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ガセイ コウビョウ
賀斉 公苗
  
~地方を鎮撫した名将~

 呉の将。各地で不服従民を制し、行政区画の再編も行う。また、対魏戦線でも活躍する。



会稽で活躍
・揚州の会稽郡出身。代々、官僚の家系。(なお、会稽郡は南北に広く、北部は文化が発達。賀斉の一族は、北部の山陰県(郡の首都でもある)に居住。)


・郡の役人となってのち、剡(せん)県の長を代行する。(剡県は会稽郡の北部。山陰の南東。)当時の郡太守は、誰が在任者か不明。
・県の役人の斯従(しじゅう)は、侠を好んで羽目を外す。(独自の権勢を保ち、官に従わない。)賀斉は、許容できないと考える。部下が、「斯従は豪族の出身で、山越(山地の異民族の総称)から人望があります」と述べ、制止する。賀斉は怒り、即座に斯従を殺害する。(賀斉は、豪族や山越との共存より、官による徹底統制を志向。)
・斯従の一族郎党が千人余り、県の役所を襲撃する。賀斉は役人や住民を指揮し、迎撃する。敵は敗走し、以後、山越は賀斉を警戒する。

・太末県、豊浦県で、住民が反乱を起こす。(いずれも、会稽郡の県。)賀斉は、太末県の長を代行する。反乱鎮圧に当たり、従わない者を誅殺し、従順な者を保護。一年の間に、全ての反乱を平定する。


・孫策が王朗(会稽太守)を破り、代わって太守となる。賀斉は孫策により、孝廉に推挙される。(孝廉とは、官僚の候補枠。)なお、斯従の事件、二つの県の反乱、いずれも時期不詳。王朗の時代なのか、それ以前のことなのか分からない。




会稽で活躍2
・当時、商升(しょうしょう)が侯官県の長を務める。(侯官は会稽郡の県。)商升は、王朗のために復讐を考え、軍を動かす。韓晏(かんあん)が南部都尉となり、これを討伐したが、勝つことはできず。そこで、賀斉が南部都尉に任じられ、商升の討伐に当たる。
・商升は降伏を決めたが、部下に殺害され、反乱は続く。賀斉は、味方の兵が少ないことから、ひとまず様子を見る。敵が内紛を起こすと、これに乗じて撃破する。


・孫権の時代、建安・漢興・南平で反乱が起こる。(いずれも、会稽郡の新設の県で、未開地の支配のために作られた。現地人が反発。)賀斉は、建安に都尉の役所を置き、三県の討伐に当たる。やがて平定に成功。
・この三県において、軍政を建て直し、一万人を新たに軍に組み込む。平東校尉に任じられる。(「平東」とは、東方を安んじるの意。校尉は都尉より上。)

・上饒(じょうぎょう)県の討伐に向かう。(上饒は豫章郡の県。)その地を分割し、建平県を作る。




新都太守となる
・中郎将に任じられ、丹陽郡の三県の平定に当たる。(その三県とは、丹陽県、歙(しょう)県、黟(い)県。)ほどなく、計四つの郷(県の下の行政単位)が降伏。賀斉は、その中の一つを県に取り立て、始新県と名付ける。

・その後、反乱軍の一つが山に立て籠もり、要所全てに見張りを置く。賀斉は見張りがいない所を探し、少数の兵をよじ登らせる。彼等を四方に散らし、一斉に太鼓や角笛を鳴らさせる。敵は大軍が来たと思い込み、見張りの者達は本営に戻る。そこで、下にいる本軍が一斉に進み、反乱軍は大敗する。

・上表し、提案する。「歙(しょう)県を分割し、六つの県にしたいと思います。」(つまり、元々の県城の他に、五つの城邑を作り、住民を分散させる。)
・孫権はこれに同意し、新たに新都郡を作り、この六県と始新県を下に置く。賀斉は、新都郡の太守に任じられる。(首都は始新県。)偏将軍も加官。(偏将軍とは、将軍に次ぐ指揮官。)




各地で活躍
・呉郡の余杭(よこう)県で反乱が起こり、賀斉は討伐に当たる。平定を終えると、余杭県を分割し、新たに臨水県を作る。

孫権に目通りする。任地(新都郡)に戻る際、孫権は賀斉に馬車を賜り、乗ることを命じる。賀斉は、「主君の前で車に乗るのは恐れ多い」と断る。孫権は側近に命じ、賀斉を無理に車に乗らせ、栄誉を称えつつ盛大に見送る。(孫呉政権は未開地を多く抱え、その平定は重要な課題だった。賀斉は、それに大きく貢献した。)

・豫(よ)章郡で反乱が起こり、賀斉は討伐に当たる。平定は成功し、将軍位を与えられる。併呑した敵の中から精兵を選び、新たに軍に組み込む。残りの者は、全て民籍に入れる。


・孫権が合肥(魏領)に進軍する。(守将は張遼。)賀斉もこれに随行し、活躍する。
・鄱陽(はよう)郡で反乱が起こり、周辺の数県が呼応する。陸遜がこれを平定し、賀斉も戦功を挙げる。




対魏戦線
・呂範が洞口(長江の南岸)に駐屯し、賀斉もこれに従う。魏の曹休が対岸に駐屯。
・賀斉は常々、豪奢できらびやかな物を好み、その軍の武具・船を飾り立てる。あるとき、魏軍は呉軍を劣勢に追い込んだが、賀斉の軍の威容を見て退却。少しのち、両軍とも陣を払い、引き上げる。

・後将軍、徐州牧に任じられる。(徐州は、実際は魏の領地。建前上の任命。)
・晋宗(呉の将)が魏に寝返る。賀斉は麋芳、鮮于丹を率い、これを撃破する。


陳寿は賀斉、全琮、呂岱、周魴、鍾離牧をまとめて評する。「孫権は山越の問題のために、外に対して余力がなく、魏に対し下手に出ることになったのである。(賀斉ら)諸臣はこの内患をよく処理し、国内の安定に力を注いだ。」




全琮 歩隲 呂岱


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