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幽州の出来事1 二人の指導者


幽州の人士
 幽州は、漢帝国の北東に位置し、東西に長い。西部南は冀州と接し、東は朝鮮半島の入り口へと続く。(楽浪郡には、「朝鮮県」という県もある。)また、州の内外には異民族(烏丸、鮮卑ら)が居住している。

 州の東部(遼東郡・楽浪郡)は、漢帝国から見てほぼ異国。この一帯には、「遼東公孫氏」がおり、公孫度(こうそんたく)という人物を輩出。(この公孫氏を除けば、「三国志」の世界に関わる人物は少ない。)


 幽州の中部・西部は、中原から程よく離れている。漢の統治が及ぶ一方、自由な気風があったと思われる。
 この地域は、様々な異才を輩出した。まず、涿郡出身の劉備、張飛、盧植。また、遼西郡出身の公孫瓚。(遼東公孫氏とは、別の一族。)なお、関羽は河東郡(司隷)の出身だが、やがて涿郡に出奔した。

 盧植は謹厳な儒者で、政治・軍事双方で活躍。一時帰郷し、塾を開いて人々に教授。劉備、公孫瓚らも門下生となった。(但し、劉備は、勉強熱心ではなかったという。)
 また、劉備は地域の顔役(遊侠集団のボス)たちと通じる。自身も次第に人を集め、顔役的立場となった。




幽州の人士2
 他に、呉将の程普、韓当も幽州人。程普は、右北平郡の出身。韓当の方は、公孫瓚と同じ遼西郡。(出身県も、共に令支県。)程普、韓当は、やがて南方に流れ、孫堅に仕えた。
 孫堅は揚州出身。後に、徐州で県丞を歴任する。程普らが仕官したのは、その頃と思われる。(徐州は、幽州にやや近い。)なお、同じく古参の黄蓋は、荊州零陵郡の出身。仕官時期は恐らく、孫堅が長沙太守だった頃で、程普らよりあと。

 一方、徐栄(董卓の将)は、玄菟郡の出身。この郡は、幽州の北東部。(遼東郡の北に位置し、同じく中原から遠い。)徐栄は董卓に仕えると、非凡な武才を発揮する。


 更に、田豫(でんよ)という人物あり。漁陽郡の出身で、年少期、劉備(当時公孫瓚の傘下)に気に入られる。しかし、結局仕える機会がなく、曹操に仕官。
 この田豫は、策謀と人徳を兼備した人物。しばしば、不安定な地域に着任し、治績を挙げた。




劉虞と公孫瓚
 幽州には、二人の指導者が登場する。即ち、劉虞と公孫瓚。

 後漢の後期、劉虞は、幽州刺史に任じられる。(州都は広陽郡の薊県。州の西部。)劉虞は、正統派の儒家官僚で、皇族でもある。着任後、ひたすら仁徳をもって治める。
 領内には、烏丸族、鮮卑族が居住していた。彼等は、西方の羌(きょう)族などより、更に粗暴な性格。しかし、劉虞は彼等の信望を得たという。当時、漢人の官僚は、しばしば異民族を差別。一方、劉虞は(漢の皇族でありながら)漢人・異民族を平等に扱った。
 劉虞はやがて、甘陵国(冀州)の相(しょう)に移る。ここでも善政を敷く。


 一方、公孫瓚が、遼東属国の長史となる。(首都は昌遼県。州の東部。)属国は基本的に郡と同等だが、太守ではなく都尉が治める。長史は補佐官の長。
 公孫瓚は、義気をもって知られ、劉備とも親交があった。

 187年、張純が丘力居(きゅうりききょ)と共に反乱し、公孫瓚が討伐に向かう。(張純は地域の有力者。丘力居は烏丸の部族長。)公孫瓚は、この連合軍を撃破し、一帯を平穏にした。
 しばらくのち、張純らは再び反乱し、幽州東部を荒らす。公孫瓚はこれを破り、一帯を鎮める。その後、更に追撃したが、敵は防備を強化。双方苦戦し、引き分けとなった。




劉虞と公孫瓚2
 188年、朝廷は、劉虞を幽州牧に任じる。劉虞は一帯の異民族を慰撫し、丘力居はほどなく恭順する。張純は鮮卑に殺害される。

 その後、劉虞は、州の改革に取りかかる。
 まず、農事を基本とし、百姓を十分に援助。その一方で、塩・鉄産業に力を入れる(漁陽郡がその中心)。加えて、北方の異民族と交易(拠点は上谷郡)。自身は清貧に努め、次第に財政は充実した。


 189年、董卓が朝廷を制圧。あるとき、公孫瓚は奮武将軍に任じられ、幽州の各地を実効支配。(董卓死後、前将軍に昇進。)
 公孫瓚は、冀州の袁紹と抗争し、内政は疎かにする。儒家の名家を圧迫し、百姓も虐げる。一方、商人を重んじ、儒家への当てつけとした。(公孫瓚自身、儒学の素養があったが、有用ではないと見ていた。)


 公孫瓚は、劉虞を憎む。公孫瓚はかつて、異民族を度々破ったが、大局では鎮まらず。一方、劉虞は仁徳をもって、異民族を恭順させる。
 公孫瓚は、劉虞が異民族に使者を出す度、刺客を放って殺害する。また、劉虞が会見を求めても、公孫瓚は一切応じず。

 劉虞の居城は、州都の薊(けい)県の県城。(薊県は広陽郡に所属。)一方、公孫瓚は、県城の南東に城塞を構築し、ここに駐在した。(対袁紹の拠点。)
 193年、劉虞は公孫瓚の不意を衝き、その居城を包囲する。しかし、劉虞は「民家を荒らすな」と命じ、兵は思うように行動できない。公孫瓚は機を逃さず、逆襲に転じる。劉虞を撃破し、これを殺害(193年)。




袁紹の勝利
 劉虞は広く人望があり、公孫瓚は多くの者に恨まれる。劉虞の遺臣だけでなく、烏丸ら異民族も公孫瓚を憎む。
 袁紹は彼等と連合し、配下の麹義の軍を合流させる。195年、麹義らは鮑丘(ほうきゅう)という川の近くに布陣し、公孫瓚と対峙。大いにこれを破り、敗走させた。(鮑丘は幽州漁陽郡。)

 その後、公孫瓚は、易京に籠城する。(易京は、公孫瓚がかつて易県に築いた要塞。易県は、冀州河間郡に所属。)麹義は攻撃をかけたが、勝てずに撤退。
 199年、袁紹は攻城兵器を整え、易京に総攻撃をかける。これを攻め落とし、公孫瓚は自害した。


 この頃、袁紹が、次子袁煕(えんき)を幽州刺史とする。袁煕は着任後、烏丸族と良好な関係を保つ。




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