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チョウキ トクヨウ
張既 徳容
  
~西方の名地方官~

 魏の官僚、軍人。最初、県長として活躍。後に鍾繇(しょうよう)の補佐役を務め、関中方面への対処に当たる。やがて京兆尹、雍州刺史、涼州刺史を歴任し、統治や反乱鎮圧で活躍する。



初期
・司隷の左馮翊(さふうよく)郡出身。家柄には恵まれなかったが、容貌、振舞いに優れる。子供の頃、郡の功曹(人事官)の遊殷に招かれ、覇道、政治を論じ合う。その結果、気に入られ、子の遊楚との交友を頼まれる。

・書に巧みだったため、郡の役所で登用される。結果、家は豊かになる。しかし、名家ではなかったため、昇進するのは難しいと判断。そこで、常に上質の筆、書板を用意し、事欠いている上官がいると、必ず差し出すようにする。かくて気に入られ、郡の要職を歴任する。


・孝廉に推挙される。(孝廉とは、官僚の候補枠。)朝廷から招聘されたが、仕官せず。(時期不詳。)
・曹操(当時司空)から招聘される。到着する前に、茂才に推挙される。(茂才とは、官僚の候補枠。州が推挙。)新豊県の令に任じられる。
・新豊は、司隷の京兆にある県。張既は三輔(京兆・左馮翊・右扶風)の諸県の中で、随一の治績を挙げる。




関中鎮撫
・高幹が袁尚の指令を受け、河東郡(司隷北部)に侵入。一方で、関中の馬騰、韓遂と結託しようとする。(関中とは、長安以西の一帯。)張既は鍾繇(しょうよう)の指令を受け、馬騰らの説得に当たる。(鍾繇は曹操の配下で、関中の情勢を担当。)利害をよく説明し、味方に引き込む。高幹はやがて敗北。

・後に、高幹が再び河東を荒らす。張既は、議郎に任じられ、鍾繇の軍事行動に参与。(議郎は帝の補佐官。諸事に当たる。)高幹はやがて敗れる。


・曹操は、荊州の劉備討伐を考える。しかし、馬騰らの動きを憂慮。張既は曹操の指令を受け、馬騰に「軍を解散して上京すべし」と説得する。馬騰はすぐには、命令を聞かない。張既は諸県に命じ、軍備を整えさせた上で、郡太守を遣わして急かす。馬騰は出発を決める。
・馬超(馬騰の子)が関中で反乱し、曹操は討伐に赴く。張既はこれに随行する。曹操は勝利し、張既も戦功を挙げる。




長安復興・尚書就任
京兆尹に任命される。(京兆の尹(長官)。長安を含む地域を治める。)
・流民を招き寄せ、県や邑を復興させ、信望を得る。(一方、洛陽は、鍾繇が復興に尽力。鍾繇、張既の活躍により、司隷(中原の中心部)の態勢は万全となった。)

・曹操が魏国(漢王朝の藩国)を建国。張既は、魏国の尚書(帝の秘書官)に任じられる。




雍州時代1
雍州刺史に任じられる。
・張既の故郷の左馮翊郡は、元は司隷所属だったが、この頃は雍州に所属。赴任前、曹操は張既に、「君はまさに、故郷の州に凱旋するわけだ」と言う。(なお、雍州の治所は長安。)


・曹操が漢中(張魯の領地)に進軍し、張既は別働隊を任せられる。氐(てい)族を討伐し、麦を収穫して(本軍の)軍糧に当てる。張魯降伏後、張既は進言する。「漢中の住民数万戸を移住させ、長安一帯の人口を充実させるのがよいです。」(漢中と長安は近距離。)どれだけ実行されたかは不明。


・曹洪が下弁県(雍州の武都郡)に駐屯し、張既もこれに従う。曹洪が呉蘭(蜀の将軍)を破った際、張既も戦功を挙げる。
・夏侯淵が宋建を討伐する。張既は別働隊となり、二つの県を平定する。




雍州時代2
・曹操が河北の人口を増やそうとし、西方の住民を(河北に)移住させることを考える。住民たちは動揺し、騒乱が起きそうになる。(河北は大陸北東の地で、西方の人々にとって遠い地。)そこで、張既は、人々の慰撫に当たる。まず、部下の中から、それらの地の出身者を呼ぶ。続いて、彼等をそれぞれの故郷に帰し、家々の修復、農具の調達をさせる。結果、各地の住民は、落ち着きを取り戻したという。


