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荊州の出来事3 変動期


半端な態度
 中原では、袁紹と曹操が対立する。劉表は南方にあって、中立の立場を取ろうとする。配下の韓嵩・劉先が、「それだと双方から恨まれる」と諫言し、曹操に付くことを勧めた。
 そこで劉表は、韓嵩を許県(豫州潁川郡)に派遣し、曹操陣営の内情を観察させる。韓嵩は帰還後、曹操を称賛し、劉表は機嫌を損ねる。劉表は結局、袁紹にも曹操にも付かず。


 200年、袁紹と曹操が官渡(かんと)で対峙する。この頃、劉備は袁紹の客将。
 少しのち、劉備は劉表の元に来る。劉表はしばしば、劉備、孫乾(そんけん)を相手に談笑した。(孫乾は劉備の側近。)劉備は自由奔放な性格で、規範にこだわらないタイプだが、劉表は常々劉備を敬愛。劉表も、頭の固い儒者という訳ではない。

 一方、北方では、袁紹が病死。袁譚(長子)、袁尚(三子)が互いに争ったが、劉表はどちらの味方もせず。


 曹操は、袁譚らを一時放置し、荊州に目を向ける。劉表は、劉備を新野県(南陽郡)に駐在させ、曹操に備える。(新野県は、宛県のすぐ南西。)劉備は任地で、広く人心を得たという。
 その後、劉備は博望県(南陽郡)に駐屯し、夏侯惇(曹操の将)と対峙する。(博望県は、宛県のすぐ北東。魯陽県の南西。)兵力は恐らく、敵軍が上。劉備はやがて撤退したが、追撃軍を伏兵で破る(203年)。




黄祖と江夏郡

荊州(劉表と黄祖)



 南陽郡の南東には、江夏郡が接する。後漢時代、治所は西陵県に置かれた。

 196年、劉表は、黄祖(江夏太守)を却月城に移す。(偃月城とも呼ばれる。)場所は、郡南部の沙羨(さい)県。
 この却月城は、亀山北側の中腹にあった。亀山は漢水北岸に位置。(一方、沙羨の県城(県庁のある城)は長江南岸。)


 孫家は黄祖を仇とし、江夏郡を狙う。まずは孫策(孫堅の子)、その死後は孫権(孫策の弟)が侵攻を目論む。黄祖は、常に抜かりなく軍備を固め、孫家を長年防ぎ続けた。
 黄祖は蔡瑁、蒯越と並び、劉表陣営の重鎮。武才に関しては、三者の中で随一と思われる。
 しかし、黄祖は、短気な性格と記される(後漢書)。また、歳を重ねてのち、私欲に走ることが多く、次第に人望を失う。208年、孫権は、満を持して江夏に進軍する。やがて城を陥落させ、黄祖を討ち取り、一帯は孫家の手に落ちた。

 なお、孫堅VS劉表は、孫堅側の侵略戦争。黄祖は守将として、これと対した。仇扱いは本来理不尽だが、江南人は感情で動く上、仇討ちを好む気質がある。また、荊州攻略の足掛かりとして、長江・漢水の流れる江夏郡は要地だった。




諸葛亮登場
 襄陽城の外に、隆中(りゅうちゅう)という村があり、諸葛亮(字(あざな)は孔明)がここに住む。207年、劉備は諸葛亮を三度訪ね、配下に加える。(いわゆる「三顧の礼」。)

 諸葛亮は名族の出身で、士大夫層に人脈があり、何より非凡な才を秘めている。劉備に会うと、「天下三分の計」(隆中策とも呼ばれる)を語り、希望を持たせた。(諸葛亮は、高い見識だけでなく、相手をその気にさせる才もあった。)


 この頃、劉表の長子劉琦、次子劉琮が跡目を争う。当人達より、周りの思惑によるところが大きい。
 劉琮は蔡瑁の姉の子で、蔡瑁はこれを後押しする。蔡瑁は権勢がある上、豪気な性格。加えて、かなり狡知を備えている。同僚の張允共々、老齢の劉表に対し、ある事ない事定期的に吹き込んだ。(なお、曹丕「典論」によると、張允は劉表の甥。また、「後漢書」には「外甥(がいせい)」とある。)

