から、鄂(がく)県に移転させる。(前者は揚州丹陽郡、後者は荊州江夏郡。)同時に、鄂を武昌と改称した。建業は長江下流の南岸、武昌は長江上流の南岸。武昌は蜀の領土に近く、北方には洛陽(魏の首都)がある。
同221年、劉備が荊州に進軍する。五渓(武陵郡)の異民族も味方に付け、夷陵県(宜都郡)に駐屯。陸遜(呉の知将)と長期間対峙する。
翌222年、陸遜は勝機を見出し、攻勢をかける。劉備は白帝県(益州巴東郡)に撤退した。
孫権は、夷陵県を西陵県と改称。(かつて、江夏郡にも「西陵県」があったが、既に廃止。)また、孫権は、陸遜を荊州牧に任じる。(荊州の内、孫権の勢力圏は中部・南部。)駐在地は西陵県(後に武昌県に移る)。
陸遜は儒学の士でもあり、礼教を重視する。また、孫権の意思の元、蜀との関係修復に尽力した。
222年、曹丕が呉征伐に赴き、荊州、揚州を攻略。曹真・夏侯尚を江陵県に進軍させ、呉将朱然が県城を守る。しばらく攻防が続いたが、翌年曹真らは撤退した。(揚州に進軍した曹仁、曹休も、同じ頃に撤退。)
夏侯尚と文聘
当時、漢水の北の一帯は荒廃しており、不服従民の数も多かった。(また、山岳地帯では、異民族が幅を利かせている。)領民の中には、漢水を渡り、孫権の領地に移住する者もいた。
夏侯尚は、大々的に道路を開発。軍を上庸県から西方まで進ませ、体制の盤石を領民に示す。一帯に治安が戻り、多くの者が恭順したという。
この夏侯尚は、名将夏侯淵の甥。夏侯氏は曹氏の親類。曹操の一族には、異才が多かった。
この頃、江夏郡の北部・中部は魏領。南部は呉領。魏の江夏太守は文聘で、石陽県に駐在している。郡を抜かりなく治め、関羽討伐でも功あり。
226年、曹丕が死去。同年、孫権が石陽に進軍する。しかし、文聘は隙を見せず、孫権はほどなく撤退。文聘は追撃し、これを破った。
文聘は、荊州南陽郡出身。かつては劉表に仕え、南陽に駐在し、北の国境を守っていた。長年に渡り、荊州の安定に尽力。
潘濬赴任
229年、孫権が呉王朝を開く。首都は武昌県だったが、年内に建業県に遷都。孫権はまた、潘濬(はんしゅん)を武昌県に置く。潘濬は陸遜と協力し、荊州の統括に当たった。
潘濬は元は関羽の部下だったが、関羽敗北後、やむなく孫権に帰服。この潘濬は、儒学の士で、政治・軍事いずれにも熟達する。その点、陸遜とタイプが似ている。(性格は陸遜より厳格。)
231年、五渓の異民族が大挙して反乱し、潘濬が討伐に当たる。(五渓とは、五つの谷の総称。)潘濬は大軍団を統率し、長期戦を制して勝利した。
一方、呉の朝廷では、呂壱(りょいつ)が横暴を振るう。
潘濬はそれを知ると、呂壱を糾弾し、朝政の改善に尽力。しばしば、陸遜と語り合い、国の行く末を案じる。やがて、孫権は呂壱を誅殺(238年)。
239年、潘濬は任地で死去する。呉は、貴重な人材を一人失った。
呂岱赴任
当時、呉では、呂岱が交州刺史に在任。策謀、武断をもって、州を平定した人物。清廉な性格でも知られた。呂岱は、潘濬の地位を継ぎ、武昌県に赴任する。
呂岱が荊州に着任した頃、州南部はまだ不穏だった。南方は元々は未開の地で、多くの人が独自に生活していたが、孫呉政権が強引に征服。その結果、民情が安定しない。加えて、当時の孫権は朝政に失敗(呂壱の重用)。呉帝国は揺らいでおり、不服分子にとって、付け入る隙があった。
239年、廖式(呉の都督)が荊州で反乱。零陵郡に加え、蒼梧(そうご)郡(交州)、鬱林郡(交州)が混乱に陥る。
呂岱は、自ら軍を率い、鎮圧に赴く。呂岱は既に老齢で、孫権は援軍を次々送る。一年の攻防ののち、平定は完了した。
245年、陸遜(荊州牧)が死去し、子の陸抗が跡を継ぐ。
翌年、陸抗は諸葛恪と任地を交換し、諸葛恪が武昌に赴任。(陸抗は揚州紫桑県へ。)呂岱共々、荊州を統括した。
晋成立後
265年、司馬炎が晋王朝を開き、魏王朝を引き継ぐ。少しのち、司馬炎は羊祜(ようこ)を荊州の都督とし、襄陽郡に赴任させる。羊祜は盛んに開墾し、福祉にも力を入れ、大きな治績を挙げた。
やがて、陸抗が楽郷に赴任する。楽郷は南郡にあり、長江の南岸に位置。(恐らく、県名ではなく土地名。)陸抗はまず、楽郷城という城塞を築いた。
当時、呉王朝は混乱し、人心を失う。272年、西陵県(元夷陵県)において、呉臣歩闡(ほせん)が反乱する。羊祜がこれを援護。陸抗が歩闡の討伐に当たり、晋軍に対処しつつ、鎮圧に成功した。
羊祜と陸抗は、国境を挟んで張り合う。各々軍備を固め、互いに隙を見せない。その一方で、両者とも略奪などはせず、日々徳を競う。あるとき、陸抗は酒を送り、後に羊祜は薬を送った。
両者の関係は、故事「羊陸之交」として、長らく語り継がれる。
274年、陸抗は死去。以後、呉は人材不足となる。278年、羊祜が死去し、代わりに杜預が荊州の都督となる。羊祜の整えた軍備を引き継ぎ、機会を窺った。
杜預は、法治、財政、軍事全てに長けた人物。(馬には乗れず。)また、高名な儒学者で、取り分け「春秋左氏伝」を好んだ。
279年、司馬炎が呉攻略を開始し、杜預らが主導する。晋軍は快進撃を続け、揚州へと迫る。280年、呉は降伏し、三国が統一された。
1、混乱期 2、劉表の時代 3、変動期
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