・曹操が再び漢中に進軍し、劉備と対峙する。やがて撤退を考えたが、自分が去ったあと、劉備が武都の氐(てい)族と結託するのを恐れる。そこで、張既は、氐族対策を述べる。「氐族に勧め、北の穀物が豊かな地に移動させるのがよいです。また、先に到着した者に対し、厚い褒美を取らせることにします。」かくて、氐族五万人をスムーズに移住させる。(氐族は遊牧民族で、移住を常とし、土地に執着がない。それを見越しての策。)


・四つの郡(武威郡、張掖郡、酒泉郡、西平郡)が反乱し、互いに抗争する。武威郡の指導者が曹操に使者を出し、恭順を述べ、援助を要請する。張既は、曹操に放置を進言する。「彼等(武威郡の者達)は、外は我が国の威光を借り、内には不遜の心を抱いています。もし抗争に勝利したら、その後即座に背くでしょう。ここは、(四郡の)反乱勢力を勝手に争わせ、共倒れを待つべきです。」曹操はこれに同意し、事態は張既の考えた通りとなる。




涼州鎮撫1
・西方で異民族が反乱する。張既は、涼州刺史に任じられる。反乱鎮圧に当たり、夏侯儒、費曜が後続の軍となる。

・部下達は言う。「我が方の兵は少なく、道は険阻です。深入りはいけません。」張既は言う。「道は険阻だが、狭くはない。敵は雑然と集まっているだけで、計略がある訳ではない。現在、武威(涼州武威郡の県)は危急であり、ぐずぐずしていられない。」(なお、武威郡の首都は姑臧(こぞう)県。州の首都でもある。)
・黄河を渡り、進軍を続ける。陽動作戦で惑わせ、秘かに武威県に向かう。敵は驚き、南西の顕美県に撤退し、張既はこれを追う。

・持久戦を避ける。「我が軍は兵糧が少なく、敵から手に入れる必要がある。また、我が方が時間をかけて大軍を集めれば、その間に、敵は深山に撤退するだろう。それを追跡すれば、道は険しく、苦難に陥る。もし撤退すれば、敵は(山から)動きを捉え、荒らし回る。『一度敵を見逃せば、数代に渡り災厄が続く』(「春秋左氏伝」からの引用)と言われるが、まさにそういう状況になる。」

・夜間に精兵三千を出し、伏兵とする。一方、参軍の成公英(騎兵千)を出撃させ、わざと負けさせる。追ってくる敵を挟み撃ちにし、大勝を収める。




涼州鎮撫2
・酒泉郡の蘇衡が反乱し、羌族ら異民族と結託。張既は夏侯儒と共に、討伐に向かう。平定は成功し、ひとまず平穏が戻る。
・張既はその後、朝廷に軍備強化を提言する。「夏侯儒と共に城を修復し、砦を築き、のろしを上げる物見矢倉を作り、食糧庫を設置したいと思います。そうして、蛮族(羌族ら)に備えます。」結果、羌族は集落民二万を連れ、魏に降伏する。(羌族は遊牧民族で、現実主義。官が頼りになりそうなら、あえて逆らわない。)


・西平郡の麹光が反乱し、郡の太守を殺害。張既は刺史として、麹光への対処に当たる。部下達は、直ちに討伐すべきと主張。しかし張既は、討伐は避けるべきとする。まず、こう言う。「麹光が勝手に反乱しただけで、郡の者全てが同調している訳ではない。もし我々が郡を討伐したら、反乱に加わりたくない官民・羌族も、『朝廷は善悪を区別しない』と考え、麹光に強く同調する。」

・更に言う。「麹光は、羌族を頼りにしている。我々は先手を打って、羌族に麹光を襲撃させるのがよい。まず、恩賞と礼金を約束する。また、彼等が麹光の部下達を捕らえた場合、そのまま連れ去ってよいとする。」かくて、布令文を出し、羌族を懐柔。麹光は部下に殺害される。


・二州(涼州、雍州)を統治すること十年余り、政治と仁愛で評判を上げる。また、多くの人材を推挙したが、彼等は皆、後に名声を挙げる。
陳寿は劉馥、司馬朗、梁習、張既、温恢(おんかい)、賈逵(かき)をまとめて評する。「かつての刺史は、ただ監査するだけだったが、現在その職責は重い。(劉馥らは)皆仕事の機微に通達し、威厳と恩恵が共に現れ、広い地をよく引き締めた。」




鍾繇 郭淮 陳泰


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