 劉琦はあるとき、諸葛亮に相談する。その提案の元、劉琦は願い出て江夏太守となり、ゴタゴタから逃れる。
 赴任先の県は、恐らく西陵県。また、却月城の南(亀山南側の中腹)に「魯山城」を築いた。(当時、亀山は魯山とも呼称。)




曹操到来

荊州(劉備到来)

樊城は城塞。長阪、赤壁は土地名。他は全て県名。



 曹操は袁氏との争いを制し、河北を全て平定する。
 208年、曹操は荊州に進軍を開始。劉表はほどなく病死し、劉琮は曹操に降る。蔡瑁、蒯良、蒯越いずれも、曹操から厚遇を受ける。曹操は自ら、蔡瑁の私宅を訪問した。

 曹操は、文聘を江夏太守に任じる。(文聘は劉表の旧臣。)郡の治所は、石陽県に置かれた。
 文聘は劉表時代、州北部(南陽郡)の守将。(出身地も南陽郡。)曹操は、この文聘を江夏に置くことで、二つの郡(南陽・江夏)の連携を強化した。  
 文聘は赴任後、威光、恩恵をもって統治。領内は次第に一枚岩となる。


 当時、劉備は樊(はん)城に駐屯。(樊城は、襄陽県にある城塞。漢水の北岸。)曹操の進軍を知ると、漢水を渡って南に去る。江東(長江の東)の孫権を頼る算段。
 その後、多くの民が、劉備に同行することを望む。劉備と曹操は、人気にはっきり差があった。(曹操には、厳格、苛烈なイメージあり。)

 劉備は長阪を行軍中、曹操の追撃を受けたが、これを振り切る。(長阪は、当陽県(南郡)の中の一帯。襄陽県の南に位置。)そこへ、魯粛(孫権の使者)が到着する。
 劉備らは、漢水下流に向かい、関羽(別行動を取っていた)の船団と合流。長江の支流に入り、上陸先で劉琦(兵一万)と合流した。

 一方、孫権は、呉郡呉県(揚州)を本拠地とする。当時は、曹操に対応するため、豫章郡の紫桑(さいそう)県に駐在。(同じく揚州。)
 劉備はまず、諸葛亮を使者とし、魯粛と一緒に孫権の元に行かせる。その後、自らも孫権に会見。かくて、孫権、劉備の連合が成立した。(劉備は当時、流浪状態だったが、兵力はそこそこ保有。)


 孫権は、名将周瑜を司令官に任じ、水軍を率いさせる。周瑜は赤壁という地で、曹操の船団を撃退した(208年)。劉備も助力。
 赤壁とは、長江南岸の周辺を指す。江夏郡の最南部。沙羨城の南西に位置している。(所属県は不明。)




南郡と荊南四郡
 曹操は、名将曹仁を江陵県に留める。(江陵県は、南郡の首都。)
 208年頃、周瑜が江陵県に進軍し、曹仁と対峙する。曹仁は武威を発揮し、更に襄陽の楽進と連携。一方、関羽、張飛が周瑜に助力した。(楽進を牽制。)
 江陵の攻防は、しばらく続いたが、周瑜は次第に包囲を強める。209年、曹仁は城を脱し、周瑜は南郡太守となる。

 孫権は、劉備と協調路線を続ける。劉備は孫権により、油江口という地を与えられる。(油江口は、江陵城の対岸一帯。長江の南側で、南郡の南端部。)劉備は、この地を「公安」と改称。城塞を築き、根拠地とした。
 劉備はまた、劉琦を立て、荊州刺史とする。駐在地は、恐らく公安。


 やがて、劉備が荊州南部を攻略。(一般に「荊南」と呼称。)武陵の太守は金旋、長沙は韓玄、零陵は劉度、桂陽は趙範。(いずれも、曹操が任じたと思われる。)

 武陵は、四郡の中で最も広い。また、金旋はかつて、朝廷で文武の官を歴任。漢陽郡(涼州)で太守を務めたこともある人物。無抵抗で任地を明け渡すことはなく、劉備の軍に抗戦したが、結局敗死する。他の三つの郡も、劉備によって制圧された(戦闘があったかどうかは不明)。
 なお、建前上、劉備は「孫権の代理」。直接平定したのは劉備だが、領主はあくまで孫権で、劉備は「借りている」という形。

 その後、劉備は諸葛亮に命じ、荊南三郡(武陵以外)を治めさせる。諸葛亮は財務の手腕を発揮し、備蓄を万全にした。




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