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司隷の出来事2 辺境勢力


概括
 後漢帝国が凋落した要因として、強欲な宦官・外戚・豪族の存在がある。この点は、言うまでもない。しかし、儒者が彼等への対処を誤ったことも、要因の一つと思われる。

 後漢時代において、儒者の功績は、勿論大きい。絶えず道徳と自制を掲げ、礼教体制を確立し、搾取、争い、不正などを抑止してきた。
 しかし、学閥や派閥、家柄にこだわり、排他的に振舞う面もあった。

 各地の名家は、官界で立場を確立し、地元の農村もまとめる。一方、名家以外の豪族は、宦官・外戚と連なり、後ろ盾を獲得。次第に、地元での権勢を獲得し、横暴を発揮した。宦官滅亡後も、状況はすぐには変わらない。




異民族
 他に、異民族の問題がある。西方には、羌(きょう)族が存在し、かつて国境を荒らした。後漢初期、朝廷は討伐を実行し、一通り服従させた。

 以後、羌族は漢の内地に居住。中原出身の地方官は、羌族を差別し、過度な労役を課すなどした。(当時の儒教は、漢人中心主義。)羌族はその結果、反乱を繰り返す。これも、王朝衰退の一因となった。




董卓到来
 建国から150年以上。文化国家・後漢は、既に瓦解している。朝廷は、辺境出身の董卓の支配下。その暴政によって、洛陽は蹂躙された。
 もし、王朝の体制がしっかりしていたら、董卓もそれを壊そうとは思わなかった筈。今の朝廷は尊重する価値なし、と見たからこそ、専横を振るう意思を持ったのだろう。

 但し、董卓は最初の内は、中原の人士を結構用いている。取り分け、蔡邕(さいよう)、王允を厚遇。(前者は、高名な儒学者。後者は、優秀な官僚。)この二人に関しては、ずっと重臣として使い続けた。後漢のかつての興隆は、文化人、教養人の手による。その事実は当然重い。

 しかし、董卓は漢人・羌(きょう)族の共存地で育ち、不条理な現実を目の当たりにしてきた。羌族の暴走の要因は、後漢王朝の政治態度であり、董卓は恐らく不信感を持っていた。一方、中原の名士らも、董卓政権に好意を持っていない。
 董卓は次第に、暴虐を繰り返すようになる。




強引な遷都

司隷(董卓の時代)



 190年、董卓討伐軍が起こり、袁紹が盟主となる。曹操、袁術、各地の地方長官が参加。(また、袁術の傘下には孫堅。)
 同年、董卓は洛陽を棄て、長安遷都を強行する。このとき、洛陽から略奪し尽くし、街を焼き払い、住民は強制移住。これにより、洛陽は廃墟と化した。


 董卓は、郿(び)県に巨大な城(郿塢城)を構築する。そこに三十年分の軍糧を貯えたという。(郿県は右扶風郡にあり、長安の少し西に位置。渭(い)水の南岸。)
 一方、牛輔、李傕(りかく)、郭汜(かくし)、張済に命じ、陝(せん)県に駐屯させる。(陝県は弘農郡の北端。洛陽と長安の間に位置。)

 董卓は郿塢城を根城とし、長安と朝廷を支配する。刑罰を濫用し、民には密告を奨励。更に、質の悪い貨幣を鋳造した。


 192年、王允は呂布と結託し、董卓を殺害する。(呂布は、董卓配下の勇将。)民は大いに喜び合う。一方、蔡邕は董卓の死を知り、思わず嘆息する。それを王允に咎められ、獄死する。
 また、王允らは牛輔に対し、討伐軍を出す。牛輔はこれを撃退したが、結局部下に殺害される。




李傕到来
 王允は長安にあって、次第に専断する。王允は生粋の儒士で、時々理想が先行。行政には長けていたが、あまり政治屋というタイプではない。
 当時まだ、董卓の旧臣が内外にいたが、王允は彼等の懐柔をしない。王允は暴君を倒した救世主だが、その後の対処は万全ではなかった。

 やがて、李傕、郭汜、張済が行動を開始。涼州で大軍を集め、長安を襲撃する。同じく旧臣の樊稠(はんちゅう)が、城内から呼応。彼等は呂布を敗走させ、王允を殺害する。(以上、192年。)
 また、李傕らは、三輔(京兆尹・左馮翊郡・右扶風郡)で大略奪を行う。民の多くが生活できなくなり、しばしば流民となる。結果、三輔は廃墟となった。


 李傕ら四人は、(董卓同様、)辺境の涼州出身。取り分け李傕は、荒廃激しい北地郡の出身。粗野、狡猾な性質を強く有し、四人の中で主導権を握っている。
 また、張済はほどなく、弘農郡弘農県に移動。李傕らから距離を置き、独自に勢力を固める。

 李傕の元には、賈詡(かく)という人物あり。冷静、理知的な策士で、李傕から信任を受けている。この賈詡が人事を担当し、朝政の矯正に努めた。  




仲間割れ
 李傕、郭汜、樊稠は、長安の城邑を三分割。それぞれを管轄する。一方、張済は、東の弘農県(弘農郡の首都)に駐在。
 李傕らは、一族郎党に略奪させる。それとは別に、盗賊が発生して町を乱したが、李傕らはこれを取り締まれず。(悪政の結果、盗賊は次々生まれた。)
 なお、樊稠は勇敢な性格で、人気もあったという。(樊稠の担当区域は、ある程度秩序があったのかも知れない。)李傕は、樊稠の台頭を警戒した。

 一方、左馮翊(さふうよく)郡で羌族が反乱する。郭汜、樊稠がこれを討伐し、大勝する。(郭汜も恐らく、樊稠に匹敵する武才があった。)


 やがて、李傕は樊稠を謀殺(195年)。のちには、李傕と郭汜が仲違いする。原因は、主導権争い、及び互いの猜疑心。(また、両者は、微妙にタイプが異なる。どこか、合わない部分があったのかも知れない。)それぞれ軍をまとめ、交戦を繰り返し、長安は大いに混乱した。

 帝(献帝)は、やがて長安を脱出する。董承、韓暹(かんせん)、楊奉らがこれを補佐。(韓暹・楊奉は元黄巾。)
 李傕、郭汜は再度結託し、帝を奪還しようとする。(張済もこれに参加。)帝は苦難の末、李傕らの手を逃れ、安邑県(河東郡の首都)に到着した(195年)。
 この頃、河内郡(河東の隣の郡)の太守は張楊。(首都野王県。)張楊は武と仁で知られ、帝の一行に食糧を提供する。196年、帝は洛陽帰還を果たす。




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